2000年シドニーから4大会連続でハンマー投でオリンピックに出場し、2004年アテネで金メダル、2012年ロンドンで銅メダルを獲得。
日本選手権では20連覇という偉業を成し遂げるなど、日本の投てき界を牽引してきた室伏広治さん。
長きにわたって世界のトップで活躍し続けてきた背景にはどのような積み重ねがあったのか、そして現役引退をした今、日本陸上界、日本スポーツ界をどのように見ているのかについてお話をうかがいました。
聞き手/山本浩氏 文/斉藤寿子 構成・写真/フォート・キシモト
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2000年シドニーから4大会連続でハンマー投でオリンピックに出場し、2004年アテネで金メダル、2012年ロンドンで銅メダルを獲得。
日本選手権では20連覇という偉業を成し遂げるなど、日本の投てき界を牽引してきた室伏広治さん。
長きにわたって世界のトップで活躍し続けてきた背景にはどのような積み重ねがあったのか、そして現役引退をした今、日本陸上界、日本スポーツ界をどのように見ているのかについてお話をうかがいました。
聞き手/山本浩氏 文/斉藤寿子 構成・写真/フォート・キシモト
2020組織委スポーツディレクターとして日本スポーツマンクラブで講演(2015年)
―― 2014年に就任された組織委員会のスポーツディレクターというのは、どういった役割なのでしょうか?
東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会に籍を置いていますが、私の役割は、国際競技団体、国内競技団体などとの、いわゆる調整役になるかと思います。
―― 一方で、東京医科歯科大学では教授であり、スポーツサイエンスセンター長でもあります。こちらのお仕事はどういうものなのでしょうか?
通常はケガをしたアスリートが病院に行くわけですが、そうではなく、事前に予防をしてケガをしない体づくりをし、いかに長く競技生活を続けることができるか、ということを研究テーマにしながら、アスリートの支援を行っています。
―― これまでは長い間、ご自身がアスリートでした。
そうですね。ただ、私はもともとバイオメカニクスに興味があって、中京大学時代に先生に手ほどきを受け、研究を始めていました。現役中も研究にも取り組み、現役で博士号を頂くことができました。
父室伏重信氏のアメリカ在外研修時代。後ろに写っているのが広治・由佳兄妹。(小学生時代)
―― 室伏さんがハンマー投を専門にしたのは高校に入ってからですが、当時から「自分はこれでやっていくんだ」という自覚をお持ちだったのでしょうか。
高校2、3年の時には意識していたと思います。
高校に入った時は、「陸上で」という思いはありましたし、どの種目も面白いと思っていました。ただ、自分には何が合っているかは、まだ自覚していなかったですね。
―― ご自身の将来像など具体的に思い描いておられましたか?
自分の将来像というのは、幼稚園の時にはもう出来上がっていて、「ハンマー投の選手」か「大学の先生」になると思っていました。そういう意味では、結局どちらも叶えられたという事でしょうか(笑)。
成田高校3年時に日本選手権初出場(1992年)
―― 室伏さんの身体能力は、周知のところですが、ご自身で「これは他人よりも勝っているな」と感じられた身体能力はその頃からあったのでしょうか?
昔からバネはありましたね。私が高校1年の時、翌1991年の世界選手権開催のために国立競技場が改修工事中で使えなくて、千葉の天台にある陸上競技場で日本選手権が行なわれたのです。その時に、世界でも5、6番目に入るようなハンガリーの選手が、たまたま私の高校に練習に来たんです。彼はハンマー投の選手としては、どちらかというとほっそりとしていて、動きにキレのあるタイプでした。その彼と、ハンマー投の練習後に、立幅跳を一緒にやってみたら、私の方が遠くに跳べたんです。その時に、ハンガリー選手のコーチから「この子は間違いなく強くなる」と言われました。2004年のアテネオリンピックで金メダルを取った時、そのことを思い出しました。ただ、当時はほっそりとしていたので、誰も私が投てきの選手になるなんて思っていませんでした。父でさえも、考えていなかったと思います。
―― でもハンマー投で世界を制しました。
確かに細身だったのですが、ハンマー投に必要な動きが良かったことと、バネがあったということが、体格面でのマイナスを上回っていたのだと思います。後に体の方は鍛えて大きくしていったわけですが、2000年に初めて80m台を記録した時でさえも、体重は96、97キロくらいでしたからね。当時、80mを越えてくる選手というのは、体重が115キロや120キロあるのが普通で、フルスクワットは260~270キロ、フロントスクワットでも250キロとか、非常に力のある、体格の大きな選手がほとんどでした。そういった中で、私はあまり過去に例のないタイプだったと思います。ですから、最初の段階では、どの種目に向いているかどうかという判断は、とても難しかったと思いますね。
シドニーオリンピックでオリンピック初出場を果たす(2000年)
―― 高校2年からハンマー投をやるようになったとお聞きします。ご自身でも楽しさは感じておられましたか?
