2017.01.06
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2017.01.06
日本のスポーツ史は、そのまま、世界の背中を追う足どりであったように思う。スポーツの先進地域である欧米からは遠く離れた小さな島国。文化も違うし、言葉もまったく異なる。早く国際化をはかりたい。“世界”と対等に戦ってみたい。その願いをかなえようと力を尽くしてきたのが、すなわち日本のスポーツ界が歩んできた歴史であった。いや、スポーツに限らず、それは日本の国そのものが常に抱いてきた大目標であったかもしれない。
さまざまな競技が入ってきた明治期から大正初期あたり、スポーツはまだ一般大衆の誰もが親しむものではなかった。ごく限られたプレーヤーでさえ、海外の大会に行けば知らないことばかりだったのは、オリンピックに参加し始めたころ、選手たちが未知の舞台に戸惑ったのを示す数々の逸話でも明らかだ。1928年のアムステルダム大会で
戦争が相次いだ不幸な時代をはさんで、日本のスポーツはまたしても世界の潮流から取り残された。戦後しばらくたっても、国際化は相変わらず日本スポーツ界の最大の願いであり、また、なかなか実現には至らない、遠い目標でもあった。が、そこに大きなチャンスが訪れる。1964年の東京オリンピックだ。
復興を世界にアピールするための大舞台となった、初の自国開催のオリンピック。成功のためには日本選手の活躍が欠かせない。世界のトップレベルとはまだまだ差がある競技であっても、それをそのまま放っておくわけにはいかなかった。どの競技団体も世界に学ぼうと必死に努力した。情報を集め、欧米から指導者を招き、ほとんど経験のなかった海外遠征も繰り返して、なんとか追いつこうとした。それまでは見果てぬ夢でしかなかった国際化の道のりを、わずか数年で突っ走ったのである。
こうして、日本は初めて世界のスポーツと真正面から向き合った。その結果、もちろん不十分ながらも、世界標準に触れ、競技レベルをじわじわと、また場合によっては飛躍的に引き上げた。自国開催のオリンピックとは、それだけのパワーを秘めているというわけだ。
1964年東京大会、デットマール・クラマーと日本サッカーチーム
オリンピックを好機として、世界と
日本協会の
彼は日本に“本物の”サッカーを持ち込み、それを根づかせる大役を果たしたのである。
「教えられることのすべてが新鮮だった」
「クラマーさんの言う通りにやれば、必ず強くなれると思った」
「クラマーさんはトータルとしてのサッカーを、かみくだいて教えてくれた」
「原点はクラマーさん。クラさんがいなかったらその後はなかった」
1968年のメキシコシティーオリンピックで、歴史に残る銅メダルを獲得したメンバーが、かつて口々に語っていた言葉だ。実のところ、クラマーは基本中の基本から教えた。ボールを止める、蹴るというところから、つまりは文字通りの一から日本代表を
極端にいえば、それまでの日本のプレーは我流のようなものだったのかもしれない。クラマーはそこに世界標準を持ち込んだ。世界トップクラスのチームとも戦える真のサッカーをもたらした。プレーだけでなく、欧州に長く根づいてきたスポーツマンのスピリットをあわせて浸透させたのも、選手の視野を大きく広げたようだ。
1968年メキシコシティー大会のサッカーで日本は銅メダルを獲得した釜本邦茂
こうして日本のサッカーは、初めて国際的な流れへと歩を踏み出した。それが東京オリンピックではアルゼンチンを倒す大金星となり、メキシコの快挙へとつながったのである。もちろんサッカーだけではない。
東京オリンピックを契機として、どの競技もが世界と向き合い、世界の風を肌で感じた。東京オリンピックは、日本のスポーツにとっての「国際化元年」だった。日本固有の競技である柔道がそこからオリンピック競技となり、急速にグローバルスポーツとなっていったのも、その記念すべき転機を象徴しているように思われる。
東京の無差別級でアントン・ヘーシンクに屈し、悔し涙を流した日本柔道だが、それもまた、のちの国際的
が、極東の島国であるハンディは、そう簡単には解消しなかった。年を追うごとに、どの競技でも海外で活躍する選手が出てくるようになり、交流も盛んになってはいったが、「未だ国際化に至らず」の意識は、日本スポーツ界全体にずっと残ってきている。国際競技連盟(IF)の役員に日本人が少ないことなどから、国際スポーツの世界で日本の存在感が希薄だったことも、その思いを強めていた。ただ、ここ何年かの間に、そうした意識は急速に
プロ野球の選手が米メジャーリーグに行くようになって久しい。最初はスタープレーヤーが最高峰に挑むという意識だったと思う。が、しだいに飛び抜けた実績を持たない選手も含めて、多くのプレーヤーが海を渡るようになると、その意識は大きく変わっていった。「挑戦などという気持ちではない」という言葉もよく聞かれるようになった。つまり、まなじりを決して別世界に挑むのではなく、日米合わせた中でのひとつの選択肢として、ごく自然にアメリカ行きを選ぶようになってきたのだ。
海外に広く活躍の場を求める動きはサッカーでも目立っている。こちらの場合は、強豪国のチームだけではなく、さまざまな地域の規模の小さいリーグを選ぶ選手も多い。実力に合ったところということもあるが、ひと言で言えば、世界中のサッカーをひとつの舞台として視野におさめているというわけだ。これはまさに意識の国際化にほかならない。
日本のスポーツ史の中でも、このことは画期的な変化と言えるのではないか。注目の集まるプロ競技でのこうした流れは、当然のことながら他のスポーツにもどんどん波及している。
国際体操連盟の会長に就任した渡辺守成氏
先だっては国際体操連盟の会長に渡辺
そして3年後には自国開催の夏季オリンピックが再びめぐってくる。スポーツ界が長年目指してきた真の国際化へと進んでいくための、新たな「元年」としたいものだ。