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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

冬季オリンピック 冬のスポーツと美

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2017.01.23

冬季オリンピックは美しい。スキー会場へ行けば白銀のコース。見上げれば純白の雪をいただいた山々。青空とのコントラストは感動をよぶ。スケートリンクの銀盤には、妥協を許さない上品さがある。ジャンプ台やボブスレー会場には、危険と隣り合わせのスリリングな洗練がある。

美しい白銀と青空に囲まれておこなわれる冬季オリンピック

美しい白銀と青空に囲まれておこなわれる冬季オリンピック

会場や環境ばかりではない。冬季大会では競技・種目に“美”を追求する競技、つまり採点競技が多いのである。

フィギュアスケートを筆頭に、スキーにもスノーボードにもあるハーフパイプ。フリースタイルスキーのエアリアルも同様だ。モーグルもタイムが基準の1つになっているものの、ターンとエアはジャッジの評価による。スノーボードのスロープスタイルも近い。スキージャンプは飛距離がもちろん重要ではあるが、飛型・着地姿勢がジャッジによって採点される。ノルディック複合もジャンプとクロスカントリースキーで構成されるため、採点の要素が加わることになる。

このように、冬季大会ではジャッジによる採点を、その全部あるいは一部に取り入れている種目が24にのぼる。2014年ソチオリンピックで行われた全種目数は98であり、採点がからむ種目の比率は24.5%。およそ4分の1にあたる。

ちなみに夏季オリンピックでは306種目(2016リオデジャネイロ大会)のうち採点が関係する種目は、体操競技、新体操、トランポリン、シンクロナイズドスイミングなどで、その数は28。全体の10%にも満たない。この採点競技の多さが、施設・会場や環境だけではないもうひとつの冬季オリンピックの美しさを構成していると考えていいだろう。

採点競技では、技や姿勢などの“美しさ”が評価され点数を与えられるため、演技はおのずと美しいものとなるのだが、じつはスポーツの美しさは採点競技だけにあるのではない。

陸上100mを走る選手の躍動する肉体、サッカーのフリーキックでゴールに吸い込まれるときのボールが描く放物線、柔道で大技が決まるときに相手が宙を舞う姿、野球のピッチャーが投げるときのフォームやみごとに落ちるボールの軌道、競泳バタフライの体のしなりと力強いキック、バレーボールの強烈なスパイク、バスケットボールで瞬時に行うレッグスルー、目にも止まらぬ剣道の出ばな面、卓球のチキータで不思議な曲がり方をするボールの軌道…。あらゆるスポーツに美は存在している。美しいから、かっこいいから、という理由でスポーツをはじめる子どもたちも多い。スポーツが美しいことは多くの人が認めるところである。

そこで考えてみたい。はたしてスポーツは「芸術」なのだろうか?

はじめに、美=芸術ではないということを確認しておきたい。

広辞苑によると、「美」とは、

  • うつくしいこと。うつくしさ。
  • よいこと。りっぱなこと。
  • 知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの。

…などと記されている。

つまり、それによって「うつくしい!」「すごい!」という心地よさを受けることである。

一方、広辞苑で「芸術」を引いてみると、

  • 一定の材料・技巧・様式などによる美の創作・表現。

…などとある。

すなわち、「美」をつくるための(人間による)技術が芸術なのである。

とすれば、美しいとされるスポーツも、人間による技術であることから、芸術の一種なのではないか、と思う人がいても当然である。
そう、じつは芸術とスポーツは非常に近い関係にある。そして共通する点が多い。どちらも人間の“活動”という形式をもち、私たちが行うことができる(上手かどうかは別)。見る(聞く)こともでき、大きな感動を受ける場合もあるのだ。

かつて「スポーツは芸術か否か?」という論争があった。
米国の哲学者ワーツは、人間の行う偉大な自己表現(=スポーツ)が美しいのであればそれは芸術であり、その意味で「スポーツ=芸術」であるとした。しかし、芸術が美を意図して・・・・創作・表現されるのに対して、スポーツは勝つ、得点する、記録を縮める、という目的を達成するため、意図せずに・・・・・美しさが現れることから、「スポーツは芸術ではない」と広島大学の樋口聡教授は述べる。

つまり、スポーツは美しくあろうとして美を追求するのではなく、あくまで勝利を求めて行われ、美の出現はあくまでも結果であるため、芸術とは区別されるべきである、ということである。陸上100mを走る選手の躍動する肉体が美しいからといって、彼らは美しい肉体をつくろうとしてそうなったわけではなく、100m走のタイムをいかに縮めるかを追求し激しいトレーニングを積み重ねた結果、たまたま美しい肉体ができあがったのだ。