ハンマー投の面白さというのは、小学生の時から感じていました。父親から遊びで教えてもらったこともありましたし、テレビでオリンピックを見たり、実際に大会で見たりもしていて、ハンマー投は身近でしたからね。それこそ、モスクワ、ロサンゼルス、ソウル……とオリンピックの標準記録を暗記していて、小学生の時から「次のオリンピックでは、このくらいの記録が出るんじゃないか」なんてことを話していたんです。ですから、距離感という点においては、標準記録の数値を見るだけで理解していました。それと、父を見ていて、この数値がどれほど大変なものなのかということもわかっていました。当時は80mなんて、夢の記録だったんです。特にロサンゼルスオリンピックの時は、ソ連(現ロシア)がボイコットで出ていなかったですし、80mを超える投てきをする選手なんてまずいませんでした。
―― 室伏さんは、当時から短距離もとても速かったそうですが、それでもハンマー投に興味を持ったというのは、どういうところに面白さを感じたのでしょうか?
やはり一番は、ハンマーの球が空中を飛んでいる時間帯に魅力を感じたのだと思います。投げて、落ちるまでの間の、ハンマーの軌道が気持ちいいんですよ。うまくいった時は、あたかも自分が飛んでいっているような気がするし、何よりも投げている間というのは自分だけの時間であり、空間ですよね。遠くへ投げれば投げるほど、それが長く続くわけですから、気持ち良さは違いますよ。
室伏広治氏 インタビュー風景
―― 投げる前に、「こういう軌道を描く」というイメージは、頭の中にあるものなのでしょうか?
ある程度はあります。ハンマー投というのは、飛んでいく軌道の中で2つ通らなければいけないポイントがあります。1つは手を離れてからの5m、10m先の間口の所と、もう1つは落ちるところです。
―― その2点を結ぶ放物線を描いていく。
実際には放物線なのですが、イメージとしては少し違います。というのも、ハンマー投というのは、拡散させる動きなんですね。バケツの中に入っている水を、バーッとまくような、そんな動きです。一方でバスケットボールやゴルフというのは、一点に集める動きをしますよね。それらとは、全く逆の動きをしているわけです。つまり、ハンマーの球の軌道は点と点を結ぶ放物線なのですが、投げる側というのは、拡散する動きをしている。
アテネオリンピックで日本の投てき史上初の金メダルを獲得(2004年)
―― 高校時代、ハンマー投に対してはどういう姿勢で取り組んでおられましたか?
トレーニングなどは、聞いて教わる段階から、自分で作り上げていくという段階に移行することが大切で、高校時代はそれを獲得しようとしていた時期でしたね。言われたままやるのではなく、何か一つでも脱皮をして自分のものにしていかないと、なかなか記録が伸びなかったですね。
―― 具体的に「脱皮」したものとは何だったでしょう?
まずは人の話を聞くことだったのではないかと思います。自己が芽生えることはいい事ですが、例えば父親の話を全く聞こうとせず、実は父親はいいことを言っているのに、初めからつっぱねてしまいかねない。やはり広く意見を聞くように出来ないと、成長はしていかないものです。
―― 人の話を聞こうと思ったのは、何かきっかけがあったのでしょうか?
