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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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冬季オリンピックの登場は遅れた

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.01.24

 冬季オリンピック競技大会が初めて開催されたのは1924年である。まだオリンピックという名前ではなく、通称「国際冬季競技週間(International Winter Sports Week)」、正式には「第8回オリンピアードの一部として、国際オリンピック委員会(IOC)が最高後援者となり、フランス・オリンピック委員会がフランス冬季競技連盟とフランス・アルペンクラブ共同でシャモニー・モンブラン地方で開催する冬季スポーツ大会」という極めて長く、わかりづらい名称で実施された。

 IOCが第1回冬季オリンピック競技大会として追認したのは翌1925年である。

創始者の理想は古代ギリシャ

 なぜ、こんな名前の競技大会が開催されたのか。しかもフランスの男爵ピエール・ド・クーベルタンが古代ギリシャのオリンピアード競技会に倣い、近代オリンピックを創始して30年。1896年にギリシャのアテネで第1回オリンピアード競技大会を開催してから28年の歳月が流れていた。

 まるで冬の競技が「置いてけぼり」をくらったかのように、オリンピックへの参画が遅れたのはなぜだったのだろうか。

 クーベルタンのオリンピックの理想が要因だと言われる。簡単に言えばクーベルタンは「オリンピックは夏だけのもの」と考えており、冬季競技をオリンピックのプログラムに加えることも、ましてや独立した大会として開催されることも拒んでいたのである。

 クーベルタンの理想は古代オリンピックにあった。そこでは若い男性が鍛え上げた肉体を披露し、明るい太陽のもとで走り、投げ、跳び、鋼の肉体を激しくぶつけた。もとより地中海に臨むギリシャに冬のスポーツは存在しえない。オリンピック運動に関わるIOC委員たちが冬季競技に関心を示さなかったことも無理はない。

北の地でスキー、スケートは生まれた

 しかし、この頃までにスキーやスケートでは国際競技大会が開催されていた。

 スキーは人間が雪上を移動するために生み出された知恵の産物である。足に板を括りつけ、沈まないように雪上を進む。発掘された紀元前の北欧やロシア、中国などの遺跡、壁画からもスキーの原型のような姿が発掘されている。狩猟のために用具の改良、普及が進み、やがてノルウェーでは「ストー」とよばれるスキー板が出現。軍隊の訓練にも使われて、クロスカントリースキーとなった。

 ノルウェーではスキーを履いた罪人を崖の上から突き落とす罰があり、それがジャンプの起源のひとつとされる。雪との暮らしのなかで「走りっこ」や「遠くに飛ぶか」を競う遊び、試合が生まれたことは想像に難くない。

 1769年、ノルウェーの首都クリスチャニア(オスロの旧称)で開催された大会がスポーツスキーの始まりとされる。1860年代には「近代スキーの父」ソンドレ・ノルハイムによってビンデイングやスキー板の改良が進み、出身のノルウェー・テレマーク地方に伝わるスキー術から「テレマーク」とよぶジャンプの着地技術が生まれた。1879年にはクリスチャニア郊外でジャンプ競技会が開催され、国際化が進み、今日まで続く伝統のホルメンコーレン大会となった。

 北欧で「北」を意味するノルディック・スキーが生育し、フランスやスイスなどアルプスの山岳地帯ではスキー板で斜面を滑るアルペン・スキーが発達した。「アルペン」とは「アルプスの」という意味。用具、技術の発達で、より速く滑る競争が普及していく。

 雪の多い北欧でスキーが生まれたのと同様に、オランダでは自然条件からスケートが生まれて人々に普及した。オランダは雪が降らないが、寒さで張り巡らされた運河が凍る。靴に馬や牛の骨を括りつけて結氷した運河や川、湖の上を滑って移動したのは生活の手段だ。やがて動物の骨から鉄製のブレード刃に変わり、17世紀、運河を町から町へスケートでの周遊が盛んに行われた。そして運輸交通手段が競技化するのはスキーと同じだ。

 スケートはオランダから英国北東部、欧州北部へと伝わり、1763年に英国東部の沼地で行われた大会が記録に残る最も古いレースだとされる。19世紀には米国やロシアにも伝播、1889年にオランダの首都アムステルダムで最初の世界選手権が開催された。

 一方、欧州ではスピードスケートとは別のルートで貴族層に、氷上に図形や模様を描く遊びが伝わる。フィギュアスケートである。そして集団で美しさを表現するグループスケートが広まっていった。

