2023.07.06
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2023.07.06
カール・シュランツ(オーストリア、1938年11月生まれ)を乗せた車が動き出すとカメラのフラッシュが一斉に光り、テレビニュースのカメラマンたちがその車を追うように走った。1972年2月7日、札幌冬季オリンピック第5日。
総てが順調ならシュランツは、この日、恵庭岳の滑降コースの表彰台でメダルを掲げ、祝福する多くの観客とカメラの前に立っているハズであった。
それが、一人で泊まっていた札幌市内のホテルでさびしいチェックアウト、雄姿を示せぬまま帰途につくことになってしまった。
赤いスポーツウエアに黒のジャケット。ビッグスターらしい華やいだ姿だったが、表情に笑みはなかった。
国際オリンピック委員会(IOC)が、開幕3日前、札幌での理事会でシュランツの参加資格に違反があるとして「選手村入り」を認めないと決めたのが騒ぎの始まりだった。
アルペンスキー選手の「アマチュアらしからぬ行動」を問うIOCの姿勢は昨日や今日に始まったものではなかった。シュランツの一件は「長年の議論の一区切り」とも言えた。
アベリー・ブランデージ IOC 会 長(1972 年札幌冬季大会)
IOCでこの問題の先頭に立っていたのは会長のアベリー・ブランデージ(アメリカ、1887〜1975)だ。
ストックホルム・夏季オリンピック(スウェーデン、1912年)の陸上競技(十種競技)にアメリカ代表として出場したブランデージはIOCによる「オリンピック・ムーブメント」の推進に情熱を注ぎ1952年第5代会長となって「アマチュアリズム」の徹底を図った。
堅固な信念は、「ミスター・アマチュアリズム」と呼ばれたが、その頑なさは時代の風に合わぬ面ものぞいた。
ブランデージはIOCの事業・事務を自宅のあるアメリカ・シカゴで数人の秘書とともに捌いていた。
アメリカはプロ・スポーツ王国。3大ネットワークと呼ばれる民放テレビ3社が競いあうように極上のエンターテインメントとしてプロの「活劇」をリビングルームへ送り届けた。
テレビを通してのスポーツへの熱狂が「アマチュア」では支え切れなくなるのをブランデージは予見したのだろう。「オリンピックを商業主義で染めてはならない」の意を強める。
国威発揚の一手段としてスポーツに着目、有力・有望選手を国家の施策で発掘養成し戦果をあげる「ステートアマチュア」と呼ばれる新しい波も起きていた。冬季スポーツでは、カナダ・アイスホッケー界が、こうした「実質プロ」の選手が各国際大会に参加を認められるのに対し、カナダの「プロ」は認められないのを不服として1970年から世界選手権などに姿を見せず、札幌オリンピックにも出場しなかった。
オリンピックが、いやブランデージがいつまで「アマチュアリズム」に固執できるか、不安であった。
現実は急を告げていた。1968年、アマチュア・スポーツの最高峰とされたイギリスの「ウィンブルドン・テニス」がプロ選手の参加に扉を開け、賞金付きの大会に変わったのは象徴的だった。
「アマチュアリズム」は1839年、イギリスのボート大会「ヘンリー・レガッタ」で定められた規程で参加する人の身分を区別するのが目的であった。
余談になるが、日本ではこのあたりの説明はさらりと扱われ「スポーツによって利益を得ない。スポーツで得た名声を利用しない」など“清潔”が強調されてきた。
「なにも求めず、ひたすら打ち込む」。学校を発展の拠点とした日本のスポーツ風土にこの思考は受けた。
アマチュアリズム優等国・日本の札幌に乗り込んできたブランデージは「信条を守る」決意に満ち戦闘的でさえあった。
来日するや「私はアマチュアにそぐわないアルペンスキー選手40人のリストを持っている。」と話し、アルペン種目(滑降、大回転、回転。いずれも男女)が波乱なく進められるか危ぶむ声が広がる。
冬季オリンピックのスキー競技にアルペン種目が初めて加えられたのは1936年のガルミッシュ・パルテンキルヘン(ドイツ)大会。滑降と回転を合わせて「アルペン複合」と呼ぶ1種目だけだった。
1924年の第1回冬季オリンピック、シャモニー・モンブラン(フランス)大会からジャンプ、距離(クロスカントリー)のノルディック種目が実施されたのに比べてスタートに差が生じたのは、当時からアルペン種目は冬国スキー業界との“関わり”が取り沙汰され、選手の多くがスキー教師(インストラクター)として収入を得ていることがブレーキとなった。
その流れは第二次世界大戦後の各大会で加速し、各競技会で上位に入賞した選手たちがマスコミなどの求めに応じカメラに収まる時、必ず体の脇にメーカーの社名(商標)が記された使用スキー板を持ち立てるようになった。このありさまにブランデージは選手たちを「動く広告塔」「走る広告塔」と苦々しく呼んだ。
