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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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札幌オリンピックと冬季スポーツ人口増大のつまずき

【オリンピック・パラリンピックのレガシー】

2018.02.18

1966年4月にローマで開催された国際オリンピック委員会(IOC)総会で、1972年冬季オリンピックの札幌開催が決定し、喜ぶ関係者。

1966年4月にローマで開催された国際オリンピック委員会(IOC)総会で、1972年冬季オリンピックの札幌開催が決定し、喜ぶ関係者。

1972年にアジアで初めて冬季五輪を開催した札幌市の冬季スポーツ実施率は長く低迷している。五輪がもたらすスポーツレガシーのなかでも、もっとも期待される「スポーツ人口(実施率)の増加」で札幌は結果を残せなかった。なぜだろう。五輪からの半世紀を冬のスポーツと歩んできた人たちの回想からは、施設整備と指導者育成の「つまずき」がキーワードとして浮かび上がってくる。

データをみる限り、札幌市民は冬のスポーツから遠ざかりつつある。市の調査によれば、20歳以上の「ウインタースポーツ実施率」(年1回以上)は2016年度で11.8%。これは調査を始めた2006年度より1.2ポイント低く、2013年度の13.8%をピークに3年連続で減っている。ちなみにスポーツ全般の実施率は2016年度に37.1%。こちらも2年連続で減っており、高い値でもないが、それでも2006年度からは6.6ポイント伸びた。

1972年の第11回冬季五輪札幌大会は札幌市民のスポーツへの関心をかきたてた。体を動かしたいという欲求の高まりは、1981年から市内10区で始まる「1区1体育館・1温水プール」整備を促した。自宅に近い公共(公的)施設でスポーツに親しめる暮らしは五輪がもたらしたレガシーだ。ただ、その恩恵は冬のスポーツには十分に届いていない。

札幌オリンピックのボブスレー競技は手稲山に新設された競技場で行われた。写真は4人乗りの日本チーム(1972年)

札幌オリンピックのボブスレー競技は手稲山に新設された競技場で行われた。写真は4人乗りの日本チーム(1972年)

札幌市が五輪後に新設した冬季スポーツ施設は1991年以降でスキー距離、ジャンプ、カーリングの3カ所にとどまる(このほかスケート場で1カ所の寄付を受けている)。「東西南北それぞれの地域に五輪の競技場ができた。民間施設もある。当時は利用者数も落ちていて、『もう、十分だろう』となった」。五輪に関わり、市幹部職員としてスポーツ行政の中核を担った松下亮司(72)はそう振り替える。

五輪では14の競技場が整備された。ただ、ジャンプやリュージュなど、その特殊性から娯楽や健康づくりにはなじみにくい施設が含まれるほか、仮設の4カ所は閉鎖されている。松下が続ける。「五輪が終わってからの普及をどうしたらよいか。スポーツそのものへの関心が高まるなかで、冬のスポーツは埋もれてしまった気がする。五輪疲れなのか、しばらくは『ご苦労さん』という感じだった」

施設利用の伸び悩んだ時期があったにせよ、スケート場の利用をめぐってはフィギュアやアイスホッケーなどの複数競技が競合してもいる。五輪で芽生え、伸びようとしていた市民のやりたい気持ち(需要)に応える場づくりが五輪後は不十分で、冬のスポーツから遠ざけてしまった-。そうは考えられないだろうか。

7回目の出場となったソチオリンピックのジャンプラージヒル個人で銀メダル、ラージヒル団体で銅メダルを獲得した葛西紀明(2014年)

7回目の出場となったソチオリンピックのジャンプラージヒル個人で銀メダル、ラージヒル団体で銅メダルを獲得した葛西紀明(2014年)

札幌スキー連盟副会長の上杉尹宏(75)は冬季スポーツ実施率が振るわない要因の一つに、冬のスポーツの魅力や技術を伝える指導者の不足を挙げる。ジャンプの葛西紀明らノルディックスキーのトップアスリートを育てた名伯楽は言う。「五輪からしばらくは、意気に感じたおじさん、おばさんのボランティアがいっぱいいた。ただ、教え子が代替わりすると、そうした人もいなくなった。きちんとした指導体制がなければ親は子どもを預けない。指導者がいないスポーツは衰退する」

五輪によって札幌市のみならず全道で少年団やクラブが生まれ、冬のスポーツはその裾野を広げた。ただ、保護者らの手弁当に頼る指導体制は不安定で活況は長く続かない。

1972年当時まで正確にさかのぼれるデータはないが、札幌地区のスケートの登録競技者数は1997年度からの20年間で4分の3まで減っている。フィギュアは7割近く増えたものの、スピードは半数ほどに落ち込んだ。アイスホッケーとスキーは札幌地区のデータに限りがあるため全道の推移で傾向を探ると、アイスホッケーは1995年度からの20年間で3分の1となり、スキーは競技別で最多のアルペンが2011年度から6シーズン連続で減っている。

