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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

冬季オリンピック 3つめの日の丸飛行隊

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2017.01.23

人々は特定のオリンピック競技での日本選手の活躍を「○○ニッポン」と呼ぶことがある。
昭和初期から終戦後まで、日本の水泳(競泳)は隆盛を極めた。1928(昭和3)年アムステルダム大会で鶴田義行つるたよしゆきが200m平泳ぎで金メダルを獲得したのを皮切りに、1932(昭和7)年ロサンゼルス大会では水泳陣が5つもの金メダルを奪い取った。さらに1936(昭和11)年ベルリン大会では女子選手の前畑秀子まえはたひでこも加わり4個の金メダル。このころ日本水泳陣は「水泳ニッポン」と呼ばれることになる。この「競技名+ニッポン」は最高の敬称、あるいは極上のブランド名と考えていいだろう。
次は体操陣が「○○ニッポン」を引き継いだ。1956(昭和31)年メルボルン大会の体操・鉄棒で小野喬おのたかしが金メダルを獲得。1960(昭和35)年ローマ大会では、日本が獲得した金メダル4個はすべて体操によるものだった。自国開催の1964(昭和39)年東京大会ではさらに勢いがつき、金メダル5個を獲得。1968(昭和43)年メキシコシティー大会では金メダルの数を6個に増やした。1972(昭和47)年ミュンヘン大会では金メダル5個、1976(昭和51)年モントリオール大会は3個を獲得した。この間、日本の体操はオリンピック・世界選手権を通じて団体10連覇という圧倒的な強さをみせ、「体操ニッポン」と呼ばれた。
「体操ニッポン」については近年、内村航平うちむらこうへいらの活躍によってほぼ復活した。

冬季オリンピックの種目にも、敬意を込めたニックネームが付けられたことがある。「日の丸飛行隊」である。この呼称はかつて2回付けられた。1回目は1972(昭和47)年札幌大会で、もう1回は1998(平成10)年長野大会。ともに種目はスキージャンプだ。

札幌大会スキージャンプ70m級の表彰、左から金野、笠谷、青地

札幌大会スキージャンプ70m級の表彰、左から金野、笠谷、青地

札幌大会で日本が獲得したメダルは金1、銀1、銅1の3個。その3つは同じ種目で獲得された。つまり、表彰台を3人の日本選手が独占したのだ。種目名はスキージャンプ70m級。現在のノーマルヒルにあたる。金メダルを獲得したのは、1本目に84mの最長不倒を飛んだ笠谷幸生かさやゆきお。銀メダルは日本選手のなかで最初に飛んだ金野昭次こんのあきつぐ。そして銅メダルは2本目でバランスを崩しながら持ちこたえて距離をのばした青地清二あおちせいじ

大会前半に行われたスキージャンプ70m級でいきなり実現した、日本選手による表彰台独占という奇跡。これによって日本中が歓喜の渦に包まれた。人々は8年前に東京オリンピックで得た感動をもう一度、思い出した。そして、ウィンタースポーツでも日本は世界の頂点に立つことができることを知った。1964年東京オリンピックで戦後からの復興を海外に示し、1970年の大阪万博を経て経済も順調に推移していた日本。しかし、本当の自信と誇りを取り戻せたのかどうか半信半疑だった日本人は、この1972年にようやく落ち着いた気持ちになることができた。その大きな要因が、札幌オリンピックの表彰台独占と、沖縄の返還だったといえよう。

長野大会スキージャンプ団体、左から船木、原田、岡部、斎藤

長野大会スキージャンプ団体、左から船木、原田、岡部、斎藤

1998年長野大会では2度目の「日の丸飛行隊」が出現した。このときも日本中が感動の涙を流したのだが、この大きな感動には二重三重に張り巡らされた伏線があった。それは、まるで筋書きのある壮大なドラマのようだった。
長野の感動を引き立たせる第1の伏線は、4年前1994年リレハンメル大会のジャンプラージヒル団体にあった。西方仁也にしかたじんや岡部孝信おかべたかのぶ葛西紀明かさいのりあき原田雅彦はらだまさひこの4人で挑んだ団体戦は、2本目を3人が飛び、最終ジャンパーの原田が105m以上飛べば金メダルという位置にいた。普段であれば120mのK点越えなど珍しくもない原田にとっては、105mという条件は決して難しくないはずだった。

1本目は122mを飛んでいる。すでに飛び終えた3人も、金メダルを手にしたものと思っていた。ところが97.5mの大失速。金メダルが目前で逃げていき、日本中が落胆した。

