2021.08.19
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2021.08.19
オリンピックと比べると、パラリンピックの歴史や競技のルールなどについて知らない方が多いと思います。しかし、その歴史を紐解くと、多くの人がかかわり、また、情熱によって発展してきたことが分かります。そして、一つ一つの競技にオリンピックとは異なる楽しさ、魅力が詰まっています!本クイズで、楽しくパラリンピックについて学び、東京パラリンピックを今までとは違う視点で観戦し、選手を応援しましょう♪
1964年東京パラリンピック大会で話をするグットマン博士(左)と中村裕博士(右)
正解:①戦争で障がいやけがを負った兵士ための、車いすアーチェリー
【解説】
1948年7月29日、戦後初の第14回ロンドン・オリンピック開会式に合わせて英国ロンドン郊外にあるストーク・マンデビル病院の一角で、第二次世界大戦の戦傷者16名による車いすアーチェリー競技大会が開催されました。実現させたのは、同病院に併設された国立脊椎損傷者センターのセンター長を勤めるルードウィヒ・グットマン博士。「パラリンピックの父」とも呼ばれますが、「この大会は競技スポーツが健常者の特権ではなく、脊髄性対麻痺(ついまひ=下半身麻痺)障害者のような重度障がい者でも、その気になれば、スポーツができるということを世間に示した」と後述しています。
この競技大会は毎年開催されるようになり、1952年から外国人選手も参加し国際競技大会となりました。種目も増え発展していきます。そして、1960年ローマ大会と同じ日にローマで開催された「第9回国際ストーク・マンデビル競技大会」が、後に第1回パラリンピック大会と追認されました。
▼関連情報
パラリンピックの第一歩『先駆者の壮大な夢、いまここに』
https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/paralympic/02.html
正解:①1964年第2回東京大会
【解説】
英国の脊髄損傷(対麻痺)者のスポーツの祭典として、1948年に開催されたストーク・マンデビル競技大会。当時から対麻痺者(パラプレジア)だけが参加できる競技大会として、「パラプレジアのオリンピック」と呼ばれていました。1964年東京大会では名称が長いこともあり、初めて「パラリンピック」と呼び、ポスターにも「PARALYMPIC」と描かれました。第1回ローマから1972年第4回ハイデルベルク大会までは、対麻痺者だけが出場する大会でした。
「パラリンピック」は長らく愛称としてしか使用できませんでした。それは国際オリンピック委員会(IOC)が「オリンピック」という名称の使用を許可しなかったからです。1985年になってIOCはようやく使用を容認、1988年第8回ソウル大会から「パラリンピック競技大会」として開催されるようになり、世界最高峰のスポーツ大会であるオリンピックとならべて、「もう一つのオリンピック」=「パラリンピック」と認知されるようになりました(現在におけるパラリンピックの「パラ」は、「平行」「もう一つの」を表す「パラレル」の意味があります)。
なお、東京でパラリンピックが開催されるのは、1964年以来2回目で、同一都市で2回目のパラリンピック(夏季)が開催されるのは、史上初です。
▼関連情報
1964年東京パラリンピック大会 「未来」見据えた最初の一歩
https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/olympic_legacy/04.html
正解:③国立病院・療養所の患者や訓練生
【解説】
1964年東京大会に日本は初参加しました。53人の選手が出場しましたが、ほとんどが国立病院・療養所の患者や訓練生で、仕事をしていたのは自営の5人だけ。スポーツ経験もなく、この大会のために短い練習期間で間に合わせました。一人での外出もかなわず、ましてスポーツなどとはまったく縁がないというのが、当時の障がい者たちが置かれた状況でした。
正解:④整形外科の医師
【解説】
1964年東京大会の日本選手団団長を務めたのは、医師・中村裕です。1960年、国立別府病院・整形外科科長だった中村が、ストーク・マンデビル病院でグットマン博士と出会い、脊髄損傷の治療とその後の社会復帰訓練にスポーツを取り入れるという画期的な手法を取り入れます。翌61年、大分県身体障害者体育協会を設立し、すぐさま第1回大分県身体障害者競技大会を開き、ストーク・マンデビル競技大会にも参加。彼の情熱と行動力が64年の東京開催へとつながり、障がい者スポーツにかつてない道を次々と開いていきました。
▼関連情報
ルードウィヒ・グットマン 中村裕 歴史をつくった二つの足跡
https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/supporter/19.html
日本のパラリンピック 『一人の情熱から始まった』
https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/paralympic/03.html
