ローマオリンピックで砲丸投げに興味を持つ
USA在外研修時代
(後ろに写っているのが広治君、由佳さん)
―― 相撲取りになろうという決意は、その後もずっと持っていらしたのですか。
はい、持っていました。上京する列車まで決まっていたんです。とても行きたかったのですが、実はもう一つ、勧誘されていたことがありまして、それが陸上でした。といっても、陸上をやっていたわけじゃないんです。きっかけは1960年のローマオリンピックでした。テレビが普及し始めたころで、中学3年だった私もテレビで見ていました。
―― ローマ大会から、テレビ中継が始まりましたからね。
はい、いろいろ見ましたが、私は砲丸投げに興味を持ちました。オブライエン(米国)という選手が開発した、投げる方向に背を向けて後ろ向きにステップするあの投法が興味深くてね。
―― へえ。中学のとき、何か部活動はされていたのですか。
サッカーとバレーボールは1年生のときに始めたのですが、すぐ辞めてしまいあとはとくにやっていませんでした。それで中3になってローマオリンピックを見て砲丸投げが面白いと思って、家の近くで手頃な石を探して、砲丸投げの真似事をしてみたのです。ちょうど相撲大会で優勝したころのことです。
―― ほう。
日大三島高校時代の砲丸投げ
そのうち、本物の砲丸をどうしても投げたくなって、中学校に行きました。陸上部はなかったのですが、大会のため生徒を集めて練習会のようなものをやっていました。そこで砲丸を借りて投げてみたら、先生に「おまえ、結構行っているぞ」ということで、2週間ほど練習して、沼津市の中体連の陸上競技大会に出場して、13メートルを超えて2位になりました。
わずか2週間の練習で砲丸投げと三段跳びで好成績
―― 優勝しないところが奥ゆかしいですね。
いや、勝った種目は他にあって、それが三段跳びでした。
―― え? いつ、やっていたのですか。
それも見よう見まねですよ。2週間の練習で、左足で踏み切って左足でホップし、次に右足でステップしてジャンプということを教わって、12メートル30くらい跳びました。両方とも練習を続けて記録は伸びていき、陸上でも勧誘されていたのです。
―― 三段跳びと砲丸投げという組み合わせはよくあるのですか。
いや、まずないでしょう。でも私は千代の富士さんとは面識がありませんが、千代の富士さんもなんと砲丸と三段跳びの両方をやっていたそうですよ。そして、陸上を続けたかったのに、嫌々相撲に進んだという話を聞いたことがあります。
―― 室伏さんと逆だったのですね。
千代の富士関も足腰の強い力士でしたものね。
相撲部屋への入門は高校を出てからでも遅くない
―― 相撲に進むことを辞めたのは、陸上のためですか。
いや、私は依然として相撲部屋に行こうと思っていて、父も了承してくれていました。でも祖母が占い師に聞いて「ケガをするぞ」と言われたり、いろいろな方と相談したようなのです。そのうちに陸上の勧誘が来て、相撲は高校を出てからでも遅くはないのではないかと思うようになり、3年間みっちりと陸上で足腰を鍛えて、そのあと入門すればいいかと思い直しました。
―― 相撲をあきらめたわけではなかったのですね。結局、日大三島高校に進学されました。ハンマー投げは高校で始めたのですか。
はい、体が大きいということで投てき種目を始めました。砲丸だけでなくハンマーも円盤もです。本格的な練習を始めると、まず走ることからですよね。もう疲れてしょうがなくて、嫌になってよくさぼりました。「相撲なら疲れないのに」と何度も思いましたよ。
―― なるほど。
その割りに、当時は円盤の回転投法も知らないのに、立ち投げで40メートルとか、砲丸も記録をどんどん伸ばしていきました。
相撲よりオリンピックのほうが面白いかもしれない
ニューデリーアジア大会(1982)で金メダル獲得
―― ハンマー投げはどうでしたか