第2の伏線は1998年長野大会ラージヒル団体、本番1本目の原田の失敗ジャンプである。
長野大会は、岡部孝信、斎藤浩哉さいとうひろや、原田雅彦、船木和喜ふなきかずよしの4人で臨んだ。そして原田の1本目のジャンプに人々は注目した。
「まさか4年前のように100m以下などということはないだろう」

その「まさか」を原田はやってしまったのだ。1本目84.5m。期待して歓声をあげていた観客の声が、悲鳴やため息に変わる。
「またやっちゃった」「今回もだめかもしれない」そう思った人はたくさんいた。

第3の伏線は天候の悪化である。

1本目の原田のスタート直前、急激に雪がひどくなった。風もジャンプに不利な追い風だ。じつは、原田の失速は悪天候が大きく影響していたのである。
吹雪はさらに勢いを増し、2本目に入ったとき競技が中断した。天候悪化のためだった。そして、なかなか回復しない。1本目が終わった時点の日本の順位は4位。ここで競技が中止になった場合、1本目の順位が最終順位として確定する。日本はメダルなしという結果に終わってしまうことになるのだ。

中断している間、トライアルジャンパーが飛んでいた。しばらく経った後、試合は再開された。日本は救われたのだ。もし1本目で終わってしまっていたら、長野大会の日本チームに「日の丸飛行隊」の名は付いていなかった。

第4の伏線は、そのトライアルジャンパーの存在である。

試合が中断している間に飛んでいたトライアルジャンパーこそが、日本を救ったのだった。4人の競技委員による話し合いが行われ、日本以外の3カ国の委員は競技中止を主張した。このまま中止になればその3カ国がメダルをつかむことになるからである。そして協議の結果、トライアルジャンパーによるジャンプを見て競技を続行するか否かを判断することになった。

25人のトライアルジャンパーは、全員オリンピックを目指して練習してきた日本のトップクラスのジャンパーだった。彼らは日本チームの逆転に望みを託し、試合が中断してしまうほどの危険な吹雪にもかかわらず、競技再開が問題ないことを証明するため、きれいに飛びしっかりと着地した。前が見えない吹雪の中、恐怖と戦いながら飛んだ。転倒する者は1人もいなかった。

競技委員は判断しかねていた。そして、トライアルジャンパーの中に4年前のリレハンメル大会の銀メダリスト西方仁也がいることを知った競技委員は検討の結果、西方が安定したジャンプをすれば競技を再開しようと決めた。西方のジャンプに、4人の代表選手、西方以外の24人のトライアルジャンパー、4人の競技委員の目が注がれる。

吹雪のなか、西方は飛んだ。K点を超える123mのジャンプだった。事情を知らない観客からは拍手も声援もない。もちろん記録にも残らない。だが、最高に価値のあるジャンプだった。競技委員は、競技の続行を決めた。

第5の伏線は観客の応援である。

原田が2本目に向かうとき、観客から声がかかった。
それは、「なにやってるんだ!」「だめじゃないか!」などという罵声ではなかった。
大きな、気持ちのこもった声援だった。
「原田、がんばれ!」「復活しろ、原田!」
そして原田は飛んだ。137mの大ジャンプだった。
最終ジャンパーの船木が着地し、日本の逆転優勝が決まったとき、4人は抱き合って喜んで、そして泣いた。

長野大会スキージャンプ団体、歓喜にわく観客

長野大会スキージャンプ団体、歓喜にわく観客

感動のドラマが完結し、4人は晴れて26年ぶりの「日の丸飛行隊」になった。数多くの人がドラマに登場し、それぞれの役を演じた。主人公である4人の選手、支えるコーチやスタッフ、トライアルジャンパー、そして観客…。彼らは知らず知らずのうちに感動のレベルを最高水準まで引き上げていった。

このように考えると2つめの「日の丸飛行隊」が誕生するのには、じつに多くの偶然と必然が必要だったということがわかる。そしてこれまでの2つの「日の丸飛行隊」を例とするならば、それは日本国内で行われる冬季オリンピックでしか誕生しないのかもしれない。

札幌市が冬季オリンピックの招致を表明している。3つめの「日の丸飛行隊」に期待したい。

(参考文献)

  • 伊藤龍治「試走者たちの金メダル」1998 北海道新聞社
  • 折山淑美「誰よりも遠くへ」1998 集英社
  • 大野益弘監修「心にのこるオリンピック・パラリンピックの読みもの2 ・助け合い、支え合って」2016 学校図書

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。