サッカーのフリーキックを蹴る選手は、ボールが描く放物線を美しくしようとなど考えていない。ボールがゴールに入ればよいのだ。スポーツの“目的”は「勝つ」ことであって「美をつくる」ことにあるのではない。そこが芸術との決定的な相違点なのである。
こうした議論のすえ、現在は「スポーツは芸術ではない」が定説となっている。

感動的だった浅田真央ソチ大会フリーの演技

感動的だった浅田真央ソチ大会フリーの演技

では、採点競技ではどうだろう。「美」こそが目的になっているのではないだろうか。
採点競技の代表といえばフィギュアスケートである。
フィギュアスケートでは、タイムや距離、格闘技のような1対1での勝敗を競うことは一切ない。ジャッジは、選手が実行した各要素を、基礎点、回転数、レベル、GOE(できばえ点)などの合計となる「技術点」と、動作、振りつけ、スキルなどによる「演技構成点」の合計で点数(得点)をはじき出し、その得点の高い選手が上位にくる。「美」を数値化することによって、順位を決める仕組みである。

上村愛子、ソチ大会のモーグル

上村愛子、ソチ大会のモーグル

フリースタイルスキーのモーグルも同様だ。モーグルは、60点満点のターン点、20点満点のエア点、おなじく20点満点のスピード点という3つの要素の合計100点のなかで高い点を得た選手が上位となる。
このうちスピード点は機械によって計測された絶対的な数値であるが、のこりの80点を占めるターン点とエア点は、ジャッジによる採点である。選手は速く滑り降りつつ、美しいターンとエアの技術を競うのである。つまりモーグルにおいては、「美」と「スピード」が目的になっていて、そのうち「美」の比率が80点を占めていることになる。

2014年ソチオリンピックのスキージャンプ男子ラージヒルで、葛西紀明がカミル・ストッフ(ポーランド)とほんのわずかな差で2位になった。これは飛型点による差だった。「美」の数値が、葛西のほうが少しだけ低かったのだ。ジャンプでは、飛距離に加えて美しい飛型と着地姿勢が求められるのである。

そうしてみると、スポーツのなかでも採点競技に限っては「美しいこと」を目的としているため、“芸術”であると考えてよいのであろうか。

はたしてフィギュアスケートの選手は「美」を目的として競技を行っているのかどうか、考えてみたい。

フィギュアのジャンプは6種類ある。点数(難易度)が低いほうから、トウループ、サルコウ、ループ、フリップ、ルッツ、アクセルとなる。
たとえば同じ4回転の場合、トウループの基礎点が10.3であるのに対してフリップでは12.3と2点もの差がある。誰しも得点が高いに越したことはないので、跳べるものなら難易度が高いジャンプを跳びたいと考える。また、ジャンプは前半に跳ぶより疲労が激しくなる後半に跳んだほうが、得点は高くなる。したがって、選手によっては後半にジャンプを多めにする場合がある。

ところが、このような「難易度の高いジャンプを跳ぶ」ことや、「後半にジャンプを跳ぶ」ということは、「美」に直結するわけではないのである。
美しく演技するためなら、あえてバランスを崩しやすいような難しいジャンプを跳ぶことはない。半回転多いアクセルを除けば、多くの観客はジャンプの種類を判別できないのだ。また、なにも疲れている後半に跳ばなくてもいい。
つまり、難易度や疲労と戦うことは、「美」を追求しているのではなく、あくまでジャッジから高い点を得るためなのである。美しく演技する採点競技といえども、オリンピック競技における選手の目的はあくまで勝つことにつきる。フィギュアスケートにおいても「美」は最終目的ではないのである。やはり、「スポーツ=芸術」とはいえないのだ。

ソチ大会エキシビションの浅田真央

ソチ大会エキシビションの浅田真央

しかし観戦者は、選手の演技が「ジャッジに向けた得点獲得のため」であろうとそうでなかろうと、美しければ美しい、楽しければ楽しいと評価する。現にオリンピックでフィギュアスケートの日程の最後に行われるエキシビションは、競技ではないにもかかわらず、たいへんに人気がある。そこでは、選手たちは「ジャッジに向けた演技」はせず、観客のために滑る。滑りの内容は本番とあまり違わない。あるのは「採点されない」という事実である。なのに楽しく美しい。これは芸術かもしれない。

冬季オリンピックは美しい。それはスポーツが芸術であるか否かにかかわらず美しい。

(参考文献)

  • 樋口聡「スポーツは芸術か?─ワッツ-ベスト論争─」体育・スポーツ哲学研究11(1989)1.27~39
  • 樋口聡「スポーツの美学」(不昧堂出版)1987
  • 木幡順三「美と芸術の論理」(勁草書房)1980

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。