さすがに難しかった。1回転でもなかなか難しくて、ようやく2回転ができるようになったのが夏休みごろ。それで試合に出るようになりました。高校生のハンマーの重さは12ポンドです。ボウリングの球の重さで考えていただくとわかりやすいでしょうか。45~46メートルという私の記録は、当時の静岡県で4,5番でした。1年生ではインターハイには出られませんでしたが、ちょうど静岡県で全国インターハイが開催されたので観戦に行ったら、優勝記録は55メートル。「これならすぐに超えられるぞ」と思いました。
―― そう思うところがすごいなあ。
秋になって3回転を覚えてからは、記録を一気に10メートル以上伸ばし、高校チャンピオンの記録を超えたんです。そのへんから陸上も少しは面白いなと思い始めましたが、気持ちはまだ相撲のほうにありましたね。
―― なんとまあ。
1年の冬にトレーニングで地道に力をつけ、2年のインターハイは60メートル台で優勝しました。その秋には64メートル台というそれまでの高校記録を大きく破る記録を出しました。このあたりからですかね。「ひょっとすると、相撲よりオリンピックのほうが面白いかもしれない」と思い始めたのは。
―― エリートしか味わえない気分ですね。
高3のインターハイでは、ハンマー、砲丸、円盤で優勝。その翌1964年が東京オリンピックというときでした。
日本大学の2先輩とともに練習
―― ではオリンピックを手の届く目標として意識し始めて、日本大学へ進学されたのですね。
はい、でも大学入学後は大スランプになって苦しみました。ハンマーの重さが12ポンドから16ポンドになると、飛距離は10メートル以上落ちるのです。
12ポンドだった高校時代は66~67メートルを投げていましたが、16ポンドになった途端、記録は56~57メートルになりました。東京オリンピックの出場標準記録は63メートルですから、私は全く出場できるレベルにありませんでした。そこで次に狙ったのが、私が大学を卒業した年に開催されるメキシコオリンピックでしたが、それも失敗しました。
―― 僕はね、室伏さんの試合の実況をしたことがあるのですよ。広島勤務時代に、織田幹雄記念国際陸上競技大会が新設されて。1967年4月29日だったと記憶しています。
ああ、はいはい。
―― 室伏さんと、リッカーミシンの菅原武男さんと東洋工業の石田義久さんの競演でした。陸上では、ともするとフィールド競技はトラック競技の脇役的扱いになってしまうのに、この3選手がそろうとメーンイベントになるのですよね。先輩アナウンサーから、「おまえのほうが出番が多いな」と茶化されましたが、強かったし面白かったですね。
ありがとうございます。
―― 「私は室伏広治選手のお父さんの実況をしたんだよ」と話すと、皆さんから「へえー」と驚かれますよ。室伏さんはライバルに恵まれましたね。
そうですね。菅原さんは7歳上で、石田さんは1歳上。お二人とも日大の先輩なので、同じグラウンドで練習していました。菅原さんはたしか、当時、日本記録保持者でした。東京オリンピックの優勝記録がクリムというソ連の選手で69メートル74。菅原さんの記録は67メートル台でしたので、世界に近いレベルにありました。投げるだけでなく、ダッシュ、ジャンプ、ウエートトレーニングなど、その練習方法はとても参考になりました。
―― お手本がすぐ近くにいて、ライバルがいて、いい環境だったのですね。
“技”を探求し壁を打ち破る
―― 1972年のミュンヘン大会で、念願のオリンピック初出場となりましたね。
私はミュンヘン、モントリオール(1976年)、モスクワ(1980年)、ロサンゼルス(1984年)と4大会の代表になりましたが、いちばん印象深いのがこの大会です。というのは、私はメキシコ大会への挑戦が失敗する前、練習量だけで乗り越えようと猛練習をした結果、3年もの間、スランプを味わいました。菅原さん、石田さん以上の練習量をこなしましたが、それだけでは駄目でした。“心技体”と言いますが、体力と精神力には問題はないと判断していました。
