永遠のライバル・カイ選手のために 5日間で千羽鶴を折り上げた
―― 成田さんには、永遠のライバルがいるとか。そのお話をしてもらえますか。
ドイツのカイ・エスペンハイン選手です。アトランタ大会の前半で、経験も実力も私より上のカイ選手が金メダルを4つ取っていました。残る種目は、自由形の100メートルと50メートル。「カイに勝ちたい!」 ただその思いだけで泳いだら、なんと両種目とも世界新記録で優勝できたのです。「それでも金メダルの数は2対4で私の負け。4年後は絶対カイ選手より多くのメダルを取ってみせる」という目標ができました。カイとは閉会式で「4年後、シドニーで必ず会いましょう」と誓い合いました。
―― そうしてシドニーでまた対決したわけですね。
私にとっても肩を痛めたり浮き沈みのある4年間ではあったのですが、再会したカイ選手は体調に問題を抱えているようでした。レース結果は私が金6個と銀1個。カイ選手は銀メダル5個に終わりました。「カイ選手に勝つ」という目標は達成されましたが、最後のレースが終わって、どちらからともなく2人で抱き合い、声を上げて泣きました……。
―― お互いに2人が対決する最後のレースということを予感したのでしょうか。カイ選手が亡くなったのは?
それから2年後のことです。34歳の若さでした。カイ選手のお母さんから「命が危ない」という連絡をもらったとき、私も体調が悪く、入院していて面会謝絶の状態でした。そんな私に何ができるのかと考え、千羽鶴を折りました。5日間で全部折っておくりましたが、私の千羽鶴が届く1日前にカイは亡くなったそうです。
たった1日……。私は後悔しました。なぜもう1日早く鶴を折ろうと思わなかったのだろうと。
カイ選手の墓前に金メダルを捧げる
アテネ大会。金メダル7 個を含む8 個のメダルを獲得
―― あなたの気持ちはきっとカイ選手に届きましたよ。
私もそう信じて、2年後、アテネ大会に臨みました。そこでは私、金メダルを7つ取りました。そのうち世界新記録は6種目。唯一、記録をつくれなかったのはカイが記録を持つ50メートル背泳ぎでした。
翌2005年1月、私はカイの故郷、ドイツのライプチヒに飛び、カイの墓前に50メートル背泳ぎの金メダルを手向けてきました。
―― わざわざ行ったのですか。
はい、そうです。カイのお母さんは涙を流しながら私に尋ねました。「ねえ、マユミ、このメダル、本当に置いてゆくの?」と。
―― あなたは何と……?
「カイが生きていたら、このメダルは絶対にカイが取っていたはずだから」と答えました。カイ選手は素晴らしい仲間であり、ライバルです。カイ選手が亡くなった後の北京大会の前でも、私はライバルはだれと問われたら、「カイ選手です」と答えていました。私は今でも泳いでいます。いつも、カイが一緒に泳いでくれていると感じています。“カイの金メダル”は今もドイツで光り輝いているはずです。
ロンドン大会で初めて解説に挑戦
スカパー集合写真。ロンドン大会スタッフと(前列中央)
―― 昨年のロンドンパラリンピックでは、初めて解説に挑戦されたそうですね。難しかったでしょう。
難しかったですね。時間も決められていましたし、私、「さしすせそ」の発音が上手にできないので、もうどうしようかと思いました。 でも選手のみんなが水泳仲間で、けがを乗り越えてパラリンピックの舞台をつかんだ経緯なども知っているので、私はつい”お母さん目線”になって、最後はもう涙目でした。
―― そうでしたか。解説者が一緒に泣いてくれる放送なんて、泳ぐ人にとってはうれしいでしょうね。
いけないかなと思いつつ、どうしてもそういう感情が入ってしまいます。
―― いや、いけないことはないですよ。そこはアナウンサーがきちんと「成田さんが泣いています」とフォローするでしょうし。
そうですか、いいでしょうか。
―― そういうあなたの心境を聞くのも、放送にとって意義あることですからね。
とてもいい経験をさせてもらったと思っています。
“言葉の力”を大事にしたい
―― あなたの話を聞いていても、最近のスポーツ選手はしっかりと物事を考えて、表現できるようになった。説得力があるというか、発信する言葉が非常に心を打ちます。
私が水泳チームの女子キャプテンをしたパラリンピック大会の時、みんな緊張しているのがわかりました。会場は開催国の選手への声援がすごくて、ある全盲の女子選手は見えない分、より一層緊張感が高まっている様子が見てとれました。そこで、「あなたが泳ぎ始めた途端に、この声はみんなあなたの応援になるよ」と背中を押して送り出したら、銀メダルを取りました。
―― へえ!