だれが指導者を育て、雇用を支援するのか。五輪後、これらをめぐって関係者の思惑にはずれが生じている。

競技団体は行政に期待した。自らはアスリートを鍛え、アスリートが技量を発揮する競技会を増やし、運営することに力を注いだ。「スポーツ人口の拡大のためには学校やスポーツ施設といった『ハコ』に指導者をつけることが望ましい。それができるのは行政」と上杉は考えていた。道内には元日本代表を採用し、スポーツ振興を進める自治体もある。

札幌市の思いは違った。元幹部職員の松下は「行政の本分は場づくり。五輪を開いたからといって、冬季スポーツを優遇するわけにはいかない」と話す。有望アスリートは広い裾野から生まれる。そこでは指導者の量と質が不可欠だ。行政は支援を惜しまないが、責任は競技団体が負うべきだ、という考えだ。

もっとも、冬季スポーツに競技として関わらない子どもたちに、その楽しさを伝える学校の力は弱った。市立中学校のスキー授業の実施率は2008年度に29.6%まで落ちている。学習指導要領改訂で体育の時間が増えたり、市の対策もあったりして2017年度は88.8%まで回復したが、指導できる教員は十分とはいえない。子どもが冬の運動・スポーツから遠ざかれば、大人を連れ出す機会も減る。

五輪当時からボランティアでスケート選手を教え、日本スケート連盟スピード委員長も務めた札幌連盟会長の新保実(78)は「指導者づくりで生まれたずれを埋める努力が競技団体と行政のどちらにも足りなかった」と自戒する。スキーの上杉は「雪国だからなんとかなるだろうと、成り行きに任せていたのかもしれない」と省みた。

真駒内スピードスケート競技場(現:真駒内セキスイハイムスタジアム)で行われた札幌オリンピックの開会式(1972年)

真駒内スピードスケート競技場(現:真駒内セキスイハイムスタジアム)で行われた札幌オリンピックの開会式(1972年)

札幌市は2026年冬季五輪・パラリンピック招致に名乗りを上げ、2018年2月時点で国際オリンピック委員会(IOC)と事前協議している。日本オリンピック委員会(JOC)に示した開催提案書では、大会で残すレガシーの筆頭に「ウインタースポーツ人口の拡大」を据えた。背景には冬季スポーツ実施率の行き詰まりがあり、レガシーを具体化するための取り組みも始めている。

2008年、ウインタースポーツ活性化推進協議会が発足。2009年度からは雪をテーマとした学習指針「札幌らしい特色ある学校教育」を導入しており、スキー用具のリサイクルシステム、学校への指導者派遣も軌道に乗る。2016年度にはスキー・リフト料金とスケート靴のレンタル料金を小学3年生に助成する制度をつくり、2017年度は小学生対象のウインタースポーツ塾を始めた。

第8回冬季アジア大会(札幌/帯広)のジャンプ競技は大倉山ジャンプ競技場で行われた。(2017年)

第8回冬季アジア大会(札幌/帯広)のジャンプ競技は大倉山ジャンプ競技場で行われた。(2017年)

一方、スポーツ人口の受け皿となる施設を整え、指導者を育てる施策ははっきりしない。

2026年五輪の競技場は改修や建て替え、仮設でやり繰りする方針だ。それはIOCの意向に沿い、地元や国の負担を減らすことにもなるのだが、見方によっては、老いた施設を更新することがスポーツの場づくりの最大のレガシーということになる。これで果たして、五輪をきっかけに伸びるであろう市民の需要を受け止め、持続させられるのだろうか。市民が利用しやすいよう、改修や建て替えで施設の機能を高めることはもちろんだが、新設も選択肢に残しておくべきだ。

指導者育成をめぐっては、札幌市が五輪と合わせて招致を目指す冬季スポーツの総合ナショナルトレーニングセンター(NTC)に引退アスリートを常駐させるアイデアなどが競技団体との話し合いで示されている。ただ、開催提案書に具体的な記載はない。

2度目の五輪招致で、札幌市が冬季スポーツ人口の拡大をレガシーの旗印とするのなら、その実現につまずいた1972年五輪からの経験を深く検証し、開催計画に反映させる必要があるだろう。

(敬称略)

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スポーツ歴史の検証
  • 渡辺 徹也 北海道新聞 東京報道センター編集委員