単純に、記録が伸びなかったからです。
―― それは我流のことではないですか?
ハンマー投に結びつかないトレーニングでは無駄に終わります。いくらトレーニングに励んでも、それが無駄なものであれば、かえって飛ばなくなるということもあり得るので、そういうことを見極めてやっていかないといけません。そういうことはすごく考えていましたが、高校時代はそれを選択する力がまだ培えるものではありません。そういうことはよく聞きながらやっていましたね。
北京オリンピックでコーチを務める室伏重信氏(右)と広治氏
(2008年)
―― 当時、誰の話により多く耳を傾けておられましたか?
高校時代は、やはり父でした。大学に入ってからはあらゆる専門の先生によく話を聞きに行っていました。体操や水泳など、まったく違う競技の指導者にも話を聞きに行きました。面白かったのは、どの先生に聞いても、「足の裏が大事だ」と言うんです。私は、空中動作である体操までが、足の裏で地面をつかむことを重視しているということに驚きました。だったら、地面に足をついているハンマー投では、なおさら大事なのではと。ですから、足の裏で地面をつかむということを徹底的にやろう、ハンマーを投げる時に、足が地面にくっ付いて離れないくらいにつかんでやろうという意識でやっていました。
―― なぜ、足の裏を意識することが重要なのでしょうか?
例えば体操の場合、鉄棒など空中姿勢で回転する時も空気を掴むようにやらないと、体の軸がブレてしまうので、上手に回転ができないそうです。水泳の場合も、手で水をつかんでいるけれど、実は足ですくって水を飲めるくらいに、足でもしっかりと水をつかんで泳いでいるそうなんです。空中運動の体操でも、水中運動の水泳でも、それほどまでに足の裏を強く意識しているものなのか、と驚きました。ほかにもバイオメカニクスの先生や、他の分野の先生にも話を聞きました。いずれにしても広範囲にわたって、話を聞くということが大事だと思いましたね。聞いたことをどのように実践していくべきかは、自分で工夫してどう活かしていくかを考える。それが一番面白いところです。
日本選手権で、リオオリンピックの切符を逃す(2016年)
―― 実際に、トレーニングの内容は変わっていきましたか?
変わりました。まずは、足の裏をつかむトレーニングをしました。最終的には足の裏で地面をつかまない方がいいのですが、ある一定のところまではつかむようにした方がいいことがわかってきました。
―― もう少し詳しくお話いただけますか?
最終的には、足の裏に紙を置いて、それをパッと抜かれても、姿勢が崩れないというのが理想で、足の裏は地面に完全に固着していない方がいい。きちんとした型を作れれば、そういう状態を実現出来るのですが、そもそもの話として、足の裏の感覚がない選手は「型」そのものが作れない。ですから、最初は少々強引でも、足の裏で地面をつかむトレーニングをしました。人間というものは意外に、手と比べて、足に対して意識が薄い。例えば足の場合、中指をつかまれても、薬指だと思ってしまったりする人は結構たくさんいると思いますよ。それくらい感覚が行き届いていない。ですから、細部にまで自分の感覚を行き渡らせるということは最初の段階で絶対必要な事なのです。最終段階においては「型」の世界になるので、今度は逆に地面をつかまない方がいいのですが、とにかくまずは自分の筋肉、感覚を全て使い切るということはどういうことなのか、体全体を使って会得する。全ての力をハンマーに込めるとか、そういう感覚を養わないと、次の段階に進むことはできないわけです。
―― さまざまな分野の先生に話を聞くことで、それまで積み上げてきたものを、一度ゼロベースにして、改めて積み上げていったというわけですね。
そうですね。改めて考えてみると、一度ゼロに戻したという表現が合っているのかもしれませんね。
―― 一度はインターハイ出場という全国レベルにまで達した選手が、ゼロベースにするというのはなかなかの勇気が必要だったのではないでしょうか?
