2022.02.04
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2022.02.04
1952年オスロ大会、スキー回転で11位の結果を収める猪谷千春
日本の冬季オリンピック史上初のメダルは1956年コルチナ・ダンペッツオ大会、アルペンスキー回転で猪谷千春が獲得した銀メダル。1928年第2回サンモリッツ大会の初参加以来、28年の時が流れていた。
その銀メダリストを語る前に、彼の両親に触れておきたい。父・六合雄(くにお)は群馬・赤城神社神官を祖父に、赤城山の旅館の息子として生まれ、海外から紹介されて間もない頃にスキーに魅せられて滑走技術を研究、草創期の日本スキーの草分けとなった。1920年代中期に独学でジャンプ台を設計し、ジャンプに打ち込む姿は『ジャンプ台を幾度飛び降り傷つきし 猪谷六合雄かも われは尊ぶ』と詠われた。母のサダも日本人女性初のジャンパーとして知られる。
両親は雪を求めて各地を移り住み、1931年5月30日に千島列島国後島で生まれたのが千春。「千島の春」が命名の由来である。その後も赤城山に戻ったかと思えば長野・乗鞍や青森・浅虫、長野・志賀高原などに移住。六合雄の名著『雪に生きる』に描かれた生活のなかで、千春少年は2歳でスキー板をはき父の指導で才能を伸ばしていった。余談ながら六合雄のものに囚われず、ものを創り出していく生き方は昨今の自然回帰を求める人々の理想と言えるかもしれない。
日本人初の冬季オリンピックのメダルを獲得した、1956年コルチナダンぺッツォ大会回転のスタート風景
猪谷千春の名が初めて知られたのが1943年の神宮大会(現在の日本選手権)回転。前走で出場した11歳は優勝者より6秒早い記録でゴールし「神童」「天才少年」と話題になった。戦後初めて日本が国際舞台復帰を果たした1952年オスロ大会に出場。滑降24位、大回転20位、回転11位に終わったが、日本では非主流扱いされた体重移動の滑走が世界のトップ選手と同じだったことで自信を深めた。
そしてオスロ出発直前に知り合った米保険会社AIGの創始者コーネリアス・バンダー・スター氏の勧めで米ダートマス大に留学。スキーの技術を磨き国際感覚を身につけ、1956年コルチナ・ダンペッツオを迎えた。銀メダルを獲った回転では、スタート直後の旗門でスキーの先端をひっかけ転倒しそうになりながら咄嗟の切り替えしで難を逃れ、優勝したオーストリアのトニー・ザイラーとは4秒差ながら2位に入った。旗門不通過ではないかとクレームがついたが、審判員が確認し2位が確定したエピソードもある。日本人初の冬季メダルはアジアの冬季初メダルであった。
猪谷氏は1982年に国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任し理事、副会長を歴任、現在は名誉委員。「IOC委員の夢は自国にIOC総会とオリンピック競技大会を誘致すること、そして自分の出身競技の自国選手にメダルをかけること」と語るが、最後の1つはまだ実現できていない。
猪谷千春の銀メダル以降、日本の冬季スポーツは長くメダルと縁のない時代が続いた。1966年のIOCローマ総会で「(1940年札幌大会の返上以来)30年間埋もれてきた冬の花を咲かせていただきたい」との思いが通じ、1972年冬季大会の開催地は札幌に決まった。大会直接経費173億500万円に地下鉄のなど都市整備費2200億円を投じ、札幌が今日の大都会に発展する基盤が整備された。トワ・エ・モワが歌う「虹と雪のバラード」を人々が口ずさみ、日本ジャンプ陣にメダル獲得の期待が高まった。
抜けるような青空が広がった2月6日、70m級(当時、現ノーマルヒル=NH)ジャンプが行われる宮の森ジャンプ競技場には朝から約2万5000人の観衆が詰めかけた。
午前11時、1本目の試技が始まり、日本勢はまず金野昭次が82m50の大ジャンプ。2番手青地清二は83m50だ。3番手の藤沢隆も81mで続き、45番目にエース笠谷幸生が登場するまで3人が上位に並んだ。笠谷は美しいフォームで弧を描くと最長不倒の84m、トップに躍り出た。小休止の後の2本目、スタート地点が少し下げられ、距離は出ない。金野は79m、青地は力み過ぎて77m50。2位と3位が入れ替わった。藤沢は踏切が合わずに飛距離を落としてメダル圏外に。ただライバルの外国人選手も金野、青地を上回れない。そして笠谷だ。横からの風が出てスタートが待たされる。しかし笠谷は落ち着いてスタート。79mを跳んだ。金メダルだけではない。銀も銅も、日本勢による表彰台独占が決まった。
