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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

人見絹枝と前畑秀子
悔しさに打ち克つ涙が、時を経て輝きを放つ

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2018.11.21

昭和初期、2人の女性がオリンピックでメダルを獲得している。陸上の人見絹枝と競泳の前畑秀子だ。1907(明治40)年生まれの人見と1914(大正3)年生まれの前畑。先にメダルを手にしたのは人見だった。

岡山高女ではテニスで大活躍した人見(右)

岡山高女ではテニスで大活躍した人見(右)

小さいころから活動的でスポーツ好きだった人見絹枝は、岡山高等女学校入学とともにテニスを始めた。彼女が女学校に入学したのは1920年。この年にはベルギーのアントワープでオリンピックが行われ、テニスのシングルスで熊谷一弥がオリンピック日本選手初のメダルとなる銀メダル、ダブルスで熊谷と柏尾誠一郎のペアが同じく銀メダルを獲得している。テニスは当時の人気スポーツだったのである。

岡山高女1年生のとき、中国女子庭球大会で中国地方最強と言われた岡山女子師範学校に決勝で敗れたが、2年生の年には宿敵の女子師範に勝利し、母校に優勝旗をもたらした。このときの人見の活躍は広く知れ渡ることになり、4年生のときに陸上競技大会への出場が要請された。人見は岡山県中等学校陸上競技大会に出場、走り幅跳びでいきなり当時の日本記録をこえる4m67を跳んで優勝したのだ。記録は非公認であったが、この大ジャンプがきっかけで人見は陸上競技選手としての道を歩むことになる。

岡山高女の校長からの強い勧めで東京の二階堂体操塾(現在の日本女子体育大学)に入学した人見は、明治神宮競技大会をはじめ多くの大会に出場し、日本新記録を連発する。京都市立第一高等女学校の教員を経て、1926年4月に大阪毎日新聞社(大毎)に入社した人見は、会社の強いバックアップにより、その年の8月にスウェーデンのイエテボリで行われる第2回国際女子競技大会(第1回大会の名称は「万国女子オリンピック大会」)に派遣されることになった。これには数々の大会で優勝を経験してきた人見もさすがに驚いたようで、「大毎入社後先ず第一に起こった事は、スウェーデンの第2回万国女子オリンピック大会に出場することになりました。これこそ私にとっては、青天の霹靂とも言うべき今までにない大事件でありました」(原文のまま)と述べている(人見絹枝「炎のスプリンター」)。

人見は1926年第2回万国女子オリンピック大会走り幅跳びで優勝

人見は1926年第2回万国女子オリンピック大会走り幅跳びで優勝

だが、唯一の日本人選手として国際大会に派遣された人見は、そこで驚異的な結果を出したのである。100ヤード走3位、走り幅跳び1位、立ち幅跳び1位、円盤投げ2位。終わってみれば、個人総合1位の成績で名誉賞を受賞するという輝かしい成績を残したのだ。9月25日、岡山駅に帰ってきた人見をすさまじい数の人々が迎えた。

2年後、好調を維持したまま人見は1928年アムステルダムオリンピックに出場した。この大会では史上初めて陸上競技で女子種目が行われた。それまでのオリンピックでは、陸上競技に女子は参加できなかったのだ。そして、人見はこのとき、日本の女子選手にとって初めてのオリンピック出場をはたした。

2年前のイエテボリでは、開会式の入場行進をたった1人で歩いた人見だったが、このアムステルダムでは同じ陸上競技の織田幹雄、南部忠平、競泳の鶴田義行、高石勝男らとともに堂々と歩くことができた。選手43名・役員13名、総勢56名の大選手団である。ただ、女子選手は人見だけであった。

1928年アムステルダム大会女子800mでリナ・ラトケ(ドイツ)と競り合う人見(左)

1928年アムステルダム大会女子800mでリナ・ラトケ(ドイツ)と競り合う人見(左)

まずは女子100mの予選がある。人見は余裕をもって1位でフィニッシュした。次は準決勝だった。50mまでは先頭を走っていたが、マークしていたドイツの選手に抜かれただけでなく、アメリカ、カナダの選手にも抜かれ、4位。ここで敗退が決まってしまったのだ。まさか決勝に進出できないとは思っていなかった人見はすぐさま合宿所に戻り、食事もとらずベッドに入り、声を上げて泣いた。涙はいくらでも出てきた。厳しかった練習を思い出した。あれはいったい何だったのだ。すべての幸せに見はなされた気がした。

一晩中泣いて朝を迎えた。人見は生まれて初めて敗者になった。負けることがこんなにつらいものとは思わなかった。
「負けました!と言って日本の地を踏める身が、踏むような人間か!何物かを以て私は、この恥を雪ぎ、責任を果たさなければならない」(人見絹枝「炎のスプリンター」)
そう考えた人見は、800mへの出場を考える。当初の予定では念のため800mにエントリーはするものの、100mでメダルをとり800mは入賞すればよい、もし疲れていたらキャンセルしてもいいと考えていた。しかし、そんな状況ではなくなってしまった。800mという距離は、試合はもちろん練習すらしたことがない。だが、人見は果敢に800mに挑んだ。