私にとってはそれほど難しいことではありませんでした。それは、「このままでは伸びない」という危機感があったからだと思います。あとは、成功した要因は、期日を決めたことだと思います。新しいことに取り組んでも、「この期間やってみて、成果が出なければやめよう」というふうに区切りをつけていました。自分が納得するまでやってみて、それでも結果がついてこないのなら「これは自分には向いていない」と割り切ろうと考えました。そうやって、期間を決めると、力は出せるものなんです。つまり、覚悟を決めてやれるかどうかだと思います。そういうふうにしてやるようになったのは大学2年くらいだったと思います。以降は、途中でいろいろな問題が発生しても、それを一つ一つ解決しながらやれるようになりました。私にとって、大きな転換期だったと思います。
室伏広治氏 インタビュー風景
―― それ以降は、ハンマー投への探求心を楽しんでやってきたという感じだったわけですね。
なぜ、私が長く現役を続ける事が出来たのか。それは多分、どんどんやり方を変えていけたからだと思います。「これまでこのやり方でやってきたから」というふうに、いつまでも同じやり方に拘ってしまうと、新しい自分を見出すことができません。ところが、全く違う方向から、アプローチの方法を変えてやってみようとすると、人間というのは、更にその先を目指そうと頑張れるものです。
年齢を重ねると、若い時と同じ重さの物を持つことが出来なくなったり、練習量が減ったりします。そうした中で、若い選手と同じ結果を出すにはどうすればいいのか。そう考えると、練習内容の質を高めるとか、投げるフォームを変えてみたりするわけです。それって、すごく面白い。例えば、下半身を鍛えようとした時に、「どうすれば上半身に負担をかけずに鍛えられるか」を考えてみる。そういうふうに、その時に自分に合ったものにどんどん変えて競技生活を送ってきたことが、長く競技をやれた要因じゃないかと思います。
シドニーオリンピックでオリンピック初出場を果たす(2000年)
―― 初めてのオリンピックは、2000年シドニー大会でした。この時は、雨の中での投てきでしたが、いかがでしたか?
あの時はあまりの大雨で1時間くらい延期されたのですが、テントの下で待機していたら、ポーランド人の選手が私に「オマエ、雨は好きか?」と聞いてきました。私自身はそこまで雨に対して苦手意識はなかったのですが、「うーん、これだけ待たせられてるし、どうかなぁ」と何気なく答えたわけです。そしたら、その選手は「オレは雨の時に自己ベストを出したんだ!」と嬉しそうに言うわけです。それが、その選手との勝負の分かれ目だった気がします。実際、そのポーランド人の選手が金メダルを取りました。のちに振り返った時に、「あぁ、彼のように全ての状況を受け入れるということが大事なんだな」と思いました。
それと、雨に対して考え方が変わったのは、私がとても尊敬している国文学者の中西進先生の本を読んだ時でした。それまで私は、雨というのは単に空から水が落ちてきているもの、というような感覚でいました。ところが、中西先生の本には「昔から日本人は心豊かに雨を表現してきた。春雨、五月雨、梅雨、秋雨、時雨……と季節ごとに異なる雨が万葉集の中にも出てくる」というようなことが書かれてあった。それを読んだ時、「オレはなんと貧しい心で競技をしていたんだろう」と気付かされました。そこで雨に対する考え方も、ガラリと変わりました。競技中に雨が降った時も、単に「上から水が落ちてきた」というような貧しい考えではなく、「今日はどんな雨なんだろう。しとしと雨なのか、それとも下から湧き出てくるような雨なのか……」と考えるようになりました。
アテネオリンピックで日本の投てき史上初の金メダルを獲得(2004年)
―― 室伏さんは、ものの捉え方に対しても、とても柔軟で、変化を楽しんでいるところがありますね。
「競技人生の豊かさとは何なのか」ということを考えた時に、やはりものの捉え方ひとつで変わってくるものじゃないか、と思います。それこそ雨のこと一つ取っても、少し捉える感覚を変えるだけで、こんなにも豊かに贅沢に人生を歩むことができるのだなと。そのきっかけを与えてくれたのが、シドニーオリンピックでした。実際に、そのポーランド人の選手がどう雨をとらえていたかはわかりませんが、きっと彼にとっては雨というものが自分をワクワクさせるものだったと思うんです。もしかしたら、戦略の一つとして、言っていただけなのかもしれません。ただ、少なくとも当時の私よりは豊かに雨を捉えられる心を持っていたのではないかと思います。
―― 次の2004年アテネオリンピックでは、優勝したハンガリー人選手のドーピングが事後発覚して、室伏さんが金メダリストとなりました。いずれにしても世界トップレベルの実力があったわけですが、あの時がピークだったのでしょうか?
