2021.08.19
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2021.08.19
4年に一度の祭典、オリンピック・パラリンピック。アスリートの限界に挑戦する姿、懸命に戦う姿は多くの方に勇気と感動を与えてくれます。そんなオリンピックをより楽しむために、オリンピックの歴史を通したトリビア・雑学クイズをご用意しました!まさに雑学、豆知識。きっと家族、友人、同僚などに話したくなる「へぇ~」が沢山あるはずです。
※2024年7月26日、2024年パリオリンピック大会にまつわるクイズを追加しました。
パリ2024大会、どんなドラマが待っているのか
正解:④100年ぶり3回目
パリでは1900年第2回大会、1924年第8回大会以来、100年ぶり3回目の開催。1924年から100周年ということで記念すべき大会である。なお、東京は1964年と2021年の2回開催された。
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正解:④ブレイキン
パリ2024大会ではブレイキンが唯一の新規競技。①スカッシュはロサンゼルス2028大会での新規競技、②クリケット③ラクロスはロサンゼルス2028大会の追加競技であるが、過去の大会で実施されたことがある。
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正解:①約400人
選手数は409人の予定。国外開催のオリンピックでは史上最多。日本国内で開催された東京2020オリンピックでは583人。
正解:①セーヌ川
開会式はセーヌ川で行われる。選手が船に乗りセーヌ川をおよそ6キロパレードする。下記オリンピックの開会式が競技場以外で行われるのは史上初。なお、エッフェル塔前ではビーチバレーボール、コンコルド広場ではブレイキンやスケートボードといったアーバンスポーツが行われる。
1912年ストックホルム大会マラソンスタート直前。中央が金栗
正解:④1920年第7回アントワープ大会
初めて選手宣誓が行われたのは、1920年第7回アントワープ大会。開催国ベルギーのフェンシングのビクトル・ボワンで、宣誓はフェンシングのユニフォームを着て行った。以降、オリンピックでは開催国の選手が宣誓を行うようになった。
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正解:③第1回オリンピック開催国
入場の先頭はギリシャである。つまり正解は第1回オリンピック開催国、オリンピック発祥のギリシャを先頭とすることが国際オリンピック委員会(IOC)の規定で定められている。開催国は最後、そのほかは開催国の言語表記順となっている。日本は、1964年第18回東京大会、冬季大会72年札幌、98年長野は英語アルファベット順であったが、2020年第32回東京大会では「五十音順」としている。日本独自の文化を発信する目的がある。
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日本人女性で初めてオリンピックに参加した人見絹枝(写真は、1926年第2回国際女子競技大会走り幅跳びで優勝した際の人見)
正解:②1900年第2回パリ大会、テニスとゴルフ競技で初参加した
女性が初めてオリンピックに参加したのは、1900年第2回パリ大会から。テニスとゴルフ競技で参加した。試合の際、女性はロングスカートをはいていた。これは、当時は女性が腕や足などを見せることは恥ずかしいとされていたためである。なお、パリ大会の女性参加率は約2%で、2020年東京大会では約半数になると言われている。
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人見絹枝と前畑秀子 悔しさに打ち克つ涙が、時を経て輝きを放つ
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正解:②初めて女子柔道が正式種目となったのは、1964年第18回東京大会からである。
日本のお家芸ともいえる柔道。女子柔道が正式種目となったのは意外にも遅く、1992年第25回バルセロナ大会からである。1988年第24回ソウル大会では公開競技として行われたが正式種目ではなかった。 陸上競技は第1回アテネ大会から実施されていたが、女性の参加は1928年第9回アムステルダム大会からとなる。そして、初めて日本人女性がオリンピックに参加することとなり、同時に日本人女性初のメダリストも生まれた。女子800mで人見絹枝が銀メダルに輝く。彼女は大阪毎日新聞社で働く記者でもあった。このときから、陸上競技2人目の日本女子メダリストの誕生には、1992年バルセロナ大会の女子マラソン銀の有森裕子まで、64年待つことになる。
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オリンピック日本初女子メダリスト・人見絹枝『大正デモクラシーの花』