―― 足りないものは“技”ということですか。
そうです、そのことにようやく気づいたのです。まだビデオのない時代、私は菅原さんや石田さんの投てきフォームは毎日見ているのに、自分のフォームを見たことがありませんでした。当時、私の選手生活は半日、会社(大昭和製紙)で勤務をして、半日を練習に充てるという毎日でした。投てきフォームを8ミリカメラでいろいろな角度から撮影して、現像するのに1週間以上かかりました。それをグラウンドにも行かず、夜中までずーっと観察して、ひたすらハンマーのことを深く考えました。
―― 何か見えてきましたか。
「ああ、こんなゴツゴツしたフォームなんだな」と。無駄なところに力が入り、地面にしっかり力を伝えられていないことに気づきました。
自分のだけでなく、菅原さん、石田さん、メキシコオリンピック金メダルのジボツキー(ハンガリー)、銀メダルのクリム(ソ連)等のフォームの比較もしました。それから3~4週間、古いフォームと訣別する意味で、私はあえてハンマーに触ることをしませんでした。そんな時間をおくっていると、いろいろアイデアが閃いてきて、違う世界が見えてくる。そこでようやくグラウンドに行き、感じたままに体で表現してみることで、初めてフォームが改善されていったのです。
―― スポーツとはアイデアと閃きを体現することである、と。
はい、そうやって自分の壁を破り、そこからが私の真のスタートとなりました。
―― 大きな壁にぶつかり打ち破ったことは、貴重な体験だったのですね。
その経験がなければ、指導者としての私はいませんでしたし、息子や娘の指導もできなかったでしょうね。
つまるところ「いかに楽に遠くへ飛ばすか」
―― その試行錯誤の中から、新たな投てきフォームが誕生したのですか。
ええ、若い選手は力だけに頼りがちですが、力まかせでは外国の体格の大きな選手たちに太刀打ちできません。ですから、もっと体の反動を上手に利用しようと思いました。体をひねってひねり戻す力と、体を移動しながら倒れていく力の利用。地面の反発力を高めるための姿勢と重心の位置。最後に、振り切るときに左半身をブロックして投げること。この4つを組み合わせながら技術の探究を進めていきました。
ロサンゼルスオリンピック(1984)での投てき
―― ほう、4つのポイントがあるのですね。
上りエスカレーターに乗りながらさらに歩いていくとか、ヨットで帆に風を受けて進むのと同じような、外部の力を上手に取り入れる理論が活用できるのではないかと思ったのです。
手や腕は、力を入れると疲れてきつくなっていきます。でも体幹はかなり使ってもきつさをあまり感じません。要は「いかに楽をして遠くへ飛ばすか」を追い求めればよいのですが、それはすなわち「いかに腕に頼らず体幹でコントロールするか」という結論に至ったわけです。
―― ふうむ、自分の持っている体力を無駄なく上手に転化させて遠くに飛ばす技術につなげる。それが最高の部分で融合すると新たな記録が生まれるということでしょうか。それが広治さんにも受け継がれたのですね。
陸上競技がどのスポーツよりも難しい理由
私はね、陸上競技はどんなスポーツより難しいなと思うんですよ。あるいは、民族の戦いだなと。だって走ることにおいては、完全に黒人選手が有利です。
―― それはそうですね。
北京オリンピックのときは、男子は100メートルに始まってマラソン、さらにハードルや3000メートル障害そしてリレーにいたるまで、優勝者は全部黒人選手でした。
―― たしか1960年のローマ大会で優勝したアルミン・ハリー(西ドイツ)は白人選手でした。
ミュンヘン大会(1972年)の優勝者ボルゾフ(ソ連)も白人選手でしたが、それ以外、圧倒的に黒人選手が有利ということですよ。その原因は、体形から来ていると思っています。頭が小さく、手足が長いことに加え、一番重要なのは、重心が前のほうに来ているのです。つまり、臀(でん)筋が発達しているのですよね。
―― 臀(でん)筋というのは?