確かに記録的には一番良い時期でしたし、ある程度の経験を積んで迎えた大会で、テクニックやメンタルという点においても、とても充実していた時期だったと思います。
―― そのステージにまで上がる要因となったものは何だったと思いますか。
さきほども申し上げましたが、年齢も30歳で、体力もテクニックも経験もある程度あって、心身ともに一番充実していたのだと思います。
―― サポートという点において一番影響を受けたのは?
当時は、アメリカにスコットランド人のスチュワート・トーガーというコーチがいて、その人の指導を受けていたのですが、とても厳しい人でした。たとえ記録が伸びても、動きの部分を細かく指導するコーチで、しかも父とは全く違うアプローチでした。
室伏重信氏。ロサンゼルスオリンピックに出場。
(1984年)
―― お父さんと違うアプローチだったというのはどういうことですか?
父も含めて大半の人は、ハンマー投の軸は左と当然のように決まっているのですが、そのコーチは右に軸を置くという考え方で、真逆でした。だからそれまでとは全く違うものにチャレンジしたわけですが、それこそ目から鱗状態でした。
父は「信じられない。そんなことして大丈夫か?」と言っていましたが、やってみたら意外に、「あ、右でもできるんだ」ということがわかりました。ということは、体のどこに軸を置いても、いいのだと。ただし、重心の置き方によって、体の力の出し方が変わってくる。ですから、最終的にはどこに重心を置くのが自分にとってベストかを探しだす作業が大事になってくるわけです。
―― でも、最初は相当ぎくしゃくした動きだったのではないですか?
ベースはありましたので、ガタガタに崩れるということはありませんでした。ただ、習得するにはやはり時間がかかりました。
北京オリンピックで5位入賞を果たす(2008年)
―― トーガーコーチというのは、どんな方だったのでしょう?
オレゴン大学で練習をしていたのですが、オレゴンのさらに山奥に住んでいて、まるで仙人みたいな人でした(笑)。練習中は、選手を見ていると、まるで自分に乗り移ったかのように身を乗り出して指導するんですけど、正直、何が良くて何が悪いのかわからないこともありましたね。
初動の段階で「ダメだ」と言われて、投げる動作に入れないことがよくありました。何度も何度も同じ動作を繰り返させられましたが、あれは普通の選手は耐えられないかもしれません。私が耐えられたのは、高校時代の瀧田詔生先生のおかげだと思っています(笑)。瀧田先生は、生活の上での指導に対してもとても厳しかったですからね。
―― 2008年北京オリンピックで5位となった後、2011年の世界選手権で81m24をマークして優勝しました。あの時は、ご自身の競技人生でどういう時期、位置におられたのでしょう?
あそこで金メダルを取れるというのは、自分でも全く想像していませんでした。とにかくまずは、世界選手権の場に立てたということが素直に嬉しかったです。一度は「もうダメかな」と思った後でしたから。年齢も37歳でしたしね。「あぁ、またチャンスをもらえたな」という感謝の気持ちで臨んだ大会でした。その前の2009年の世界選手権には調子を合わせることができなくて出場出来ませんでした。そういうふうに、世界の舞台に立てないという状況も出てき始めていた時で、年齢を考えても「いつ引退の時を迎えるのか」という雰囲気の中にありました。ですから、私を含めて金メダルを取るなんて、誰も思っていなかったと思いますよ。
―― いつ頃から、自分の中で引退をお考えになったのでしょうか?
