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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

12. 日本女子の戦い -涙と笑顔-

【オリンピックの歴史を知る】

2017.01.06

日本選手の金メダル獲得数

1996年アトランタ大会までの32年間、女子選手の金メダル数は1大会あたり1個か0個にとどまっている。これにはいくつかの理由がある。大きな理由のひとつに、かつてのオリンピック競技大会における、女子の種目数(金メダル数)が、男子にくらべて圧倒的に少なかったことが挙げられる。1964年東京大会は、実施163種目のうち男女の区別がない馬術6種目をのぞくと、男子126種目に対して女子31種目。4分の1しかなかったのだ。おのずと出場選手数にも差がでる。日本は男子294人に対して女子は61人だった。

女子種目は少しずつ増えていったが、すべての競技に女子種目が採用されたのは2012年ロンドン大会からである。

それにしても1964年東京大会は男子の金メダル15個に対して、女子はたったの1個という少なさ。1968年メキシコシティー大会は男子の12個に対して女子は0個だ。その差の原因については、過去の日本社会における女性の伝統的な役割が影響したのではないか、などさまざまな説があるが、ここではそれについてふれることは控え、まずは敬意を込めて、金メダルを獲得した女子選手たちの活躍をたどっていこう。

グラフにはないが、オリンピックで日本女子選手が初めて金メダルを獲得したのは、1936年ベルリン大会競泳女子200m平泳ぎの前畑秀子まえはたひでこである。
4年前の1932年ロサンゼルス大会の同種目で銀メダルを獲得した前畑は、激しいプレッシャーに打ち勝って表彰台の真ん中に立った。日の丸の掲揚を見ながら、大粒の涙を流した前畑。彼女の活躍は日本のラジオで放送され、聴いていた国民に大きな元気を与えたのである。だが、次に日本女子選手が金メダルの栄誉を勝ち取るまで、28年待たなくてはいけなかった。

1964年東京大会女子バレーボール歓喜の瞬間

1964年東京大会女子バレーボール歓喜の瞬間

その機会は、1964年東京大会の閉会式の前夜に訪れた。
初めてオリンピック正式競技に採用されたバレーボールで、日本女子チームが宿敵ソ連(現在のロシア)を破って金メダルを獲得したのだ。厳しいことで有名だった「鬼の大松だいまつ監督」率いる、文字通り傷だらけの女子選手たちが、悲願の優勝を果たし抱き合って涙を流すシーンは、日本中を感動の渦に包んだ。テレビの視聴率は、なんと66.8%を記録したとされる。
この試合と喜びの結果は日本国民の心に深く刻まれた。バレーボールをテーマにした「アタックNo.1」「サインはV」などのマンガが登場し、人気を博すようになった。それはテレビ番組化され、中学校や高校ではバレーボール部に入る生徒が増加するという社会現象を巻き起こした。

金メダルを決め、飛び上がって喜ぶ田村

金メダルを決め、飛び上がって喜ぶ田村

女子選手の金メダル数がようやく複数になったのは2000年シドニー大会だった。ヤワラちゃんのニックネームで親しまれた柔道の田村(谷)亮子と、Qちゃんこと女子マラソンの高橋尚子が金メダルを獲得した。

この2人は、日本国民に感動を与えるのにうってつけの主人公だった。

田村と高橋はメディアの取り上げ方が似ていた。2人とも金メダル候補で、「ちゃん」が付くニックネームで呼ばれていただけではない。あらかじめ2人には、勝った瞬間に視聴者や読者の感動が何倍にもなるような仕掛けをメディアは用意していたのである。それは宮崎駿のアニメに登場する女性主人公にみられる「少女の成長物語」に似たストーリーだった。

田村は1992年バルセロナ大会で銀。1996年アトランタ大会では金確実と言われながら、それまで名前を聞いたことのない北朝鮮の選手に敗れての銀。
シドニーは3度目のオリンピック挑戦であり、田村によせられた期待はそれまでに増して大きかった。メディアによって「ヤワラちゃんブーム」が創られていた中での金メダル。
本人はもちろん飛び上がって喜び、涙を流したが、「かわいらしい赤い髪どめをつけた小柄な女性が、8年間待った末に念願の金メダルを獲得した」という文脈は、見る者に感動の涙を流させるのに十分だった。

フィニッシュ後、小さな日の丸を持って笑顔を見せる高橋

フィニッシュ後、小さな日の丸を持って笑顔を見せる高橋

高橋の場合は、1998年のバンコクアジア大会に出場し、2位に13分もの差をつけるぶっちぎりの優勝を果たしたことで一躍有名になり、また小出義雄監督との二人三脚が話題になった。

あどけない笑顔が印象的だった高橋は、1999年のセビリア世界陸上をケガで欠場したと思えば、2000年春のオリンピック最終選考会となった名古屋国際女子マラソンを2時間22分台の好記録で勝利してオリンピックの出場を決めるなど、こちらも相当ドラマチックなストーリーを背負ってシドニー大会に臨んだ。