1972年札幌大会スキージャンプ70m級の表彰、左から金野、笠谷、青地
大騒ぎとなる会場、人波にもまれながら4位に終わった最大のライバル、ノルウェーのインゴルフ・モルクが笠谷を担ぎ上げ、肩車して称えたシーンは長く歴史に残る。表彰台の3人は「日の丸飛行隊」と呼ばれた。
それから5日後の11日、90m級(現ラージヒル=LH)ジャンプが行われる大倉山ジャンプ競技場の観衆は4万人を超えた。すべての期待が「日の丸飛行隊」に向けられたが、日本勢は別人のように力を出し切れず、笠谷の7位が最上位。ほかは10位以下に沈んだ。
当時の新聞各紙は観客の落胆ぶりを伝えているが、やはり選手たちにはより「重圧」がかかっていたと思われる。記録映画『札幌オリンピック』のメガホンをとった監督の篠田正浩は笠谷を追い、90m級で肩を落とした背中で「敗北の美学」を描いてみせた。
札幌でノルウェーやフィンランド、ポーランドと並ぶジャンプ強国になった日本だが、その後のオリンピックはなかなかメダルに届かなかった。1980年レークプラシッド大会70m級で八木弘和が獲得した銀メダルが1976年インスブルック大会から1992年アルベールビルまで5大会唯一の表彰台だった。
1991年IOCバーミンガム総会は1998年冬季大会の開催都市に長野を選んだ。札幌以来の開催決定で日本スポーツ界は沸き返り、大会準備とともに選手強化が進められるが、ジャンプ勢の続報の前に、「宇宙人」「新人類」と呼ばれた選手を紹介したい。ノルディック複合チームである。
夏季大会と同一年開催最後となった1992年アルベールビル大会では、日本スケート陣にスポットライトがあたった。勢い報道陣の取材はスケートに比重がかかる。ところがノルディック複合団体が初日のジャンプで首位に立ち、2日目の10km×3人のクロスカントリーで逃げ切る可能性が高いとなった。スキーが行われるクーシュベルはスケート会場のアルベールビルから約50km隔てた山向こう。報道陣は慌てて移動した。
ポイント換算で2位ノルウェーとの差は6分以上あった。しかし距離が不得手な日本のなかでも第1走者三ケ田礼一はとくに苦手。それでも2分1秒差で第2走者の河野孝典につなぐと、河野は踏ん張り、1分55秒差で最終走者荻原健司へ。荻原は3人のなかでは最も脚力がある。ノルウェーの猛追を交わし、50m手前から大きな日の丸を手にし、旗を振りかざして優勝ゴールに飛び込んだ。72年札幌の笠谷以来の金メダルであった。
三ケ田と河野は早大OB、荻原は現役早大生。物怖じせずに世界のトップ選手たちと渡り合い、表彰台でシャンパンファイトする姿に「宇宙人」「新人類」と異名がついた。
夏と冬が2年おき開催となった始まりは2年後の1994年リレハンメル大会。複合団体は三ケ田がサポートにまわり、前回サポートを務めた阿部雅司がリード役を務めた。河野と荻原とで組んだトリオは試合前の予想にたがわず、危なげない強さで2大会連続金メダル。日本冬季史に大きな足跡を残した。ただワールドカップ個人総合3連覇、「キング・オブ・スキー」の名称をほしいままにしていた荻原は風の変化に泣き、個人戦4位に終わった。「新人類」も自然には弱かった。
1994年リレハンメル大会、ノルディック複合団体で観客の声援を受けながらゴールに向かう荻原健司(右)
その荻原は1998年長野大会で日本選手団主将として選手宣誓の大役を担い、いまその長野市の市長を務めている。個人戦で銀メダルを獲得した河野は日本代表チーム強化コーチ。長野・北野建設スキー部で荻原の薫陶を受けた早大後輩の渡部暁斗を指導し、2014年ソチ、18年平昌大会連続銀メダルを支えた。伝統の継承といっていい。
さてジャンプ陣である。リレハンメル大会ではLH団体金メダルにほとんど手をかけていた。西方仁也、岡部孝信、葛西紀明の3人は絶好調。2本目の3人目までに2位ドイツに55ポイント差。最後のジャンパー原田雅彦がごく普通に105mほど跳べば、あの札幌以来のジャンプ界の悲願が達成されるはずだった。
ところが魔が差すとはこのことだろう。ドイツの4人目イェンス・バイスフロクが135.5mの大ジャンプ。原田にプレッシャーをかけた。日ごろ陽気なムードメーカー役だが、本音は責任感の塊のような原田はこの飛躍で身を堅くしたのかもしれない。踏み切ったフォームに勢いはなく、100mにも届かずに落ちた。97.5m。着地と同時に頭を抱えたまま、うずくまった。日本の報道陣が魂の抜けたような顔でその姿をみていた。