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1912年ストックホルム大会開会式で旗手を務める金栗四三
正解:②NIPPON
東京高等師範学校校長だった嘉納治五郎にオリンピック参加の要請があったのは1909年。3年後、1912年ストックホルム大会に日本は初出場した。選手は、金栗四三と三島弥彦。入場行進、プラカードには「NIPPON」の文字。プラカードの文字表記に制限はなく、馴染みある「日本」と外国人も読める「JAPAN」で意見が分かれたが、最終的に「NIPPON」となった。ただし、実際の入場順は、「ITALY」の後、「LUXEMBOURG」の前。つまり、「JAPAN」の位置であった。以降のオリンピックのプラカードでは、「JAPAN」、「JAPON」が多い。
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正解:③テニス
第一次世界大戦による中止をはさみ、1920年、ベルギーで開催された第6回アントワープ大会。熊谷一彌がテニス・シングルスで日本初のメダル獲得となる、銀メダルに輝いた。熊谷は柏尾誠一郎と組んだダブルスでも銀メダルを獲得している。当時の日本のテニス選手は、商社や銀行の駐在員として欧米に派遣された機会を生かし国際大会に出場し腕を磨いた。熊谷は三菱合資会社銀行部に入社しニューヨーク勤務、柏尾も三井物産支店勤務で国際大会に出場していた。なお、2016年第31回リオデジャネイロ大会で錦織圭が銅メダルを獲得したが、それは96年ぶりであった。
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日本最初のメダルは「無念の」銀
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正解:②金メダル獲得時、大阪朝日新聞社運動部の記者であった
金メダル獲得時は、早稲田大学で競技に打ち込んでいた。大学卒業後、大阪朝日新聞運動部の記者となり、運動部長まで務めることとなる。新聞記者として初めてオリンピックを取材したのは、1956年メルボルン大会であった。
①であるが、織田は優勝決定後、閉会式を待たずアムステルダムを離れた(当時、メダル授与式は閉会式後に行われた)。国際学生競技大会が始まっており、これに出場するべく開催地・パリに向かったためだ。代わりに競泳200m平泳ぎで金メダルを獲得した鶴田義行が織田のメダルも受け取ったという、とても珍しい出来事である。
織田は金メダル獲得の前回1924年パリ大会には3種目で出場し、三段跳びは6位、走り幅跳び・走り高跳びは予選敗退であった。それが糧となり金メダルにつながったのかもしれない。そんな織田の功績を称え、1967年から出身である広島で、例年4月に織田幹雄記念国際陸上競技大会が開催されるようになった。
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新聞記者・織田幹雄
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初めての金メダリストに学ぶべき「純粋無垢な」思い
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正解:③もらったお守りを飲み込む
1932年ロサンゼルス大会、前畑は女子200m平泳ぎで銀メダルを獲得したが、1位とは10分の1秒差であった。その後、1936年ベルリン大会で日本人女性初の金メダルを獲得することになるが、国民の前畑に対する期待はとても大きく、想像を絶するプレッシャーが彼女をおそっていた。レースの直前、前畑は突如として紙のお守りを手にして洗面所へ行き、水と一緒に飲み込んだ。追い込まれた気持ちを落ち着かせるためには、神に頼むしか方法がなかったのだ。そして見事にプレッシャーに打ち克ち金メダルを手にした。
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人見絹枝と前畑秀子 悔しさに打ち克つ涙が、時を経て輝きを放つ
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正解:③陸上・競歩
陸上・競歩はヨーロッパ発祥であるが、それ以外は日本生まれの競技・種目である。 柔道は、「柔道の父」「日本オリンピックの父」と言われる嘉納治五郎により創設され、講道館を設立するなど、国際的にも広がった。空手は15世紀ごろに、琉球王国(現在の沖縄)で護身術として誕生したと言われている。ケイリンは日本の「競輪」がもとになっており、2000年第27回シドニー大会から正式種目となった。
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嘉納治五郎 種をまく国際人
