2023.06.29
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2023.06.29
奇妙な距離を感じた。2030年冬季オリンピック・パラリンピック招致に名乗りを上げている札幌市と市民との距離感である。
2022年12月半ば、まだ雪が小康状態の札幌を訪ねた。スポーツ関係者に問えば、「ぜひオリンピック・パラリンピックが札幌に来てほしい」と言う。しかしタクシーの運転士に話しかけると口ごもる。「来れば盛り上がるとは思いますけど、このままの状況では……」と。繁華街すすきのの飲食店でも「なんか複雑だね」とつぶやかれた。
心の底では札幌でオリンピックを見てみたい、でも表立って口にすることがはばかられる。そんな感情ではなかったか。新型コロナウイルス禍で開催された東京2020大会とロシアのウクライナ侵攻を招いた2022年北京冬季大会。2つの大会から人々はオリンピックという存在に疑問を持ち、この経済状況下、あまりにも巨額の費用をかけて巨大イベントを開催することへの罪悪感である。
そして2022年になって相次ぎ発覚した東京2020大会をめぐる不祥事が不信感を高めた。公判が始まった元電通専務で組織委員会理事と大会スポンサー企業等による贈収賄事件、そして電通を中核にした広告代理店によるイベント運営に関わる談合疑惑。そこに肯けない感情がある。成す術もないスポーツ界の姿勢にも批判の声があがる。
そうした空気も影響したか、12月20日に札幌市と日本オリンピック委員会(JOC)は「積極的な機運醸成活動を当面休止する」と発表した。札幌市の秋元克広市長は来年度の早い時期に透明性を高めた運営体制を確立し、全国に対象を広げた意向調査を実施する方針を示した。一度立ち止まって事態を分析、改めて不信感払拭のための措置を講じるという。
すでに国際オリンピック委員会(IOC)は2022年内に絞り込み、2023年春に行う予定だった2030年冬季大会開催都市決定を秋まで延期、さらに12月には「期限は設けない」と発表した。トーマス・バッハIOC会長の任期が終了する2025年が目安か、「2030年と2034年開催都市の同時決定」までも視野にいれている。
2030年大会招致に名乗りを上げたのは札幌と米国のソルトレークシティ。スペインのバルセロナとピレネーの合同開催は双方の意思の疎通を欠いて撤退、2010年大会を成功させたカナダのバンクーバーは住民の反対で動きを止めた。札幌に降りられたら……。
決定延期はIOCの焦燥感の表れとみてよい。オリンピック、とりわけ地域が限定される冬季大会開催は難しい時代を迎えた。札幌はIOCに残された数少ない有力カードでもある。
札幌の大会運営能力とボランティアの質の高さは、会場が突如変更されて実施した東京2020大会のマラソン、競歩で実証。安定的な大会開催を志向するIOCの条件に合致する。
また札幌の環境への期待感がある。2022年初頭、カナダのウォータールー大学率いる国際研究チームは、地球温暖化が冬季オリンピックに及ぼす影響について調査結果を公表。これまで冬季大会を開催した21都市のうち、今世紀終盤に再度「公平、安全な状況」で開催可能な都市は「札幌だけ」と結論づけた。
研究では過去の開催都市の2月日中の平均気温をもとに、温室効果ガス排出量の増大が温度上昇に与える影響を比較。とくにスキー会場の「雪不足」「雪の状態」から、今世紀中盤で「信頼できる」開催地は札幌とレークプラシッド(米国)さらにオスロとリレハンメル(ノルウェー)の4都市、終盤になると「札幌だけ」との結果を得たという。
2015年に締結された気候変動抑制に関する国際的な枠組み「パリ協定」が達成されると4都市に加えソルトレークシティ(米国)とバンクーバー、カルガリー(カナダ)に長野の8都市まで広がる。ただ達成確率は高いとは言えず、IOCが札幌に固執し、有力カードを失いたくはないとする理由である。
そしてIOCには1972年札幌、および1998年長野の成功体験が強く残っている……。
