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「スケート王国」満洲と岡部平太

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.05.16

かつて満洲国があった

「かつて満洲国という国家があった」

 山室信一の名著『キメラ―満洲国の肖像』は、文章をそう書き起こす。現在の中国東北部、遼寧から吉林、黒竜江に熱河の各省と内モンゴルにまたがる満洲国は19323月、日本の後ろ盾によって建国。1945年8月18日、日本の敗戦で皇帝溥儀が退位宣言し、13年あまりで地上から消滅した国である。

 日本人が清朝勃興の地、満洲に入っていくのは1880年代で、1904年日露戦争開戦時の在満日本人は3000人ほどに過ぎない。日露戦争勝利後の1905年ポーツマス条約によってロシアが保有していた旅順と大連および関東州の租借権を獲得、東清鉄道の長春以南の支線経営権および付属地の租借権も得た。

 翌年、日本政府は国策会社南満洲鉄道株式会社(満鉄)を創設した。沿線付属地の経営を任せ、関東州および付属地保護の名目で関東軍が勢力を拡張。1931年の満洲事変を経て満洲国建国に向かうのである。当時の在満日本人は約23万人。満洲の好景気や国が奨める移住策等により、その数は増えていった。

 ちなみに満洲国成立以降に実施された人口調査では、1932年総人口30655000人に対し日本人は587000人、10年後の1942年には総人口46564000人で日本人は1149000人と比率を高めた。彼らの大半は日本の大陸侵攻策とは無関係に日常生活を営み、暮らしのなかでスポーツに親しんでいた。

スケート満洲の存在感

1932年レークプラシッド冬季大会スピードスケート日本代表。左から、木谷徳雄、石原省三、潤間 留十、河村泰男

1932年レークプラシッド冬季大会スピードスケート日本代表。左から、木谷徳雄、石原省三、潤間 留十、河村泰男

 冬季スポーツ、冬季オリンピックの歴史を紐解いていくと満洲スポーツ、とりわけ氷上競技の隆盛を伺い知る事になる。

 戦前、日本は1928年サンモリッツ、1932年レークプラシッド、1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンと3つの冬季オリンピックに代表選手を送った。そのうち1932年、1936年の氷上競技に満洲という地名がのぞく。

 国内スケートの統一組織として大日本スケート競技連盟(現・日本スケート連盟)が発足したのは1929年、1932年大会に待望の代表を派遣した。スピード4選手中、長野県岡谷の潤間留十を除く木谷徳雄、石原省三、河村泰男の3人は満洲育ちの「満洲っこ」だった。

 3人は日本最高記録を樹立するなど健闘したものの、初出場の気負いと不慣れなオープン・コースのレースに戸惑った。

 続く1936年もスピード6選手中、主将の河村、早稲田大学に進んだ石原と南洞邦夫が満洲育ち。アイスホッケー日本代表13人のうち主将の庄司敏彦を筆頭に5人が満洲医科大学のOBおよび在校生である。

 この大会では2度目の出場となった石原が500mで並み居る強豪を抑えて4位に入り、日本初のオリンピック入賞を果たした。記録は3位の米国選手レオ・フライシンガーに0秒1差の44秒0。河村は「我が短距離走法の勝利」と『日本スケート発達史』に記した。

子どもたちはスケート靴を首に登校した

  日本のスケートは18913月、あの新渡戸稲造が母校札幌農学校(現・北海道大学)に赴任した際、米国留学から持ち帰った3足のスケート靴を学生にも貸し出し、滑走した事を嚆矢とする。満洲では遅れて190412月、ウラジオストックにいた石川用之助が朝鮮国境の安東、鴨緑江で滑走した事が始まりとされる。満洲勢が急速に力をつけ、内地勢を凌ぐ背景には何があったのだろう。

「冬の付属地内では、小学生たちが、首に靴付ロングスケートを懸け通学する姿を見ることは決して珍しくなく、内地では見られない満洲の冬の風物であった」

 2度オリンピックに出場した河村泰男は、満洲の冬をそう伝える。

 満洲の冬は1日の昼夜の気温差が20度にもなる。地上に水を撒いておけば、一夜にしてスケート場ができた。満鉄沿線の付属地内の小、中学校では校庭が立派なスケート場に変貌、子どもたちの滑走と歓声でにぎわった。