30歳を過ぎたら、アスリートは誰しもが考え始める事だと思います。ケガをしたりすれば、いつ終わるかわからないですからね。ですから、ケガだけはしないように、細心の注意を払ってやるようにしていました。
ロンドンオリンピックで銅メダルを獲得(2012年)
―― 37歳で出場した2012年ロンドンオリンピックでは銅メダル獲得という素晴らし成績をおさめました。そして、2016年の日本選手権を最後に引退を表明されました。あの日本選手権というのは、どういう気持ちで臨んだのでしょうか?
日本陸上競技連盟の計らいもあって、チャンスをいただいたわけですが、できる限り全力を尽くして、オリンピック出場につながればいいなと思っていました。でも、結果的には60m台に終わってしまいました。ただ、物事には必ず「始まり」と「終わり」があって、私の競技人生の「終わり」には、日本選手権というのは良かったんじゃないかなと思いました。一番いいかたちで終わることができたと思っています。というのも、日本の後輩たちと競い合って、目の前で私の「終わり」を見せることによって、「次は君たちの番だからな」というメッセージを語らずして示すことができたのは、あの場しかなかったですからね。
―― フィールドから離れてみて、今の日本陸上界をどう見ていますか?
リオデジャネイロオリンピックでは4×100mリレーで銀メダルを取りましたし、3年後には東京オリンピックが控えているということもいいチャンスだと思いますので、ぜひ日本中を盛り上げてほしいなと思っています。自国開催のオリンピックに出たいというのは、選手なら誰しもが思っているはずです。私だって、出たかったですよ。でも、年齢的なタイミングもありますからね。ですから、今、東京を目指すことができている選手は、その幸せを存分にかみしめて、頑張ってほしいなと思います。
リオデジャネイロオリンピック4×100mリレーで日本チームが銀メダルを獲得(2016年)
―― 一方で、選手が競技をする環境づくりにおいては、いかがでしょうか。
どの競技を見ても、やはり率先してグラウンドに立っているような熱心なコーチやスタッフがいるところは、選手が伸びていきますね。ぜひ、選手が充実したトレーニングができて、自ら成長できるような環境を整えてあげてほしいと思います。
私自身のことを振り返っても、高校時代、瀧田先生が「日本で一番いいトラックを作るからな」と言って、当時高校では珍しい立派な400mトラックを作ってくれました。ちょうど私が入学した時に完成したのですが、「こんなすごいところで練習できるのか」と嬉しかったですね。瀧田先生は、「でき得る限り、選手のために最高のものを用意してあげよう」という人だったので、選手としても「その期待に応えられるように頑張らなくちゃ」と自然と思えました。そういう環境が、私を成長させてくれたと思いますので、1人のアスリートを育てるために、指導者もとことん熱を入れてやってほしいなと思いますね。
銀座で行われたリデジャネイロオリンピック・パラリンピックメダリストパレード(2016年)
―― 最後に、2020年東京オリンピック・パラリンピックで残すべきレガシーについてはどのようなお考えでしょう?
