2018.11.07
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2018.11.07
今はなき国立競技場に立っていた織田ポール
いまはなき国立競技場の第4コーナーに、この競技場が開場した1958年から幾多の名勝負を見つめ続けてきた1本のポールがあった。高さ15.21m。それが何を意味し、何のために立てられていたのか、もう知る人も少なくなっている。
「織田ポール」という。1928年、オランダのアムステルダムで開かれた第8回オリンピック、陸上競技三段跳びで織田幹雄が日本選手として初めて金メダルを獲得した。その優勝記録が15m21である。いうまでもなく、織田の偉業をたたえ、後世に残すものとして立てられたポールにほかならない。
あの1964年の東京オリンピック。大会期間中、織田ポールにはオリンピック旗がはためいた。それはまさに、日本スポーツを象徴する姿にほかならなかった。
2014年、国立競技場解体を前に、織田ポールは東京・新宿区霞ヶ丘の地を離れ、北区西が丘の国立トレーニングセンター陸上トレーニング場に移された。
2019年秋、新国立競技場が完成する。しかし織田ポールがそこに戻る予定はない。新国立競技場は2020年、オリンピック・パラリンピックのメインスタジアムとしての役割を終えると、球技専門スタジアムに改装される。もはや、織田ポールには戻る場所はない。
また一つ、日本スポーツ界は歴史を伝えるモニュメントを失う。それでよいのだろうか。オリンピックのレガシーを強調したいのなら、織田ポールは然るべきところに移し、より多くの人々の目に触れてもらうべきではないのか。寂しく思う。
1928年アムステルダムオリンピック陸上三段跳びで金メダルの跳躍
時計を1928年に戻す。織田は優勝決定後、閉会式を待たず、アムステルダムを離れた。当時、メダル授与式は閉会式後に行われたので、織田は直接、オランダ女王から金メダルを授与される栄誉は逃した。代わりに競泳200m平泳ぎで金メダルを獲得した鶴田義行が織田のメダルも受け取った。今では考えられない、いや、当時としても珍しい出来事である。
なぜ、織田はあわただしくアムステルダムを後にしたのか。
この時、国際学生競技大会が始まっており、これに出場するべく開催地・パリに向かったのである。その大会が終わると、パリから中国の大連にまわる。今度は日本とフランスとの学生対抗戦だ。ようやく日本に戻ったのは9月下旬。6月上旬に離日してから、実に3カ月半の長い転戦だった。
この後、織田は早稲田大学競走部主将となる。国内の学生選手権や早慶戦などで活躍する傍ら、1930年にはドイツ・ダルムシュタットでの国際学生競技大会を中心に、3カ月に及ぶ欧州遠征に参加している。京城(ソウル)、ハルビン、ヘルシンキ、エストニアのレバル(現タリン)、ストックホルム、オスロで試合を行い、ドイツに入った。ダルムシュタットでの大会を終えると、ベルリン、パリでも試合をし、スイスに入って初めてスキーを体験。チューリヒ、ウィーン、ワルシャワを転戦して帰国した。
注目すべきは、この間も休むことなく日記を書き続けていることである。これは県立広島第一中学校(現・国泰寺高校)時代に、オリンピック選手の野口源三郎からうけた指導を「原点ノート」として書き始めて以来の習慣だった。ただ書くのではない。競技力向上に向けた覚書といってもよい。さらに日記だけではなく、朝日新聞や毎日新聞、陸上競技の雑誌などにも遠征記を寄稿したり、手記を載せたりしている。それが織田の第2の人生を決めるきっかけとなっていったのは、必然といってもいいかもしれない。
1931年、早稲田大学卒業を前に、織田は迷っていた。朝日、毎日両新聞社から入社の誘いがあり、遅れて読売新聞社からも正力松太郎社長直々に入社を依頼されたのである。海外遠征のおりに書き送った手記が分析力に優れ、文章も巧みだと高い評価をうけていた。各社からのあまりにも激しい入社要請に困り、一時、郷里・広島に雲隠れしたこともあった。
結局、知り合いも多かった朝日新聞を選び、大阪朝日新聞運動部記者となった。
「運動部に籍を置く以上、日本一、いや世界一のスポーツ記者になる」。金メダリストの決意である。
世界一のスポーツ記者になるには、「世界のことを、他のだれよりも知らなければならない」。持ち前の探求心が頭をもたげた。当時の大阪朝日新聞運動部長は、嘉納治五郎門下生の東口真平である。東口に頼んで、ドイツ、フランス、ソ連、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、イタリア、ハンガリーなどの一般紙、スポーツ紙を取り寄せてもらい、関連記事をスクラップ、辞書を片手に読み込んでいくのだ。専門の陸上競技では世界の上位10選手の名前と記録をノートに取り、新しい記録や選手が出てくるたび、書き換えていく。そうした作業を続けるうちに、「自然と名前と記録を覚えるようになっていった」という。
「情報を整理し、データをとっていくと、世界の国の推移、記録の伸び具合、どんな選手が台頭してきそうかといったことがよくわかる。だから、国際競技会、オリンピックの予想記事を書くのが楽しくなり、また、おおかた当たるようになった」