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日本人最多個人メダルを獲得した小野喬(体操)
正解:①アニマル浜口・浜口京子 親子(レスリング)
アニマル浜口は長らくプロレスラーとして活躍したがオリンピックには出場していない。娘の浜口京子は女子レスリング72 kg級で、2004年アテネ大会、2008年北京大会と2大会連続で銅メダルを獲得した。
三宅義行は1968年第18回メキシコシティー大会、ウエイトリフティングで銅メダル。娘の三宅宏実もウエイトリフティングで、2012年ロンドン大会・銀メダル、2016年リオデジャネイロ大会で銅メダルを獲得した。
伊調姉妹はレスリングでメダルを獲得した。姉・千春は2004年アテネ大会、2008年北京オリンピック女子48kg級で銀メダル、妹・馨は、女子63g級で、2004年アテネ大会・2008年北京大会・2012年ロンドン大会、女子58kg級で2016年リオデジャネイロ大会と、4大会連続金メダルとなり、個人種目4連覇は女子選手では世界初となっている。
小野喬は体操・鉄棒で、1956年メルボルン大会・1960年ローマ大会、跳馬で1960年ローマ大会、団体総合で1960年ローマ大会・1964年東京大会と5個の金メダルを獲得した。銀メダル・銅メダルを4個ずつ獲得しており、一人で合計13個のメダルを獲得ており、これは日本人選手個人最多となっている。小野清子は1964年東京大会、体操・女子団体で銅メダルとなっている。なお、1960年ローマ大会と2大会連続で夫婦で出場し、1964年東京大会は2児の母として出場した。引退後は内閣府特命担当大臣を務めるなど、政治家として活躍した。笹川スポーツ財団・初代理事長。
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日本人最多の五輪メダル 小野喬
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次代へつなぐスポーツのバトン 小野清子
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正解:④体操・加藤澤男の金メダル8個
1968年メキシコシティー大会で、団体総合、個人総合、床運動で3個、1972年ミュンヘン大会も団体総合、個人総合、平行棒と3個、1976年モントリオール大会では団体総合、平行棒と2個、3大会合計8個の金メダルを獲得した。
野村忠宏は、柔道・男子60g級で、1996年アトランタ大会、2000年シドニー大会、20004年アテネ大会と3大会連続で金メダルに輝く。北島康介は、2004年アテネ大会で、100m・200m平泳ぎで、2008年北京大会でも100m・200m平泳ぎで優勝し、合計4個の金メダルを獲得している。吉田沙保里は、レスリング女子55kg級で、2004年アテネ大会、20008年北京大会、2012年ロンドン大会で3連覇を達成した。2016年リオデジャネイロ大会(女子53kg級)では決勝で敗れ銀メダルだった。レスリング世界選手権では、13大会連続世界一となり、2012年にギネス世界記録に認定された。
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人生をかけて歩んできたレスリング 吉田沙保里
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正解:①1964年東京大会
法華津寛は、1964年東京大会に23歳でオリンピックに初出場した。その後2008年北京大会に2回目の出場を果たすが、48年の年月をまたいでの出場となる。2021年で81歳となり、2020年東京大会も出場を目指していたが叶わなかった。
正解:③72歳
スウェーデンのオスカー・スバーンは、72歳で、1920年アントワープ大会の射撃・銀メダリストとなった。さらに、8年前の1912年ストックホルム大会では64歳で金メダルに輝いており、こちらも金メダル獲得の最年長記録となっている。なお、日本の金メダル獲得最年長記録は、蒲池猛夫が1984年ロサンゼルス大会、48歳で射撃・金メダルを獲得している。
正解:③23個
マイケル・フェルプスは5大会連続でオリンピックに出場した。2000年シドニー大会ではメダルを獲得することはできなかったが、2004年アテネ大会で6個、2008年北京大会で8個、2012年ロンドン大会で4個、2016年リオデジャネイロ大会で5個、合計23個の金メダルを獲得した。ほかに銀メダル3個、銅メダル2個、合計28個のメダルを獲得しており、個人での最多メダル獲得数でもある。
赤道ギニアの選手・ムサンバニの力泳
正解:②とても時間がかかった
選手の名前はエリック・ムサンバニ。オリンピックでは、さまざまな国で競技を発展させることを目的に、オリンピックに参加できる記録を満たしていない選手でも出場させる「特別出場枠」を設けている。ムサンバニはこの枠で出場したが、8カ月練習をして大会に臨んだが、50mプールを見るのも初めてであった。まるでおぼれているように見えたが、途中で足をつくことなく、おぼれることなく、世界記録の2倍以上の時間をかけて泳ぎ切った。