そして、みごと銀メダルを獲得するのである。1928年8月2日、この日は織田幹雄が三段跳びで優勝。日本女子選手の初メダルと日本選手初の金メダルがともに生まれた記念すべき日となったのである。

新聞やラジオを通じて人見絹枝の活躍を遠く日本から見守り、まるで自分のことのように喜んでいた人物がいた。前畑秀子である。なんといっても日本人が世界一になり、そして自分と同じ女子選手が銀メダルをとった。こんなにうれしいことはなかった。この1928年に14歳で地元・和歌山県の小学校高等科に進んだ前畑は、織田と人見の活躍をまるで自分のことのように喜びながら、川に造った天然のプールに飛び込み、平泳ぎの練習に励んだ。

翌1929年、前畑は東京の大会で日本新記録をマークし、ハワイで行われる汎太平洋女子オリンピック大会女子平泳ぎの100m と200mに出場。100mで優勝、200mでは2着に入った。この初めての海外遠征を好成績で終えた前畑は、3年後のロサンゼルスオリンピックを意識するようになった。「出れば、ひょっとしたら勝てるかもしれないな」(兵藤秀子「前畑ガンバレ」)

前畑は椙山高等女学校の3年に編入、そこで厳しい練習を経験し、さらに記録を伸ばす。だが、翌年に母を病気で亡くし、その5カ月後に父を亡くしてしまう。深い悲しみのどん底に突き落とされた前畑は、かろうじて女学校に戻りふたたび練習を始めたものの、悲しみによる脱力感とトレーニングのブランクで思うようなタイムが出せなくなっていた。次々と大会に出場するが、勝てない。そんなときに声をかけてくれたのは、アムステルダムオリンピック男子200m平泳ぎで金メダルを獲得した鶴田義行だった。だが、そのアドバイスに応えることができず、不安なまま1932年を迎える。ロサンゼルスオリンピックの年だ。前畑は、オリンピックに出場するという強い意志を持ち続けた。そして選考会で3年前に自身が出した日本記録とタイとなるタイムで優勝し、みごと代表選手の座を獲得した。

1932年7月に開幕したロサンゼルス大会では、まず陸上競技の三段跳びで南部忠平が金メダル、大島鎌吉が銅メダルを獲得、南部は走り幅跳びで銅メダルも手にした。西田修平は棒高跳びで銀メダル。競泳では男子100m自由形で宮崎康二、1500m男子自由形で北川久寿雄、男子100m背泳ぎで清川正二、男子200m平泳ぎで鶴田義行、そして男子800mリレーの日本チームが金メダルを獲得した。日本のメダルラッシュである。

1936年ベルリン大会で金メダルを獲得した前畑秀子

1936年ベルリン大会で金メダルを獲得した前畑秀子

女子200m平泳ぎの前畑は天国の母に祈りながら必死で泳ぎ、フィニッシュ。このとき、3人の選手がほぼ同時にタッチしたように見えたが、記録では前畑が2着。1位とは10分の1秒の差だった。

全力で泳ぎ、銀メダルを獲得した。日本記録を6秒も縮めることができた。その満足感とうれしさで、表彰台の上の前畑の頬を涙が伝った。

しかし、意気揚々と帰国した前畑は、思わぬ出来事に遭遇する。

以下はそのときの様子を書いた前畑の著書「前畑ガンバレ」からの抜粋である。

「前畑さーん、前畑さんはどこにいるんだ?」
という声が聞こえてきました。見ると、お年よりのりっぱな方が、どうやら私をさがしているようです。
「はい、前畑でございますが」

その方は、穴のあくような目で私の顔を見ました。
「あなたが前畑さんか」

私は、その方が、私の手にした銀メダルを見て、お祝いのことばをのべてくださるのだろうと思っていました。しかしその方は、銀メダルには目もくれずに、わたしの顔をじっと見つめています。(中略)
「あなたはなぜ、金メダルをとってこなかったんかね?」

私は、あまりのことに返事もできません。(中略)
「あなたは、たった10分の1秒の差で、2着になってしまったんだろう? なぜ1着になれなかったんかね?」

その声は、まるでおこっているようでした。(中略)
「あなたは日本記録を6秒もちぢめたといいたいんだろう。でもそのくらいなら、なぜもう10分の1秒ちぢめて、金メダルをとってくれなかったんかね? わたしはそれがくやしくてくやしくてたまらないんだよ」

私はまた声も出ません。(中略)
「いいか、前畑さん、このくやしさを忘れずに、4年後のベルリンオリンピックではがんばってくれよ」

そう言い残して立ち去ったのは、東京市(現在の東京都)の永田秀次郎市長だった。前畑は天国から一気に突き落とされた気分を味わい、憂鬱な気分のまま名古屋の椙山女学校に戻った。しかし、そこに来ていた手紙の山を読むと、ほとんどが永田市長と同じ意見だったのである。
「たった10分の1秒の差で負けてくやしい」
「次のベルリンでがんばって」