1972 年札幌冬季オリンピック開会式
札幌が1972年大会招致に成功したのは1966年4月である。IOCローマ総会では立候補都市のプレゼンテーションが行われた。カナダのバンフ、フィンランドのラハチ、米国のソルトレークシティと続いて最後は札幌。登壇した1964年東京大会組織委員会渉外部長、岩田幸彰は得意の英語で開催計画概要を説明し、最後にこう述べた。
「夏のオリンピックの花は見事に東京に咲いたが、30年間、雪に埋もれた冬の花を、ぜひとも1972年札幌に咲かせていただきたい」
第二次世界大戦前の1940年オリンピックは、戦禍の拡大で開催権を返上した東京にばかり光があたるが、日本初のオリンピック開催の栄誉は冬の札幌が担うはずだった。
当時、オリンピック憲章は冬季大会開催地を「夏季大会開催国に優先権」と規定していた。1940年夏の東京招致が決まった段階で冬季開催都市は日本に委ねられた。全日本スキー連盟が札幌、日本スケート連盟が栃木県日光を推し、長野県の霧ヶ峰、乗鞍、志賀高原に菅平も手を挙げた。最終的に大日本体育協会の聞き取り調査で札幌に決まるが、正式決定は遅れた。IOCと国際スキー連盟(FIS)とのアマチュア規定をめぐる対立が要因だった。
ようやく札幌開催が決まったものの、戦禍の拡大で東京は開催権を返上。札幌オリンピックも幻に終わった。
余韻は燻り、戦後1968年大会招致に名乗りを上げたが、わずか6票しか獲得できずに惨敗。1964年大会成功を背景に72年招致をめざすにあたり、岩田は「30年間、雪に埋もれていた冬の花」に喩えたのである。
投票に至るわずかな間、東京都知事として東京大会を主導したIOC委員の東龍太郎は次なる行動に出た。親日家でもあるエイブリー・ブランデージIOC会長の許可を得て、病気のために総会を欠席せざるを得なかったもう1人のIOC委員、高石真五郎の肉声を録音したテープを披露。「マイ・フレンズ……」で始まる高石の静かなスピーチが会場に深い感銘を与えたと、その場を知るオリンピック評論家、故伊藤公から聞いた。
テープが終わるとブランデージは会場の委員たちに言った。「高石を喜ばせるのは、見舞いの電報をうつことよりも、われわれが札幌に投票することではないか」と。公正を求める立場ではあってはならない異例の発言がIOC委員たちの意識を刺激、札幌は第1回投票で過半数を獲得したのである。
街に「虹と雪のバラード」が流れる。男女のデュオ、トワ・エ・モアが歌う美しい歌詞は「町ができる 美しい町が」「生まれかわるサッポロの地に」と読み込まれた。大会直接経費173億500万円に加え、都市整備費2200億円が投じられて競技施設や地下鉄などができ、100万都市の体裁を整えていく札幌。街を変えたのはオリンピックである。
1972年2月3日の開会式、ギリシャのオリンピアで採火されて国内をリレー、真駒内スピードスケート場に到着した聖火は16歳の高校生辻村いずみさんのスケーティングで聖火台の下まで運ばれ、同じ高校生の高田英基さんが階段を駆け上って点火。5色の風船を手にした800人の小学生スケーターらが入場して雰囲気を盛り上げた。未来を志向した演出に札幌の思いが込められた。
70m級(当時、現ノーマルヒル=NH)ジャンプにおける笠谷幸生、金野昭次、青地清二による表彰台の独占。そして4位に終わった優勝候補、ノルウェーのインゴルフ・モルクが笠谷を肩車して称えたシーンは長く歴史に残る。3人は「日の丸飛行隊」と呼ばれた。そして大会の成功は、半年後の8月、ドイツのミュンヘン総会でIOCが札幌市に「オリンピック・カップ」を授与したことで理解できよう。1952年オスロ、同年ヘルシンキ、1964年東京に次ぐ4都市めの栄誉である。大会準備や施設整備の卓越性、とりわけ市民の誠意がこもった対応が高く評価された。