 そんな姿に導いたのは、実は満鉄である。長い冬だが、満洲の家は堅牢な造りでペチカが燃えてなかは暖かい。撫順炭鉱からの石炭は安価で豊富。人々は自然、戸外で遊ばず、家にこもって花札やマージャンにうち興じた。

 満鉄はこうした風潮をよしとはせず、寒さに慣れ、寒さに立ち向かう精神を養う手段としてスケートを推奨。1908年には本社のある大連に副総裁国沢新兵衛を会長とする大連スケーチング倶楽部を創設した。

 1909年からは小学校でのスケートを奨励。1919年に初の全満洲学童スケート大会を開催し、1921年からは満鉄沿線小学校聯合氷滑大会が実施された。満鉄寄贈の優勝旗を争うこの大会から、河村や石原、木谷など満洲の一流選手、のちのオリンピック代表が育った。

 満鉄はさらに付属地ごと競技会を開催し、1915年に2月には第1回満鉄氷上運動会を奉天で開催した。小学生大会で活躍した選手たちが中学、さらに上級学校や社会人に進み、付属地を背負って覇を競った。企画、運営したのは初代総裁中村是公の声がかりで1909年に創設されたスポーツ組織「満鉄運動会」と各付属地の支部である。豊富な予算のもと、組織だった競技会の開催、教育や指導が満洲スケート界の足腰を強くした。

岡部平太という存在

岡部平太(1950年)

岡部平太(1950年)

 その満鉄に1921年、新しい体育主任が着任する。岡部平太である。近年、京都大学教授の高嶋航や日本学校体育研究連合会会長の友添秀則らの著述で再評価の兆しがみえるが、長くスポーツ界では異端扱いされてきた。

 岡部は1917年に東京高等師範学校(現・筑波大学)研究科を卒業後に渡米、シカゴ大学に学ぶ。講道館四段の柔道家だが、米国ではテニス、バスケットボール、水泳、陸上競技にボクシング、アメリカンフットボール、野球まであらゆるスポーツに接してスポーツ学、コーチ学を修め、1920年帰国した。

 しかし東京髙師講師に就任したものの、極東競技大会をめぐって大日本体育協会の方針を批判し会長岸清一に反発、1924年パリ・オリンピック選手派遣問題で袂を分かった。そして米国のプロレスラー、アド・サンテルの講道館柔道への挑戦問題では試合を黙認しようとした嘉納治五郎と対立。自ら講道館脱退届を出して嘉納との縁を切った。

 嘉納は岡部を夫婦で自宅に居留させるなど後継者と目していた。さぞかし落胆は大きかったと思う。一方の岡部は留学の支援者であった実業家内田信也(のち政治家)が私財を投じた水戸高等学校(現・茨城大学)に赴任。陸上競技、野球、柔道、剣道、サッカーを指導し著しく競技力を向上させた。しかしここでも校長の渡辺又次郎と対立、半年後に新天地に活路を求めて、満洲に渡ったのである。

「世界」をめざした満洲っこ

 沿線付属地の教育権を持つ満鉄の体育主任はスポーツ振興と学校体育の責任を担う。“反逆児”をトップに据えればどうなるか、満鉄としても実験だったのではないか。注目の岡部はしかし、期待以上の手腕を発揮した。

 着任翌年の1922年に統括組織として「全満洲競技連合会」を創設し会長に就任。同会は外遊中の1924年「満洲体育協会」に改称された。岡部はこの満洲体協を背景に満洲スポーツ界を改革し、優秀なアスリートの招聘、指導体制確立により競技力を向上させた。女性のスポーツ参画にも着手し、満洲を「スポーツ王国」に育てていった。

 各競技の全満大会を組織した岡部は、満洲スケートのメッカ安東に足を運び満鮮選手権開催にこぎつける。ただ1922年1月の第1回大会はスタート合図から計測、400m、1600mという構成はすべて陸上競技流だった。

 そんな岡部に満鉄は「海外体育施設の実況と運用用法等の調査」を命じ、192312月、大連から外遊の旅に出た。サンフランシスコからシカゴを経てカナダ・モントリオール。再び米国スプリングフィールドに戻り、ニューヨークからロンドン、コペンハーゲンを経由してストックホルム、アントワープとまわり、ベルリンからパリに着くのは516日。朝日新聞社から特派員を委嘱され、パリ・オリンピックも取材する8カ月の長旅だった。

