2017.01.23
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2017.01.23
オリンピックの長い歴史には一本の真っすぐな芯が通っている。この至上の舞台にすべてをそそごうとする競技者たちの情熱の連鎖である。それはオリンピアンからオリンピアンへと時代を超えて受け継がれていく。師から弟子へ、先輩から後輩へ、そして時には親から子へとつながっていく。しばしば登場する親子オリンピアンの姿は、オリンピックならではの
2004年アテネ大会に陸上競技コーチとして参加した室伏重信氏
親子オリンピアンを語るのには、まずこの2人から始めたい。
父・重信は26歳で迎えた1972年のミュンヘン以来、1976年のモントリオール、1984年のロサンゼルスと3大会に出場している。幻となった1980年のモスクワを含め、4大会連続で日本代表となり、40歳でアジア大会5連覇を達成した息の長さはそれだけで素晴らしいが、その競技人生をさらに価値あるものとしたのは、自らの技をひたすら磨き抜いた努力だ。
ソ連・東欧圏の巨漢たちがパワーで世界を圧倒してきたハンマー投げ。ただ、その真髄は力だけでなく、7.26kgの鉄球をワイヤーでつないだハンマーをいかに操るかという繊細な技術にもある。178 cmの体は国際舞台では最も小柄な部類でしかない。そこで技を徹底的に追求した。いかに無駄なくハンマーに力を伝えるか。限られた力でいかに遠くへ飛ばすには、どのような動きが必要なのか。こうして考え抜くうち、しだいにフォームが理想へと近づいていったのである。
競技にそそぐ情熱は熱さを増す一方で、アジアで初めて70mを超えると、幅広く技術の向上を追い求める思いはさらに加速していく。4回転投法を始めたのは30歳になってから。これでまた記録が伸びていき、ついには30代後半で75 mに達した。ベスト記録の75 m 96をマークしたのは38歳である。これは当時、アジアの選手が到達し得る限界の大記録といわれたものだ。大ベテランといわれる年齢になっても、
2004年アテネ大会の室伏広治。隣のアヌシュ(ハンガリー)の金メダルがドーピングにより剥奪され、室伏に与えられる
そんな姿を間近に見てきた広治が、父の背中を追ったのはごく自然なことだったに違いない。10歳で初めてハンマーの手ほどきを受け、中学の終わりに自分から父に指導を願い出たという。高校ですぐ頭角を現し、インターハイに優勝。中京大学に進学すると、20歳で日本人3人目となる70m超えを達成し、早くも日本選手権優勝を果たした。これは父が積み重ねてきた経験、ノウハウあってのことだろう。空ターン、すなわちハンマーを持たずに動きをつくっていく一番の基本から始まった練習。そこには、進んでいくべき道がはっきりと示されていたのである。
父の記録を超えたのは23歳の時。アジアでは限界ともいわれた記録を上回ったということは、日本選手として未知の領域に踏み込んでいくのにほかならない。そこからは、父のノウハウを基礎として、自ら新たなステップを次々と上っていくことになった。
187cmと身長には恵まれたが、若いころは欧米の選手と比べるといかにも細く見えた。その中で互角の戦いを挑むにはどうしたらいいのか。広治はやはり父と同じく、体の使い方を徹底的に追求していった。もちろん体づくりにも力を入れたが、その体をいかに動かしてよりよい投げにつなげていくかを、あらゆる角度から研究し、工夫したのだ。けっして近道ではないが、長い目で見れば確実に頂点へと近づいていける道である。
じっくり時間をかけて動きづくりをしていった成果は目覚ましいものだった。25歳で80mを超え、トップ選手の仲間入りをすると、その後は主要大会で必ず優勝争いに加わる存在となった。初めてのオリンピックとなった2000年のシドニーは9位だったものの、2001年の世界陸上では銀メダルを獲得し、2003年には28歳で84m86という快記録をマークした。これは世界歴代4位であり、ここ10年の記録としては世界2位となる。そして2004年のアテネ大会ではついに金メダルに輝いた。こうして、体の使い方をきわめるという方向性が正しかったのが、至高の舞台でみごとに証明されたのだった。
父子が残した功績の大きさははかりしれない。陸上の投てき競技で、体格のハンディを負う日本選手が頂点に立つというのは、文字通り夢のような出来事なのである。2人は、パワーだけに頼るのではなく、技と動きを突き詰め、磨き上げることでそれを可能にした。陸上のみならず、日本のスポーツ界、また体格に恵まれない世界の国々にとって、これほど貴重な実例はない。競技の世界におけるひとつの革命だと評しても、けっして言い過ぎではないだろう。
もうひとつ大事なことがある。これらが薬物から完全にクリーンな中でなし
父が切り開いて耕した未踏の地。それを土台として息子が大きく羽ばたき、さらに大きな成果をもたらした。父は3回出場。息子は4回出場。オリンピックという大目標があったからこそ、それだけのエネルギーをそそぎ続けることができたのだろう。たとえ1人では道半ばでも、オリンピックへの情熱を継承し、技を受け継いでいけば、二代にわたってこれほどのことをなし遂げられるのである。父子の姿を見ていると、オリンピックというものの「受け継いでいく力」を強く感じないではいられない。
2016年リオ大会の三宅宏実と父・義行氏
親と子のオリンピックとなると、この例もぜひ挙げておきたいところだ。
1968年メキシコシティー大会のウエイトリフティングで銅メダルを獲得している義行。伯父の義信は1964年の東京と次のメキシコシティーで2つの金を獲得している名選手。女子の歴史はまだ比較的浅いが、トップリフターの姿を間近に見ていた宏実が中学からバーベルを握ったのは、やはり自然な流れだったのだろう。
オリンピック初出場は18歳で臨んだ2004年アテネ。以来、2016年リオまで4度の出場を果たした。最初の2回は9位と6位だったが、2012年ロンドンで日本初となる銀メダルを獲得し、リオでは銅メダルを獲得した。日本で3組目となる親子メダリストの誕生である。
彼女のキャリアを振り返ってみると、若くして日本のトップに立っただけでなく、息長く、徐々に力をつけていってメダル獲得に至ったのが印象的だ。それはまさしく、世界の頂点を争った父の経験あってこそだったのではないか。また、腰痛に悩まされたリオで見せた、ここ一番での勝負強さは、伯父の義信を
どちらかといえば地味なイメージで、目立つことの少ないウエイトリフティング女子。だが、宏実の活躍は多くの後継者を引きつけるはずだ。その点でも父娘の貢献は大きいといえる。
このほか、体操では