ノルディック・ゲーム

1908年ロンドン・オリンピックのフィギュアスケート男子シングルで優勝したサルコウ

1908年ロンドン・オリンピックのフィギュアスケート男子シングルで優勝したサルコウ

 こうした冬のスポーツをまとめた競技大会が19012月、スウェーデンのストックホルムで開かれた。「ノルディック・ゲームズ=北欧競技会」である。初期のIOC委員でもあるスウェーデンのヴィクトル・バルクが中心となって企画。デンマークやノルウェー、フィンランドなども参加してスキージャンプ、クロスカントリースキー、フィギュアスケートやアイスホッケーにカーリング、さらにトナカイが引くスキーなど今はなじみのない競技も行われた。

 大会は4年に一度、スウェーデンの文化や歴史、観光も紹介しながら1926年まで続いた。北欧国がアイデンティティを誇示、夏のオリンピックに対抗する拠り所にほかならない。

 1908年第4回ロンドン・オリンピック組織委員会はその競技会に触発された。近代スポーツ発祥の地の誇りにかけて第2回パリ、第3回セントルイスのように万国博覧会“付属”の開催から脱却すべく知恵が練られた。英国では1895年、百貨店ハロッズがあるナイトブリッジに欧州初の屋内スケート場プリンス・スケートクラブ・リンクが完成、フィギュアスケートを楽しんでいた。組織委員会はそこに着眼。「実施種目は近代スポーツに限る」との項目を盾に、冬のフィギュアスケートを夏季大会にプログラミングしたのだった。

 実施は4種目。男女シングルと男子スペシャルにペア。6カ国から男子14選手、女子7選手が出場した。このときの男子シングル初代チャンピオンがジャンプ技に名を残すスウェーデンのウルリッヒ・サルコウである。

 クーベルタンは、著書『オリンピック回想録』(伊藤敬訳)にこう書いた。

 「大会は『冬季競技』の名のもとに、付随的な競技を伴った。それは十月、ボクシング、人工氷上でのスケート、サッカー、ホッケーなどである。これは必ずしも適切な対応ではなかったが、イギリスのスポーツの季節的な慣例を考慮すると、そうせざるを得なかった」

 ボクシング、サッカーを冬季競技とよぶかはともかく、「人工氷上スケート」を「必ずしも適切な対応ではなかった」「イギリスのスポーツの季節的な慣例」と記したあたりにクーベルタンの底意がのぞく。

スカンジナビア VS フランス、カナダ

 このロンドン大会をきっかけにIOCでも「冬季競技のオリンピック化」が話題にのぼる。第1次世界大戦とスペイン風邪終息後の1920年にベルギーのアントワープで開催された第7回大会では、フィギュアスケートに加えてアイスホッケーも実施された。

 そして19216月のIOCローザンヌ総会の議題に「冬季オリンピック開催」が登場。フランスやスイス、カナダなどのIOC委員が強く主張し、19226月のパリ総会で実験的に独立した国際冬季競技大会をIOCの支援で開催、その結果で冬季大会独立を決めることになった。

 しかし議論では、スウェーデン、ノルウェーが強く反対する。スウェーデンは北欧のアイデンティティとも言われる「ノルディック・ゲーム」を主催。ノルウェーは実質的な世界選手権「ホルメンコーレン大会」を開催していた。オリンピックの枠組みに取り込まれるとIOCに冬季競技の主導権を奪われるかもしれない。彼らはそれを嫌がった。

 しかし、議ことはフランスを中心にスイス、カナダの言い分に押されて進行。結局、北欧諸国は反対論を取り下げざるを得なくなってしまう。実験的な大会の開催が決まった。

 「この25年間で、冬のスポーツは他の多くの国に普及したばかりではなく、それがアマチュアリズムと闊達で純粋なスポーツの尊厳の性格を示すようになってきており、これらをオリンピックのプログラムから全面的に排除するとなると、オリンピックの力と価値は大いに殺がれることになるだろう」とクーベルタンは前掲『回想録』に書いた。

 冬季オリンピックに否定的だったはずのクーベルタンが、淡々と受け入れているかのように映る。彼の理解が進んだからか、抵抗しきれないと悟った諦観だったか、思いはわからない。ただ『回想録』が晩年の1931年に出版された著作で、時間が意識を変えたとしても不思議ではない。そして同じ1924年に出身地パリでオリンピックが開催されることと関わりがあるのか、深読みしたくなる。