1998年長野大会、悲願の金メダルを獲得した日本スキージャンプ団体、左から船木、原田、岡部、斎藤
苦い味の銀メダルから4年。地元長野開催に向けて、「日の丸飛行隊」再興をめざす日本のジャンプチームは直前まで、団体戦最終メンバーを決められないでいた。原田はリレハンメル後の不調から立ち直って97年世界選手権LH優勝、NH2位、団体2位。97‐98シーズンW杯5勝していた。94‐95シーズン鎖骨骨折した葛西に代わって代表入りした船木和喜はW杯に初出場初優勝し世界のトップ選手の仲間入り。97‐98シーズンではジャンプ週間総合優勝を飾るなど絶好調だ。この2人はすぐ決まったが残り2枠が埋まらない。候補は岡部、葛西とリレハンメルの補欠から安定感を増してきた斎藤浩哉である。
2月11日、個人NHには原田、船木と葛西に斎藤が出場、船木が銀メダルを獲得した。原田は5位で葛西が7位、斎藤は9位に終わった。15日の個人LHでは船木が笠谷以来となる金メダルを獲得。原田は銅メダルで続いて札幌以来の複数表彰が実現した。出場した岡部は6位、斎藤は2本目に進めず47位。この成績を参考にするなら3、4人目は岡部、葛西となるはずだ。しかし、当時のヘッドコーチ小野学は本番に強い岡部と安定した成績を残してきた斎藤を選び、葛西は団体メンバーから外れた。リレハンメルで金メダルを逃し、長野の団体メンバーから外れた葛西がその後、忘れ物を探すかのように現役にこだわっていく起点となったと言ってもいい。
LH団体は2月17日、朝から激しい雪が降っていた。こんな天候の日こそテストジャンパーの出番。中断した競技の再開、中止を決めるのはテストジャンプ次第だからだ。そんなテストジャンパー25人のなかに西方の姿があった。リレハンメル大会団体銀メダリストは長野・野沢温泉村出身。地元開催で金メダルをめざしたはずが、長いスランプに陥り、代表から外れた。
失意の西方に声をかけたのは全日本スキー連盟の関係者。安定した力と技を持つジャンパーが必要だとの理由である。ただ西方本人が心底納得していたわけではなかった。
そんな西方に競技が始まる前、声をかけたのが原田。「手袋でも、何でもいい、何か貸して」という申し出に着ていたシャツを脱いで手渡した。同じ歳、雪印乳業で同じ釜の飯を食べ、リレハンメルの悲哀を一緒に味わった仲間である。不安の思いを西方と"一緒に跳ぶ"ことで紛らわせたかったのか、原田は西方のシャツを着て競技に臨んだ。
1本目、日本は4位だった。雪の中、トップの岡部が2位につけ、2番手斎藤が1位にチームを押し上げた。しかし、原田が雪で助走のスピードが落ち、79.5mの失敗ジャンプ。リレハンメルの悪夢がよみがえった。
2本目が始まっても雪は降り続いている。第1グループの8人目が跳んだあと、競技は中断。そのまま競技打ち切り、1本目の成績でメダルが決まる可能性は否定できない。日本の上位にいる3カ国の競技委員は打ち切りを主張。競技の結果、テストジャンパーのジャンプ結果で判断するとなった。
テストジャンパーたちはきっちりと跳び、きれいに着地した。だれも転倒しない。転倒すれば競技が終わり、日本がメダルをのがすことがわかっていたから、きっちり着地を決めた。そして競技委員たちは、西方をみていた。彼が安定したジャンプをすれば競技を再開する。西方は跳んだ。K点を超える 123mの大ジャンプだった。それは原田たちへの応援メッセージであったと思う。
再開された2本目。日本は岡部が137mの大ジャンプ、斎藤が続き、原田は悪夢を振り切った。飛距離は137m。
「原田、立て!」
―言葉が雪の中に響いた。そして船木がきちんと着地を決めて、新しい「日の丸飛行隊」が誕生したのである。
1998年長野大会スキージャンプ団体、歓喜にわく観客
船木は世界を代表するジャンパーとしてオリンピックオーダー銀章など数々の賞を受賞し、ジャンプ競技の普及に力を注ぐ。原田は2022年2月4日開幕の北京オリンピック日本選手団総監督、日本オリンピック委員会(JOC)理事でもある。
葛西はその後18年北京まで冬季史上最多8大会連続出場を果たし、14年ソチでは個人LH銀メダル、団体LH銅メダルを獲得。「レジェンド」と称される。そして長野の栄光を裏で支えた西方たち25人のテストジャンパーの姿は、映画『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち』に昇華された。