もちろん、運動部記者は陸上競技の記事だけ書いていれば済むわけではない。大相撲や野球など、先輩記者について、いろいろな競技を取材、原稿にしていく。大相撲では決まり手が解説された付録がついた子ども雑誌を買い求め、現場でラジオ解説者、アナウンサーの横に座って実況を聞きながら覚えていった。野球はスコアブックの付け方から学び、わからない競技については専門家に話を聞いた。やがて、競技のルール、ありようがわかってくると、試合そのものの記事ではなく、「勝負のあや」「勝負の分かれ目」といった踏み込んだ分析記事まで書くようになった。
織田はいう。「競技というものは、それぞれに応じた"勝負の分かれ目"があり、それを引き込むやり方をつかまえなければならない。のちに監督・コーチとなったとき、大変役に立った」
それにしても新米とはいえ、ただの若造記者ではない。オリンピックの金メダリストであり、依然、日本のトップ選手で、すでに指導者としても理論的な教え方で定評のある人物である。その人がそこまで記者の仕事に没頭している。正直、自分の駆け出し時代を思うにつけ、仕事にそれほど食らいついていたか、恥ずかしくなる。改めて新聞記者・織田のすごさを思う。
織田が競技生活から退いたのは1932年、ロサンゼルス・オリンピックから戻ってきた直後、27歳である。
早稲田大学時代、右が織田幹雄、左は南部忠平
この年の2月初め、早稲田大学の後輩、南部忠平とふたり台湾から巡回指導に招かれた。三段跳びの試技で1回目15m55の好記録をだした。「じゃあ世界記録更新を」と、自身の記録15m58の更新をねらった2回目、思い切り踏み切ったとたん、踏み切り足の左カカトががくんと下がり、左太ももの肉離れを起こした。前日、競技場の係員が、「織田が記録を出すかもしれない」と考え、踏み切り板を掘り起こし、砂場からの距離を広げて埋め返した。その際、踏み切り板の手前がしっかりと踏み固められていなかったのである。
翌日、大阪に戻ったが、足の痛みは引かず、ツエをついて会社に通ううち、両ヒザに水がたまるまでになった。結局、5月のロサンゼルス大会最終予選会を欠場、主将兼コーチとして参加したが、出場した三段跳びは14mにも届かないまま終わった。
不本意のうちに一線を退いた織田は指導者の道を歩みだすが、陸上競技は陸上戦技に名称を変更、ただ走り、跳び、投げる姿を残すことだけに腐心していた。新聞社では運動部は体力部に名前が変わり、次第に仕事もなくなって社会部に移り、デスクとなる。戦況悪化の折、国民をはげますような紙面づくりを提案しても検閲ではねられ、やがて開催予定の1940年の東京オリンピックは返上されて、「失意と力の発揮しようのない生活」のなかで終戦を迎えた。
戦後、織田は水を得た魚のように陸上界再建に走りまわる。戦時中、東京勤務となっていた朝日新聞社では運動部長となり、まだ復興途上の日本スポーツ界の取り上げ方に知恵を絞った。
日本スポーツ界の転機は、1948年8月の全米水泳である。「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進、橋爪四郎らによる世界新記録での圧倒的な勝利だと言い換えてもいい。あの快挙によって日本スポーツ界が国際舞台への復帰を果たすのだから……。
じつはその全米水泳は、織田にとってもひとつのエポックとなったことはあまり知られていない。
全米水泳に先立つ7月、織田は連合軍総司令部(GHQ)から米国およびヨーロッパのスポーツ界視察の許可をもらい、全米水泳監督として先乗りする清川正二とともに渡米した。当時のGHQ総司令官、ダグラス・マッカーサーはかつての全米オリンピック委員会(USOC)会長であり、織田が金メダルを獲得したアムステルダム大会の米国選手団団長を務めてもいた。異例の米国視察に許可が下りた背景にスポーツ人脈があったことはいうまでもない。
織田は米国からスウェーデン、ノルウェーをまわり、再び、米国に戻った。全米水泳取材であり、ここでも人脈を生かした。ロサンゼルス-東京間の電信経路を調べて時間短縮をはかり、知人を介して記録係からいち早くレース・タイムを入手、他社に先駆けて「古橋、世界新」を報じた。号外頼りの新聞にあって、NHKラジオ放送前に勝利を通報できたことは快挙といっていい。
その織田が記者として初めてオリンピックを取材したのは1956年メルボルン大会。開幕1カ月前にメルボルン入りし、大会が始まると、連日朝6時に起床、分担して取材にあたった。
1956年メルボルンオリンピックの開会式、日本選手団の入場
国立競技場で行われたナイター陸上競技大会に62歳で出場
毎日午前中に夕刊原稿を送り、急いで昼食を済ませて、再び競技場に赴く。朝刊原稿の締め切りは時差の関係から現地時間の午前2時。すべてを済ませてベッドに入るのは午前3時だ。そしてまた、午前6時になると、目覚まし時計が夢心地を遮ってしまう。
50歳を超えた織田には試練だったと思う。しかし、彼はこう言うのだ。「強行軍でやりとげたが、疲れはあまり感じなかった。学生時代にスポーツで鍛えた体力と気力のありがたさを十二分に味わうことができた」。織田は世界一かどうか、わからないが、スポーツ記者としても超一流の存在であった。
織田は1998年12月2日、93歳で鬼籍に入った。その前々年、私は織田にインタビューした。年齢を考え、当初1時間の予定だったが、話は熱を帯び、終わってみれば2時間半がたっていた。インタビューの場所は入居先の神奈川・鵠沼の有料老人ホーム。話を聞く時間が長くなって、職員がたびたび様子を見に来たが、織田さんはかまわず話を続けた。他社ではあったが、運動部記者の来訪がうれしく、この頼りなげな小僧に新聞記者の心得を身をもって説いてやろうと思ったのかもしれない。忘れ得ない思い出である。