その札幌で起きたことと言えばオーストリアのアルペンスキー選手カール・シュランツのアマチュア資格違反による参加資格剥奪騒動。今回、元NHKプロデューサー杉山茂さんが書かれた「冬季オリンピックとプロアマ問題」(今後Webサイトに掲載予定)および先年書いた拙文「エイベリー・ブランデージ 神になった『Mr.アマチュア』」を参照いただければと思う。
そしてもうひとつ、札幌は冬季大会に大きな転換をもたらした。恵庭岳のアルペンスキー滑降コースをめぐる問題提起である。
札幌の南、支笏湖に威容を映す恵庭岳は標高1320m。アイヌ語で頭のとがった岩山「エ・エン・イワ」を語源に持つ溶岩ドームに覆われた円錐型の火山である。当初、予定された手稲山がコースに必要な標高差が足りず、ここに新設された。終了後、施設を撤去し植林によって現状復元する条件がついた。
8億円かけて造成されたコースは3億円かけて復元工事を実施。しかし、本来植えるべきエゾマツの入手が困難だったため、完全復元には至らなかった。
ただ、札幌が取った対応はオリンピック・ムーブメントにおける初の環境保護対策にほかならない。その意味では、札幌が原状回復を試みたことは誇っていい。
その後、例えば1988年カルガリー大会では環境保護団体などの意見に沿って施設建設が行われるなど、札幌発の対応がオリンピックと環境問題に道を開いたといってもいい。そして、長らく環境問題で批判されていたIOCは1994年のパリ・コングレスで「スポーツ」と「文化」に加えて「環境」をオリンピック・ムーブメントの柱として明文化。以後、招致段階から「環境への配慮」を立候補都市に求める姿勢に変わっていった。
そして、その精神は1994年リレハンメル大会における「グリーン・オリンピック」となり、1998年長野大会の「美しく豊かな自然との共存」を基本理念に掲げた開催に結ばれていく。
長野はある意味、環境問題に振り回された大会だったといってもいい。なかでも札幌・恵庭岳と同じスキーの滑降コースである。
当初計画では志賀高原の岩菅山に新設する予定だった。オリンピックやワールドカップではスタート地点からゴールまでの標高差は800から1000mと定められていた。スケールの大きなスキー場を持たない日本では設置場所が限られる。岩菅山はダイナミックなコースができると期待されたが、自然保護団体が強く反対。組織委員会と折り合いがつかず、代替案として八方尾根に変更された。
ところが、その八方尾根のコースでもスタート地点の高さが問題となり、1800mを主張する国際スキー連盟(FIS)と国立公園第1種特別地域の規制から1680m地点に固執した組織委員会とが対立。一般スキーヤーが滑っているとのFISの主張が認められる一方、問題地点にかかる前にこぶを造ってジャンプで飛び越える案が採用され、決着したのは開幕2カ月前という薄氷を踏む状況であった。
白馬村で予定していたバイアスロン会場は国内希少野生動植物種に指定されていたオオタカの営巣が見つかって野沢温泉村に変更。白馬村のクロスカントリーコースは薬剤を使わず畳を雪の下に敷いて造り、開会式では水分に触れると分解する材料でつくられた風船のハトが飛ばされた。長野らしくリンゴの搾りかすを利用した紙食器も登場した。
環境と景観に配慮しながら造成された飯綱高原のボブスレー会場はそれでも環境保護団体から批判を浴びた。長野はまさに環境オリンピック過渡期の大会にほかならなかった。
それでも大会は成功裏に終わった。選手の活躍である。最初の金メダルは男子スピードスケート500mの清水宏保。161cmという小柄ながら下半身を強化、世界最高のスタートダッシュで加速し1、2本ともトップの記録(この時は2本走り、合計記録で順位を決定)で優勝を飾った。日本スピードスケート界悲願のオリンピック初金メダルであった。女子500mの岡崎朋美が銅メダルで続き、清水は1000mでも銅メダル。スキーのフリースタイル女子モーグルでは里谷多英が思い切りのいいターンとコザックという豪快な技で優勝。日本の女子選手としては初の金メダルを獲得した。そしてスケートのショートトラック男子500mで19歳の西谷岳文が日本選手冬季オリンピック最年少の金メダル。地元開催を盛り上げた。