リオではロシアのドーピング問題があり、今、世間からはオリンピック・パラリンピックには厳しい目を向けられているということも事実だと思います。ただ、その厳しい目というのは、それだけ期待されているという裏付けでもあると思います。ドーピング問題が起こったことは悲しいことですが、逆に言えば、あれだけ大きく取り上げられたというのは、スポーツへの注目度の高さが映し出されていたという面もあったと思います。
やはり、生身の人間の体の可能性というものを、みんなが純粋に見たいわけですね。それに我々は応えていかなければいけないわけですが、その力は外部から得られるものではなく、自分の内部に存在するものです。そういう姿を見て、世間の人たちも自分に可能性が秘められていることを感じられる。それこそが、無形の財産になると思います。
1911 明治44 | 国内初の陸上競技界の組織、大日本体育協会が発足 |
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1912 明治45 | ストックホルムオリンピック開催 |
1913 大正2 | 第1回全国陸上競技大会(現・日本選手権大会)を陸軍戸山学校で開催 |
1924 大正13 | パリオリンピック開催 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる |
1925 大正14 | 全日本陸上競技連盟が創設 |
1928 昭和3 | アムステルダムオリンピック開催 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得 人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得 第9回IAAF総会で大日本体育協会に代わり全日本陸上競技連盟が、陸上競技界統括団体として加盟 |
1932 昭和7 | ロサンゼルスオリンピック開催 南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 |
1936 昭和11 | ベルリンオリンピック開催 田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
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1946 昭和21 | 第30回日本選手権兼第1回国体を京都西京極競技場にて開催 (国体は以降、毎年分離開催となる)
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1950 昭和25 | IAAF総会(ブリュッセル)にて日本の国際復帰承認 第1回全国高等学校駅伝競走開催
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1951 昭和26 | 第1回アジア競技大会がニューデリーにて開催
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1955 昭和30 | 秩父宮章が制定され、70名が第1回受章者となる 平沼亮三氏、スポーツ界初の文化勲章を受章
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1958 昭和33 | 第3回アジア競技大会が国立競技場を中心に開催 |
1964 昭和40 | 東京オリンピック開催 円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
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1969 昭和44 | 日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任
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1971 昭和46 | 日本陸上競技連盟が文部省より財団法人としての認可を受ける
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1977 昭和52 | 日本陸上競技連盟がアマチュア規則を改正し、ナンバーカード広告を承認 国内史上初の「CMゼッケン」が誕生 |
1978 昭和53 | 8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催
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1979 昭和54 | 第1回東京国際女子マラソンが初のIAAF公認の女子マラソン大会として開催
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1983 昭和58 | 第1回都道府県対抗女子駅伝が京都西京極競技場で開催 世界初の国際駅伝競走となる第1回横浜国際女子駅伝を開催 第1回世界陸上競技選手権大会がフィンランド・ヘルシンキで開催 |
1984 昭和59 | 室伏重信氏、ロサンゼルスオリンピックにて日本記録を更新 |
1985 昭和60 | 第1回ワールドカップマラソン、広島で開催 |
1988 昭和63 | 第1回東芝スーパー陸上、国立競技場で開催 |
1991 平成3 | 日本陸上競技連盟の青木半治会長がIAAF副会長に選出される 第3回世界選手権大会、東京で開催 谷口浩美氏、男子マラソンで金メダル獲得 |
1992 平成4 | バルセロナオリンピック・パラリンピック開催 有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得 |
1993 平成5 | 浅利純子氏、第4回シュツットガルト世界選手権大会にて金メダル獲得 オリンピック・世界選手権大会を通じて日本人女子初の金メダルとなる
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1996 平成8 | アトランタオリンピック・パラリンピック開催 有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得 |
1997 平成9 | 第6回アテネ世界選手権大会開催 鈴木博美氏、女子マラソンで金メダル獲得 千葉真子氏、女子10,000mで銅メダル獲得
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1998 平成10 |
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2000 平成12 | シドニーオリンピック・パラリンピック開催 高橋尚子氏、女子マラソンにて日本陸上界女子初の金メダル獲得
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2001 平成13 | 第8回エドモントン世界選手権大会開催 為末大氏、男子400mハードルにて男子トラック種目初の銅メダル獲得
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2003 平成15 | 第9回パリ世界選手権大会開催 末續慎吾氏、男子200mにて男子短距離種目初の銅メダル獲得 |
2004 平成16 | アテネオリンピック・パラリンピック開催 野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得
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2005 平成17 | 第10回ヘルシンキ世界選手権大会開催 為末大氏、男子400mハードルにて銅メダル獲得 |
2007 平成19 | 第1回東京マラソン開催 エリートランナーと9万人を超す応募者から抽選で選ばれた市民ランナー3万人が参加 第11回世界選手権大会が大阪で開催される 土佐礼子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得 |
2008 平成20 | 北京オリンピック・パラリンピック開催 男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得
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2009 平成21 | 第12回ベルリン世界選手権大会開催 村上幸史氏、男子やり投にて銅メダル獲得
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2011 平成23 | 日本陸上競技連盟が公益財団法人へ移行
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2012 平成24 | ロンドンオリンピック・パラリンピック開催 中本健太郎氏、男子マラソンにて6位入賞
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