高等女学校を卒業したら結婚するものと考えていた前畑は、悩み抜いたすえ、小学校のときの校長を訪ねた。
「スポーツの世界はどんどん新しい選手が誕生してくる。秀子ちゃんがベルリンでもし負けたりすると、今度ばかりは恥さらしになる。引退した方がいいかもしれないね。早くいいお嫁さんになりなさい」

それを聞いて肩の荷が下りたように思い、うれしくなった前畑は、椙山女学院の校長に、まったく反対のことを言われて、さらに迷うことになる。
「前畑さん、あと4年間がんばるんだ。やめてしまったら、卑怯者になってしまう。つらくて苦しいことかもしれないが、あんたなら必ずできるよ」

決め手となったのは、夢の中に出てきた母の言葉だった。
「秀子や、いったんやり始めたことは、どんなに苦しいことがあっても、最後までやりとげなさい」

前畑はベルリンを目指すことにした。

4年後、ベルリンへ向かう直前、前畑は金メダルをとれなかったときのことを考えていた。世界が戦争に向かって動き出している1936年、国威発揚の期待は4年前のロサンゼルス大会のときより、はるかに高まっていた。それだけ前畑に対するプレッシャーは強い。銀メダルではだめだ、金メダルでなくては許されない、そう思うと、金メダルをとれない場合は死ぬしかないと思うようになっていた。
「もし優勝できなかったら死のう、と考えたほどです。帰りの船から飛び込もうか、いや、私は泳げるから、海では死ねないのではないか、などと本気で考えたのです」(兵藤秀子「勇気、涙、そして愛」)

ベルリンでのレースの直前、前畑は突如として紙のお守りを手にして洗面所へ行き、水と一緒に飲み込んだ。追い込まれた気持ちを落ち着かせるためには、神に頼むしか方法がなかったのだ。

1936年ベルリン大会女子200m平泳ぎでドイツのマルタ・ゲネンゲル(手前)を制してトップに立つ前畑(右)

1936年ベルリン大会女子200m平泳ぎでドイツのマルタ・ゲネンゲル(手前)を制してトップに立つ前畑(右)

前畑はたいへんな重圧をはねのけて、1936年ベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎでみごと金メダルを獲得した。日本女子選手初の金メダルである。

さて、本稿では前半で人見絹枝、後半で前畑秀子の、幼少期からオリンピックに出場しメダルを獲得するまでのあらましを綴った。日本の女性として初めてオリンピックに出場し、みごとメダリストとなった人見。オリンピック2大会に連続して出場し、日本の女性として初めて金メダリストとなった前畑。

この2人の偉大な女性がそろって味わったのは、想像を絶するほど大きな重圧だった。人見においてはメダルをとれないことが、前畑においてはベルリン大会で金メダルを獲得できないことが、「日本に帰れない」あるいは「死んでしまいたい」と思うほどの大きな罪であり、「恥」であると考えたのである。

現代に生きるわれわれの感覚では、日本初の女性オリンピアンである人見は、出場するだけで十分称えられるべきものであり、ましてメダル獲得は奇跡である。前畑も競泳に初出場した日本女子選手であり1932年ロサンゼルス大会で銀メダルを獲得しただけで、十分にミッションを全うしたと考えるべきであって、次のベルリン大会での金メダル獲得は、異次元の大活躍と言っていい。

その彼女たちを当時のわが国をとりまく空気は、徹底的に追い込んだ。そういう時代だったのだ。米国の文化人類学者ルース・ベネディクトは、著書『菊と刀』の中で次のように語る。

「(日本の文化は)恥を強力な支えとしている文化」であり、「恥は強力な強制力となる」のである。そして「恥が主たる拘束力となっている場においては、おのれの過ちを打ち明けても心は休まらない」ため、言い訳など通用しない。ベネディクトは「日本の生活においては、恥が最高の地位を占めている」とまで言う。100mで決勝進出を逃すという予想外の結果に終わった人見は、その恥のため朝まで泣き続けた。ロサンゼルス大会で銀メダルを獲得し有頂天で帰国したが、東京市長や多くの国民から「残念」と言われた前畑は、そのことを大きな恥と感じたのだ。

ベルリン大会の表彰式の中央で、前畑は日の丸に頭を下げ、涙を流した

ベルリン大会の表彰式の中央で、前畑は日の丸に頭を下げ、涙を流した

かくして、人見は恥を雪ぐ=雪辱のため、それまで走ったことのない800mに挑戦し、直後に倒れるほどの凄まじい戦いの末、銀メダルを獲得する。前畑も雪辱のために4年後のオリンピックに向けてさらなる練習を積み、試合前には優勝できなかったら死のうと考え、お守りを飲み込んで泳ぎ、そして優勝した。2人の凄さは、窮地を克服して見事な結果を残したことにある。そこには心のどん底から這い上がった激烈な人生の一コマがあった。

彼女たちはその壮絶な生きざまを後に続く者たちに残した。人見の魂は、依田郁子、有森裕子に引き継がれた。前畑の心は田中聡子、青木まゆみたちに継承されていった。彼女たちが流した涙はさらに時を経て、高橋尚子や野口みずき、岩崎恭子の笑顔となって輝いた。

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。