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正解:①近くの子どもに代わりに出場してもらった
種目は舵つきペア。3人のチーム制で行うのだが、出場できなくなった選手の役割はコックス(舵とり役)だった。どうするか思案したが、通りかかった地元の10歳くらいの男の子に声をかけ、コックス役を頼み出場した。結果は優勝。当時は選手個人の名前を登録する制度はないためにできた奇策であるが、優勝後、男の子は姿を消してしまった。今でも名前が分からない男の子が、歴代最年少金メダリストと言われている。
正解:④馬術
陸上競技・男子100m、女子100mなどと区別されるように、オリンピック競技は男女別で行われる。唯一、③馬術だけは男女の区別がなく順位が競われる。動物と一緒に、性別に関係なく馬と一体となり力を発揮する競技であるためだ。この馬術、第2回パリ大会から正式競技となったが、当時は軍人のみが参加していた。日本は1932年第10回ロサンゼルス大会で西竹一が金メダルを獲得するが、馬術において日本の獲得メダルはこれが唯一である。
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西竹一 不穏な時代に輝いた「破格の」男
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正解:④ボウリング
ボウリングはアジア競技大会では実施されているが、オリンピックでは行われたことはない。 ①綱引きは1900年第2回パリ大会から1920年アントワープ大会まで、②彫刻は近代オリンピックの父と言われるクーベルタンの強い希望で、芸術競技として、建築・彫刻・絵画・音楽・文学の5部門で採点により順位を競った。1912年第5回ストックホルム大会から1948年第24回ロンドン大会まで続いた。③モーターボートは、1908年ロンドン大会でのみ実施された。
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ピエール・ド・クーベルタンオリンピックの芸術と神聖
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正解:④フェンシング
第1回アテネ大会から現在まで行われている競技は「陸上」「水泳」「自転車」「体操」「フェンシング」の5競技となっている。レスリングは、第1回アテネ大会では実施されたものの、第2回パリ大会では実施されなかった。それまでは男子のみだったが、2004年第28回アテネ大会から女子も実施され、日本選手が活躍している。
正解:①大坂なおみ(テニス)
全体で大坂なおみは4位となっている。全体1位は羽生結弦(フィギュアスケート)、2位・イチロー(野球)、3位・大谷翔平(野球)と続く。②錦織圭(テニス)は6位、③池江璃花子(水泳)は7位、④八村塁(バスケットボール)は15位で、大坂、池江、八村は調査以来、初めて上位20位以内にランクインした。
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好きなスポーツ選手 (スポーツライフ・データ2020)
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正解:④サッカー
年1回以上の実施推計人口は、④サッカーが約436万人と、4競技の中で最も多い。次いで野球が約384万人、バレーボールが約290万人、バスケットボールが約218万人と続く。
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データでみる日本のスポーツ
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正解:①仕事を優先するため
オリンピアンのキャリアに関する実態調査2014によると、オリンピック選手の引退理由で最も多いのは、「仕事を優先するため」(46.0%)であった。②「年齢による体力的な問題」(45.5%)、③「自己の成績に満足したため」(18.1%)、④「けが」(14.1%)と続き、ほかには「競技を楽しめなくなったため」(8.8%)、「金銭的な問題」(6.2%)もある。ただし、「仕事を優先するため」も、男性の57.1%に対し女性が18.6%と大きな差がある。
▼関連情報
オリンピアンのキャリアに関する実態調査2014
https://www.ssf.or.jp/thinktank/governance/2014_report27.html
本クイズは、大野益弘氏(日本オリンピック・アカデミー理事)監修のもと、「オリンピック・パラリンピッククイズ(全4巻)」(小峰書店)の1「歴史編」、2「競技編」、3「人物編」より編集したものです。