オリンピック本番では34km付近でサングラスを投げ捨てると同時にスパートし、2時間23分14秒で当時のオリンピック最高記録を樹立、日本女子選手として初めて陸上競技の金メダルを獲得するという劇的なエンディングを飾った。フィニッシュのときの笑顔と、「すごく楽しい42kmでした」のコメントは、応援していた人々を爽やかな気持ちにさせ、そして大きな感動をもたらしたのだ。

もっともそんなストーリーの仕立てがなかったとしても、彼女たちのすがすがしい戦いっぷりは、われわれを大いに感動させてくれたはずであるが…。

じつはこのシドニー大会、金メダル数では男子3個・女子2個であるが、金銀銅あわせた総獲得メダル数では、男子5個に対して女子13個と、女子が男子を圧倒しているのである。ここが転換点となって、日本女子選手の大躍進がはじまった。21世紀、日本の女子スポーツの本格的幕開けである。

2004年アテネ大会では、ついに女子が金メダル数で男子を上回った。競泳女子800m自由形で柴田亜衣あい、柔道で谷(田村)亮子、谷本歩実あゆみ、上野雅恵、阿武教子あんののりこ、塚田真希がそれぞれ金メダルを獲得した。大会前半だけで、女子の金メダルは、なんと6個である。後半に入っても、レスリングの吉田沙保里さおり伊調馨いちょうかおりが金メダル。そして女子マラソンの野口みずきが、2大会連続となる女子マラソンの勝利を日本にもたらしてくれた。この大会の金メダル数は、男子7個に対して女子が9個である。

このアテネ大会、日本の出場選手数は、男子141名に対して女子171名。女子の数が男子を抜いた初めての大会となった。

金メダル女子優位の状態は、2008年北京大会にも引き継がれた。柔道の谷本と上野、そしてレスリング吉田、伊調の4選手がそろって連覇して、金メダル4つ。次の大会からの不採用が決まったソフトボールで、日本チームがアメリカとの因縁の対決を制して、みごと金メダルを勝ちとった。
エース上野由岐子ゆきこが3試合通じて1人で413球を投げ抜き、チームを勝利に導いたのだ。これは1976年モントリオール大会のバレーボール以来、32年ぶりの女子団体種目での金メダルである。結果、この2008年北京大会でも、日本が獲得した金メダル9個のうち5個を女子が占めることになった。

2012年ロンドン大会でも同様のことが起きた。
まずは“野獣”松本かおりが柔道唯一の金メダル。レスリングで吉田、伊調の金メダル常連2選手に加えて小原日登美おばらひとみが優勝し、この大会での女子の獲得金メダル数を4個にした。男子は3個である。

そして2016年リオデジャネイロ大会。日本の女子選手は、まず柔道で田知本遥が金メダル。続いて競泳の金藤理絵かねとうりえも金メダルを獲得。レスリングでは大本命の吉田沙保里が決勝で敗れるという波乱があったが登坂絵莉とうさかえり伊調馨川井かわい梨紗子りさこ土性沙羅どしょうさらが金メダル。伊調は世界でだれも成し遂げていない、オリンピック女子個人種目初の4連覇という快挙を達成した。
さらに、バドミントン女子ダブルスで髙橋礼華たかはしあやか松友美佐紀まつともみさきのペアが日本バドミントン界に史上初の金メダルをもたらした。この大会で日本が獲得した12個の金メダルのうち、7個は女子によるものであった。こうした日本女子金メダル優位の傾向は、2020年東京大会についても続いていく可能性が大いにある。

泣きながら抱き合う髙橋礼華・松友美佐紀ペア

泣きながら抱き合う髙橋礼華・松友美佐紀ペア

オリンピックを観戦する者にとって、応援する自国の選手の勝利ほどうれしいものはない。金メダルが多いことは喜び・元気につながるのだ。試合で負けなかった唯一の選手に与えられる金メダル。 われわれは自国の選手の負ける姿を見たくない。勝った姿を見て“感動”したいのである。

そして見る者に“感動”を呼び起こさせるための最大の装置は、選手が勝利を決めた瞬間の表情であり、自然に発せられる“雄叫おたけび”や“笑顔”、“涙”などの感情表現である。とくに、そのうちの“笑顔”と“涙”のコンビネーションに人は弱い。オリンピックを見ていて、女子選手の勝利に涙することが多いのは、そのせいではないだろうか。

2020年の東京大会では日本の女子が大量の金メダルを獲得して、“笑顔”と“涙”でこの国を歓喜の渦に包んでほしいものだ。そのとき、日本で応援していた数多くの人は、つかの間の幸せを味わうことができる。1964年東京大会のバレーボール女子チーム優勝のときのように。

(参考文献)

  • 橋本純一編 現代メディアスポーツ論(世界思想社)2002
  • 大野益弘 オリンピック ヒーローたちの物語(ポプラ社)2012
  • 第31回オリンピック競技大会(2016/リオデジャネイロ)日本選手団ハンドブック・名簿(公益財団法人日本オリンピック委員会)2016

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。