 その際、モントリオールで得た氷の知識が満洲スケート界を興隆に導く。氷のリンクのつくり方である。満洲では土手をつくり、水を流し込んで凍るのを待ったが、地面の凹凸や小石で氷に空洞ができるのが常だった。しかし、カナダでは冬の始めにグラウンドや枯れ芝に水を撒き、凍らせた氷層にさらに水を撒き、凍らせて幾重にもなった滑らかなリンクをつくっていた。このカナダ流を導入すると、選手たちの記録が伸びていった。

 滑り方を学び、アイスホッケーに初めて触れた。ジャンプ台から転げ落ちて坐骨を骨折した代わりに得たものは大きかった。

 帰国した岡部は陸上競技流だったスピードスケートのレースを500m、1000m、1500m……の国際基準に変更。さらに記録の向上を求めて1927年にはハルビン在住のロシア人東清鉄道社員ルシチャイに指導を仰ぐ。世界選手権出場経験を持つルシチャイは500mを47秒台で滑った。この年実施した全満スケート記録会の500m優勝記録は52秒、奉天中学の多田満洲雄がうちたてた満洲新記録であった。

 彼の滑りはあきらかに異なっていた。とりわけコーナーの滑り方が違う。エッジに乗れず、スピードの落ちる満洲勢に対し、ルシチャイは滑らかでタイムもうわまわる。岡部は東清鉄道と交渉し、ルシチャイに満洲各地で指導にあたらせた。この技術はやがて、満洲の選手たちを通して内地にも伝わっていった。

 満洲勢と内地の選手との“対抗戦”は1928年、諏訪湖の第1回全日本氷上選手権が始まり。500mは大連の佐川親雄が508で制し、以下木谷徳雄、大沢義一、多田と満洲勢が51秒台で上位を独占。内地勢は54秒を切るのがやっとだ。1500mと5000mは木谷が勝ち、1万mも接戦ながら岡谷の潤間留十を抑えて木谷が勝利した。その差は満洲勢が内地の大学に進学するまで埋まる事はなかった。

 次の目標はオリンピックだと満洲体協は選手たちに国際経験を積ませる。193011月、満鉄の支援を受けて北欧遠征を決定。1931年1月の選考会で総合12位に入った木谷と石原の派遣を決めた。500mと1500mに優勝した河村は経費を自己負担し同行した。引率は岡部である。シベリア鉄道でモスクワに入り、ストックホルム、アントワープと転戦し、彼らは「短距離の優位性」(河村)を認識、レークプラシッドに臨んだのだった。

  1924年12月、奉天の満洲医科大学にアイスホッケー部が創部された。学長も務めた久保田晴光(後に日本スケート連盟会長)がよびかけ、1922年に開催した英米仏露および中国人で編成したムクデン・クラブとの練習試合以来、2年がかりの創部だった。当初はムクデン・クラブに1-12で惨敗するなど実力差はあったが、同クラブ主将のパーカーに学び、技量を磨いて1928年にはインターカレッジ、1929年には全日本氷上選手権に優勝した。

  満洲医大が欧州武者修行に出るのはこの年12月、19303月まで71日間の遠征だった。岡部が満鉄や関東庁、朝日新聞社などにかけあい資金の半額を支援、残り半分は大学関係者の寄付、満洲医大交響楽団が開いた演奏会による応援、アルバイトなどで捻出した。欧州選手権にも出場、遠征通算1勝11敗に終わったが、「世界の大勢がわかったような気がする」と庄司は記した。

 内地の選手、チームが国内で逡巡していた時代である。進取の精神に富む満洲らしい試みだったが、岡部の存在感は見逃せない。

  岡部はレークプラシッドのスケート監督に内定していたが、満洲事変の際に親しかった張学良の同僚馮庸(ひょうよう)の海外逃亡に手を貸したとして関東軍に逮捕された、嫌疑は晴れたものの、自ら公職を辞した。もし、岡部があのオリンピックに行っていたなら満洲、その後の日本スポーツ界に持ち帰ったものは大きかったと思う。残念である。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。