お尻の部分の筋肉です。我々は絶えず重力に対して反発し行動しているのですから、足を一歩前に踏み出したときに、うまく前脚に重心が乗ることにより踏ん張る力が大きくなるのです。今、高校生の桐生祥秀選手に100メートル10秒切りの期待がかかっていますが、世界では10秒の壁を破った選手は何名いると思いますか。
―― うーん、どのくらいでしょう。
手動計時の時代に9人いて、電動計時になってからは89人ほどいます。それほど多くいるのに、白人選手は、フランスのクリストフ・ルメートルただ一人。黄色人種はおりません。ここを科学していかなければいけませんね。日本選手との違いを分析して補っていこうとすれば、大ざっぱに言えば重心を前にもってくるために背筋を強化することが考えられます。これが跳躍種目になると、黒人選手と白人選手の割合は同じぐらいなんですよ。
―― ほう。
棒高跳びは黒人選手は少ないですが、それ以外の種目は男女含めて半々ぐらいですね。白人選手が優位にある投てき種目になると、今度は白人選手が圧倒的に多いのです。
―― ああ、そうですね。なぜですか。
まず筋肉の量なんですよ。筋の横断面積1平方メートルあたり大体4~6キロの出力をします。筋肉の量が圧倒的に多いのは白人選手と黒人選手ですが、種目で差が出るのは、黒人選手は感覚のデリケートさが求められる種目は意外とよくないんです。リズム感は優秀なはずですが、競技においては少々雑なんですよ。ですからハンマーみたいに緻密さが求められる種目は難しいようなのです。
―― ああ、なるほど。
円盤投げでは、世界のトップクラスは平均身長2メートルほどもある白人選手です。何よりリーチが長い。そう考えると、黄色人種は不利ですよね。
―― 心と技がそろっても体格面のハンディキャップは補いきれない部分がある。そこが陸上競技の難しさなのですね。
4回転投法に取り組んだのは30歳を過ぎてから
―― 室伏さんが3回転から4回転に切り換えたのはいつごろでしたか。ずいぶん話題になりましたよね。
ニューデリーアジア大会(1982)での投てき
モントリオール大会(1976年)の1年前ですから、30歳を過ぎてからです。私は70メートルを初めて超えたころは、まだ3回転投げだったのですが、コンスタントにあと2~3メートル伸ばしたいと考えて取り組みました。菅原さんも、1964年に東京オリンピックに出場した岡本登さんもやってはいましたが、サークルから足が出てファウルになるリスクが避けられませんでした。私は回転しろと言われれば10回転でもできますが、それだと投げた瞬間にスピードが落ちてしまうのです。4回転の技術は、時間をかけて確立していきました。
―― 39歳にして日本記録を更新できた秘訣はそこにあったのですね。
ハンマー投げを通して自らを高めていく喜び
―― 40歳でアジア大会5連覇を果たしたときはもう満身創痍だったそうですが、そこまでハンマー投げを続けていらした喜びはどこにあったのでしょう。
私のころはアマチュアでしたから、ハンマー投げはお金にはなりませんでした。地位や名誉のためでもなく、ただひたすらハンマーを通して自分を高めていく喜びを突き詰めていましたね。
―― きょうのお話の中にもたくさん出てきましたが、調べてみると室伏さんにはたくさんの明言があるのですよね。
「先を行くライバルがどうしてうまくいっているか分析して自分のものにする」、「スランプは大切なこと」、「指導者は教え子に考えさせろ」、このあたりはきょうのお話の中で語っていただけた部分でしょう。もう一つ、「昔を振り返らず、先を考えていく」というのもあります。
ああ、物事すべてがそうですね。私は前しか見ていません。過去の出来事で参考になる部分は活用します。でも過去を振り返ることはしません。ですから、私にはストレスはあまりないですね。振り返らないから後悔もしない。これからの生き方、ハンマーの動きをこうすればまだいくんじゃないかなど、ひたすら前を見て次のことを考えるのが面白いのです。
広治選手の将来
―― 広治くんの話に戻りますが、私は将来的に彼には陸上界にとどまらず、日本のスポーツ界を率いていくリーダーシップを期待しているのですが、父親の目から見ていかがでしょう。
どうなんでしょう。どんなかたちであってもスポーツに携わっていくことは間違いないと思うんですね。私としてはもう無難に無理せず生きてもらいたいところですが、まあ、本人には野心があるかもしれません。私はそういうことがあまり好きではないので、よくわかりません。
―― IOC(国際オリンピック委員会)委員就任のチャンスもありますし。いろいろなインタビューを聞いていると、広治くんは意外とユーモアがありますよね。非常に魅力あふれる面白さがあります。
ユーモラスというのは彼本来のものですね。ただ世界のトップになると言葉を選ばなければいけないということを、本人は身に染みて感じているのでしょう。常にメディアが注目していますしね。
―― 言葉を選んでいるというのはよくわかります。彼の言葉の選び方は、何を話したいかがよく伝わってきます。これは指導者に求められる優れた資質だと思いますね。