怒りの最初の爆発は1968年のグルノーブル(フランス)オリンピック。開幕前日(2月6日)、IOCはスキーに付された商標を取り除くよう国際スキー連盟(FIS)に対して申し入れた。
受け容れられなければ「ブランデージはオリンピック競技としてスキーの参加を認めないだろう」との報道もあった。
FISは「選手はゴール直後にスキー板をはずす」と回答。つまり、宣伝行為ともとられる使用スキー板を傍らにそえる“慣習のポーズ”を禁じるとしたのだ。
辛くも事態は収まったが、その後もIOCは不満を表明しつづける。一方、ヨーロッパ各国スキー連盟は反溌の態度を強め、対立の図式は濃くなるばかりとなった。
札幌大会まで半年を切った1971年夏、札幌でのアルペン競技実施を覆う暗雲が張り出し、憂慮した日本側は急遽ブランデージをアメリカに訪ね「アルペン競技が行わなければ大会そのものが成功しない」と訴えた。
この時、訪米した一人、当時、FIS理事でのちに全日本スキー連盟会長も務めた伊藤義郎(1926年12月生まれ、実業家)に2007年札幌での世界ノルディックスキー選手権で会う機会があり、昔ばなしとして話がはずんだ。
「ブランデージは札幌前にアルペンをめぐる発言をせず、違反者リストやらも発表されなかった。我々の要望は聞き入れられたと思う」と伊藤は懐かしんだ。
大会前にブランデージ会長が強硬な姿勢を打ち出していたら、不参加を表明するスキー連盟が続き、札幌オリンピックは大きな痛手を背負っての開幕になってしまっただろう。
カール・シュランツ(1968 年グルノーブ ル冬季大会)
その危うさは避けられたが、理事会では一気にアマチュア違反への攻撃が噴き出て、大会の主役の一人とされた「シュランツ追放」が決まり、翌日(2月1日)の第72次IOC総会で承認を受けた。委員による投票の結果は28-14で「追放」が多数の支持を得たと発表された。
ついに混乱が起きてしまった。オーストリア選手団は鋭く反応し「スキー全種目をボイコットする」と表明した。
グルノーブルよりはるかに深刻にアルペン種目は揺さぶられる。
翌2日(開幕前日)、状況は一転する。オーストリア選手団が記者会見して「出場」を表明したのだ。
会見でシュランツは「自分のために長い年月準備した札幌の人たちや選手にも不参加は申し訳ない。ボイコットを撤回して欲しい」と時折、用意したコメントのメモに目をやって話した。続いて同国スキー連盟の責任者が「シュランツの気持ちを汲み、ほかの選手の参加を決めた」と述べた。
取材して戻ってきた同僚は浮かぬ顔だ。「正常に戻るのはいいが、昨夜のうちにIOC、FIS、オーストリア選手団の間で記者会見用のシナリオがととのえられたのではないか」と、あっけないほどの“逆転”の裏をうかがっていた。真相は分からぬままで時は過ぎる。
シュランツの違反は、使用するスキー用品のメーカーとの金銭をともなう契約や国際大会優勝などの名声を利用した商業行為とされた。
私は1971年1月、札幌オリンピックの事前特集番組「オリンピックアワー」(1972年1月放送)制作のためオーストリア・チロルのサンアントンという人口2500人ほどの小さな町を訪れた。冬のスキー、夏の避暑シーズンにはその倍を越す人たちで賑わう有名なリゾート地だ。立ち並ぶホテルの一つにシュランツが経営に加わり、自らの名を冠したホテルが“目的地”だった。
当人は転戦中で不在だったが、ホテルのスタッフはシュランツの輝かしい戦歴を話しながら“名声の館”を案内してくれた。もちろん撮影OKである。
入口には「世界スキーチャンピオン、カール・シュランツホテル」と彫られた木製の洒落た看板が掲げられ、ロビーにはクリスタル製のワールドカップの優勝トロフィーが華やかな光を放ちながら飾られ、まわりを数々のカップ、シャーレなどが囲む。
町の人たちは「彼はオーストリア・スキー界の名を高めてくれる。この国のスキー産業やスキー観光は秀れた選手によって発展してきたし、これからも変わらない。」と語る。そこには「アマ」も「プロ」もない。
選手は競技力を磨くため一年の大半を国、地域を問わず「雪」を求めて動き回る。経済的な支援はスキー・メーカーが担った。メーカーは次々と新製品を手がけ、選手が試す。自社のスキー用品を使って選手が好成績をあげればスキー用品そのものの評判が上がり、人気商品となって愛好者の購買欲を誘う。市場は広く、海外にも及び、選手とメーカーの持ちつ持たれつの関係は貿易輸出のグラフさえ左右するのだ。
グルノーブル・オリンピック男子アルペン競技はジャン=クロード・キリー(フランス、1943年8月生まれ)が三冠を果たしていた。
札幌でシュランツに栄光の期待がかかった。それはスキー王国の名誉をオーストリアがフランスから奪還する希望でもあった。
札幌を去りオーストリアに帰ったシュランツは到着した空港をはじめ各地で大観衆によってまるで勝者の凱旋のように迎えられた。
IOCは1988年12月の理事会でシュランツの復権を承認している。