成功した実験大会

1924年シャモニー・モンブラン冬季大会の開会式。宣誓はフランスの旗手マンドリヨン

1924年シャモニー・モンブラン冬季大会の開会式。宣誓はフランスの旗手マンドリヨン

 実験的な「国際冬季競技週間」は1924125日から25日まで、南フランスのシャモニー・モンブラン地方で開催された。スキー(距離、ジャンプ、ノルディック複合)、スケート(スピード、フィギュア)、アイスホッケー、ボブスレー(4人乗り)の4競技14種目にデモンストレーションのカーリングとミリタリー・パトロール(バイアスロンの前身)を加えた6競技16種目に16カ国から女子13人を含む258選手が参加した。女子13人はフィギュアスケートに出場した。

1924年シャモニー・モンブラン冬季大会のクロスカントリースキー18kmと50km、ノルディック複合個人の3種目で金メダルを獲得したトルライフ・ハウグ(ノルウェー)

1924年シャモニー・モンブラン冬季大会のクロスカントリースキー18kmと50km、ノルディック複合個人の3種目で金メダルを獲得したトルライフ・ハウグ(ノルウェー)

 主催のフランスサイドは1件しかないシャモニーのホテルを関係者に提供、観客のためには鉄道やシャトル・バスを運行しケーブルカーを架設した。懸念は北欧勢の参加。強い抵抗を示したノルウェーとスウェーデンは出場するのか。フランスの駐ノルウェー大使が北欧陣営の主要関係者に頭を下げて、施設建設や運営に意見を求めるなど、異例の努力は特筆されてよい。

 結局、懸念は杞憂に終わり、ノルウェーが得意のスキーなどで金4、銀7、銅6と参加国最多17個のメダルを獲得し、フィンランドは金4、銀3、銅3、スウェーデンも金1と北欧勢で14種目中9種目に優勝。改めて冬季スポーツの先進国ぶりを内外に示した。

 フィギュアスケートでは11歳になるノルウェーの少女ソニア・ヘニーに話題が集まり、次の第2回から3連覇、後にハリウッド女優となる華やかな人生をスタートした。

 天候にも恵まれた実験は成功した。「1924年に試験的に独立した大会を開いてみて、その結果によって、冬の大会をどうするか確定する」という総会の決定に従い、IOCは翌1925年のプラハ総会でシャモニー・モンブランを第1回冬季オリンピック競技大会として追認。合わせて28年にスイスのサンモリッツでの第2回大会開催を決めた。

冬季大会は完全な勝利だったのか?

 同じ25年、クーベルタンは冬季オリンピックの独立承認と引き換えのようにIOC会長をベルギー出身の貴族アンリ・ド・バイエ=ラツールに託して表舞台から退場した。

『回想録』は冬季大会についてこう記す。「冬季大会は、完全な勝利であった」「副次的に行われてきた冬の大会が正式に承認されることをつねに願ってきたわたしは満足であったが、このとき、われわれの憲章の中に『冬季競技の章』を入れることを認めてしまったのは、のちの紛糾の原因ともなりかねないだけに、気がとがめている。現行のように、冬季大会に対して別の番号で数えることは禁じられるべきであり、夏季大会と同じオリンピアードとして数え上げるべきだった」

 19265月、IOCリスボン総会は以下のような決定を行った。

 夏季大会が古代オリンピックの伝統を受け継いで「オリンピアード競技大会」と称されるのに対し、冬は「オリンピック冬季競技大会」を名乗る。4年に1度開催されるのは同じだが、4年間を夏が「オリンピアード」というのに対して「サイクル」であり、夏は中止された大会も回数に数えるが、冬は実施された大会を回数とする。さらにメダルや賞状も夏と違い決まりはなく、それぞれの大会ごとデザインが変わった。現在は変更されているものの、1948年以前は夏の開催国に冬季オリンピック開催権が優先的に付与された。ただ実際に開催されたのは1932年レークプラシッド(米国・夏はロサンゼルス)と1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン(ドイツ・夏はベルリン)の2例のみ。1940年年札幌は第二次世界大戦に発展する戦禍の拡大で夏の東京が開催権を返上、アジア初のオリンピック開催という栄誉は戦後まで待たねばならなかった。

 こうした夏季と冬季との差異を、クーベルタンは『回顧録』で憂えたが、本音はどうであったか。私にはIOCによる創始者の理想への配慮に思われてならない。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。