正解:④オリンピック選手村の練習会場
【解説】
現在のようにオリンピックとパラリンピックが同じ場所で開催されるようになったのは1988年第8回ソウル大会からです。1964年東京大会では、オリンピックは国立競技場がメイン会場となりましたが、パラリンピックではオリンピックの選手村にあった練習競技場(現・代々木公園陸上競技場、日本初のオリンピック金メダリスト織田幹雄を記念して「織田フィールド」の愛称)がメイン競技場となり、開会式も行われました。
ちなみにパラリンピックの選手村は、オリンピックの選手村を車いす仕様に改造されたものです。
正解:②ソメイティ
【解説】
2020年東京パラリンピック大会のマスコットは「ソメイティ」です。桜の代表的な品種であるソメイヨシノと英語で「とても力強い」を意味する「so mighty(ソー マイティ)」などからソメイティとなりました。ピンクを基調としたソメイティは、人だけでなく、自然や物などと話すことができるテレバシー能力を持っています。①ミライトワは東京オリンピック大会のマスコットです。
正解:②バドミントン
【解説】
今大会からパラリンピックで初めて正式競技となるのは、バドミントンとテコンドーです。バドミントンは、車いすクラス、上肢障がいクラス、下肢障がいクラス、低身長クラスなどの14種目。テコンドーは体重により分類された6種目で競われます。
2016リオデジャネイロパラリンピックで、5大会連続出場・連続入賞を果たした 走り高跳びの鈴木徹選手
正解:③開催目的
【解説】
オリンピックの開催目的はスポーツを通した人間育成と世界平和です。パラリンピックは、障がいのあるトップアスリートが競い合う世界最高峰の国際競技大会です。国際パラリンピック委員会(IPC)はパラリンピックを通じ、「共生社会の実現」を促進することを目指しています。障がいのあるアスリートが日頃の練習の成果を発表するために、創意工夫をこらし最大限の挑戦を行うパラリンピック。それぞれが持つ個性や能力をいかんなく発揮し、努力することで誰もが活躍できる公正・平等な場となります。
聖火リレーはオリンピック同様に行われます。ただし、オリンピックの聖火は発祥の地ギリシャのオリンピア遺跡で採火したものですが、パラリンピックでは発祥の地、英国ストーク・マンデビルで採火された火と開催国の複数都市で採火された火を合体します。東京2020大会では8月12日から47都道府県で順次採火され、20日に東京でストーク・マンデビルと合わせて48の火が集火され、翌日から都内をリレーされ24日に国立競技場に到着します。
アスリートは公平な状況で競い合わなくてはいけません。オリンピックでもパラリンピックでも、禁止薬物の使用はかたく禁止されています。
開会式はオリンピックと同じ競技場で開催されます。
▼関連情報
共生社会の実現、地域の障害者スポーツ環境充実に向けて必要なこと
https://www.ssf.or.jp/thinktank/policy_proposal/2021_disabled.html
正解:①こん棒投げ
【解説】
手や指の動きに障がいがあり、握力が弱い選手でも掴みやすくするために、木と金属で作られたふくらみのある棒を投げる競技です。こん棒の長さは約40cm。パラリンピックにしかない競技です。
正解:②組み手争いがない
【解説】
パラリンピックの柔道は組み合った状態で始まります。出場選手は目に障がいがあり、オリンピックと同じルールだと、組み合えなかったり、組み合うまでに時間がかかったりしてしまうためです。選手が離れたときは、試合開始の位置で組み直します。常に組んだ状態で行なのがパラリンピックの柔道です。
正解:④動ける範囲
【解説】
オリンピックでのフェンシングはコート内であれば前後に自由に動けますが、パラリンピックの車いすフェンシングは、両方の選手の車いすが固定された状態で、上半身のみを動かして戦います。剣や防具、ユニフォーム、ルールなどはオリンピックと同様です。
正解:①車いすバレーボール
【解説】
車いすバレーボールという競技自体が行われていません。しかし、常にコートの床にお尻がついた状態で行う「シッティングバレーボール」という競技があります。座った状態で行うため、プレーに合わせてネットの高さが低くなっています。また、走ることができないので、コートの大きさは長さ10m・幅6mと、通常のバレーボールコート長さ18m・幅9mと比較しても小さくなっています。
正解:③ドライバー
【解説】
自転車競技では、タンデム自転車という2人乗りの自転車で競技を行います。前には、サポートのためハンドル操作を行う「パイロット」が、後に選手が乗ります。2人で息を合わせて自転車を漕ぐのが、自転車競技の特徴です。
トライアスロン競技において、選手のハンドサイクル、車いすレーサーへの乗り換えサポートを「ハンドラー」が行います。
陸上競技では、選手の"目"となるべき「ガイドランナー」が伴走可能です。2人で手を握ったり、「テザー」「きずな」とも呼ばれる50cm以内のロープを握り走り抜けます。長距離を走る場合、途中で交代することもできます。
正解:④ボール
【解説】
ヨーロッパで。ボッチャ(Boccia)とはラテン語で「ボール」の意味です。