圧巻はスキーのジャンプ。吹雪のなか、2回めの試技は中止されるかどうかの瀬戸際を救ったのは、リレハンメル大会の銀メダリスト西方仁也ら25人のテストジャンパーたち。彼らの渾身のジャンプ成功で2回めが実施されて、1回め4位だった日本チーム(岡部孝信、斎藤浩哉、原田雅彦、船木和喜)が大逆転、悲願の団体金メダルを獲得した。観客の歓喜は頂点に達したなかで、西方ら裏方の貢献は後に「ヒノマルソウル」として映画化された。そして「世界一美しい」と評された船木は個人ラージヒルでも金、ノーマル銀と2つのメダルを獲得し、原田はラージヒルで銅メダルに輝いた。将来にわたって語り伝えられるべき物語である。
1998 年長野冬季大会スキージャンプラージヒル団体、金メダルを獲得した日本チーム
それにしても1998年長野は、1964年東京や1972年札幌、東京2020大会が2度目の立候補で開催都市に選ばれたなか、たった1度の立候補で開催地となった稀有な都市である。
1991年6月、英国バーミンガムで開かれたIOC総会。スウェーデンのエステルスンドにスペインのハカ、イタリアのアオスタに本命視される米国ソルトレークシティが立候補、5都市のうち得票数最下位の都市を振るい落としながら投票が続いた。4回めの決戦は長野とソルトレークシティとの一騎打ち、46票対42票、わずか4票差の選出だった。IOCサイドは選出理由を「札幌に続いてアジアで開く意義」を強調したが、欧米メディアは「ジャパンマネーが買った長野大会」と評した。
IOCが本部を置くスイス・ローザンヌの象徴であるレマン湖の畔に建つオリンピックミュージアム。現在は2代目の建物になっているが、初代は1993年に完成した。建設では多くの日本企業が資金を供出し、支援した。
当時の日本オリンピック委員会(JOC)会長堤義明が影響力を駆使、日本企業をまとめ上げたことが長野招致成功の要因だといわれる。ビジネス面でも関係の深かったサマランチ、堤両氏の友好関係が優位に働いたとも指摘されたが、今日の日本が失った最後のダイナミズムであったかもしれない。長野にとっては国内選考で1940年、1968年招致に名乗りを上げたもののいずれも札幌に敗れており、まさに“3度目の正直”であった。
その長野の招致活動は大会後、大きな批判を浴びた。それは前述のミュージアムや堤-サマランチ関係を指すものではない。招致にかかった経費を記した帳簿を焼失したとされる問題に行きつく。多額の費用がどのように使われたか、記録は故意に消し去られたと指摘されるが事態は歴史の闇に隠れた。
その後、1998年暮れにソルトレークシティの2002年大会招致をめぐる疑惑が発覚する。関与した6人のIOC委員の追放を含む20人の委員が処分され、4人の委員が辞任。IOCの屋台骨を揺さぶった招致スキャンダル、汚職事件である。ソルトレークシティは有力視されながら1972年は札幌、1998年では長野に敗れた。是が非でも招致を成功させたいとするあまりの暴走であった。
IOCはその後、改革に取り組んだ。だが2018年リオデジャネイロ、東京2020大会でも招致をめぐる疑惑が浮上。リオデジャネイロでは招致の先頭に立ったブラジルオリンピック委員会会長でIOC委員でもあったカルロス・ヌズマンが買収容疑で逮捕、禁錮30年11月の有罪判決をうけている。東京2020大会の招致疑惑もなお捜査が続く。
こうした不祥事もまた2030年札幌招致に影を落とす。とりあえず歩みを止め、冷静に対処しようとする札幌はいま一度、「なぜ札幌にオリンピックを招くのか」その原点に立ち戻り、明確なメッセージを発信すべきだ。
1972年札幌が発した環境への提言は、その後のオリンピック・ムーブメントの柱のひとつとなった。2030年は国連が定めた持続可能な開発目標SDGsのゴールの年にあたる。気候変動化に関わる国際的な枠組み「パリ協定」の節目でもある。何のために札幌は手を挙げるのか、招致の意義を語るのは義務である。