ボッチャの歴史はとても古く、重度脳性まひ者もしくは同程度の四肢重度機能障がい者のために考案されたスポーツで、ヨーロッパが起源と言われています。ルールは、最初に、ジャックボールと呼ばれる白いボール(目標球)を投げます。その後、対戦する選手が赤と青の6球を投げ、最終的に自チームの球がよりジャックに近い方が勝ちとなります。1984年ニューヨーク大会から正式競技となりました。
▼関連情報
ボッチャの歴史・ルールなど
https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/dictionary/boccia.html
正解:①ドイツ:負傷した軍人のリハビリテーションから始まった
【解説】
ゴールボールは、第2次世界大戦で視覚に障害を受けた傷痍軍人たちのリハビリテーションプログラムとして1946年にドイツで考案されました。オーストリアのハインツ・ローレンツェン、ドイツのセット・ラインドルにより 競技として紹介されたのが始まりです。パラリンピックで正式競技となったのは、1976年にトロント大会からです。
▼関連情報
ゴールボールの歴史・ルールなど
https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/dictionary/goalball.html
正解:③走り幅跳び
【解説】
選手の名はマルクス・レーム(ドイツ)。初出場の2012年ロンドン大会、2016年リオデジャネイロ大会で金メダルを獲得した、スター選手です。
2018年パラ陸上競技ヨーロッパ選手権では、8m48cmという世界記録を出しました。2012年ロンドンオリンピックの8m31cm、2016年リオデジャネイロオリンピックの8m38mとオリンピック優勝記録を上回り、大きな話題となりました。そして義足、用具に関する議論を巻き起こしましたが、記録の進化の裏には選手と共に、障がいを持つ選手を支える義足、用具も発展しています。レーム選手は2020年東京オリンピックの出場を目指しましたが、義足が有利に働いていないという科学的な証明が難しく、出場は認められませんでした。
また、2016年リオデジャネイロ大会の陸上男子1500mではアルジェリアのアブデラティフ・バカ選手が3分48秒29で優勝しましたが、4位入賞者までがオリンピック優勝のマシュー・セントロウィッツ選手の3分50秒00より速いタイムを記録しました。
▼関連情報
マルクス・レーム/義足の大ジャンプが問いかけるもの
https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/olympic_athlete/23.html
臼井二美男/「走りたい」の思い、支え続けて
https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/supporter/23.html
正解:③20個
【解説】
成田真由美選手は、中学生のときに下半身まひになり、23歳の時には事故でさらに両手にまひを負うこととなりますが、強い信念で水泳を続けました。そして、1996年アトランタ大会から5大会連続で出場。獲得した金メダルは15個、銀メダル・銅メダルを合わせると20個のメダルを獲得しています。一時競技を離れるも、50歳、2020年東京大会にも出場します。記録更新が期待されます。
▼関連情報
成田 真由美・インタビュー
https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/interview/019.html
正解:④68歳
【解説】
別所キミヱ選手は42歳の時に難病で下半身まひになります。そこからリハビリで45歳から卓球を始め、2004年アテネ大会に56歳で初出場。2016年リオデジャネイロ大会まで3大会連続で出場し、2016年大会には68歳で出場しました。2020年東京大会に、73歳での出場を目指しましたが、残念なら出場を果たすことはできませんでしたが、いまだに日本トップクラスの選手として活躍しています。
正解:④障害児・者がスポーツ・レクリエーションに関心がない割合は約20%と、関心層は多い(2017年)
【解説】
実際は、半数の障害児・者がスポーツ・レクリエーションに関心がないという調査結果がでました。障害者のスポーツ・レクリエーションに関心がない割合は、48.7%(2013年)、51.9%(2015年)、51.5%(2017年)と、約半数が無関心である実態があります。
▼関連情報
障害者スポーツ施設に関する調査
https://www.ssf.or.jp/thinktank/disabled/2018_report42.html
障害者のスポーツ・レクリエーションに関する調査
https://www.ssf.or.jp/thinktank/disabled/2018_report40.html
本クイズは、大野益弘氏(日本オリンピック・アカデミー理事)監修のもと、「オリンピック・パラリンピッククイズ(全4巻)」(小峰書店)の 4「パラリンピック編」より編集したものです。
※写真:フォート・キシモト