ある両腕がない選手には、決勝の前に「予選であなたの泳ぎが一番よかったから、自信を持って行ってらっしゃい」とお尻をバーンとたたいて送り出したら、その選手もメダルを獲得しました。実は私、予選は見てはいませんでしたが……。それらの経験から、言葉には力があるということを実感するようになりました。
―― あなたは明るさはもちろん、スポーツウーマンとして非常に大事なものを持っていますよね。
講演会に行くと、私の言葉をメモしてくださる方がいて、「成田さんのこの言葉を僕は忘れないよ」って。そう言っていただいたりすると、ああ、よかったなと感じます。
―― それはあなたの言葉だからこそ、人の心を打ち、心の中に残るのでしょう。
そう言えば、私の講演を中学生のときに聞いて理学療法士の資格を取った方がいたり、やはり小学生のときに聞いた私の講演会がきっかけで医学部に入ったという人は今5年生だそうです。
―― それはすごいや。
少し面映ゆい(おもはゆい)ところもありますけれども、うれしいです。
―― あなたの言葉を聞いて進路を決めた人がいる。あなたがその道をつくっている。影響は大きいですね。
ええ、ですから本当に言葉一つひとつを選び抜いて使わないと、ということを肝に銘じています。
―― 2020年東京オリンピック・パラリンピック招致の最終プレゼンテーションをした走り幅跳びの佐藤真海さんもそうですが、自分の体験に基づいた話というのは訴えかける強い力を持ちますね。
初めて講演会をしたときは、自分の体験を人に話すことに抵抗感がありました。こんな私の話でいいのかなと。でもそのとき、学校のPTAの方たちだったのですが、「すごく共感しました」と言ってくださって。それからは、「今日はどんな出会いが待っているかな」とワクワクするようになりました。
―― そう感じられるようになったらしめたものですよ。
マスターズ水泳に挑戦中
―― 成田さんがヒロインとして新聞などで大きく報道されるのにつれて、障害者スポーツへの注目も、十分ではないにしても高まっていきました。声を掛けてくれる人がいたりといった変化はありましたか。
すごくあります。私、今は障害者の水泳大会ではなく、18歳以上から高齢者まで、年齢ごとに区分けされた健常者のマスターズ水泳大会に出場しています。最初、申し込んだときには「前例がないから」と断られましたが、じゃあないなら、私が前例になればいいと思って出させてもらいました。
私は、飛び込みができない、キックができない、クイックターンができないの3拍子で、レースではものすごく遅れを取ったんですね。ようやくプールから上がったとき、それはもうたくさんの人が拍手をしてくださって。それは同情の拍手ではなく、スイマーとして認めてもらえたように私には聞こえました。
―― うれしいことですね。
はい。でも大差をつけられてビリになったことが悔しくて泣きました。コーチには「おまえは歩ける人に勝てると思っていたのか」と呆れられましたが、負けることの悔しさをあらためて実感しました。
今、私は年間5〜6試合はマスターズ大会に出ています。プールサイドまで車いすで行けば、あとは手だけでこうやって泳げるんだということを見知っていただくいいチャンスですし、「成田さん、今年も会えたね」と声を掛けてくださる方がたくさんいて、それはとても喜ばしいことだなと思います。
―― そうしますと、成田さんの今後の目標の一つに、マスターズ水泳で泳ぎ続けるということもあるのですね。
はい、マスターズに出場しながら伝えていけることはたくさんあると思いますし、発言していくことも必要になっていくと思っています。パラリンピックの出場というかたちでなくても、私はこれからも泳ぎ続けていくので、引退ということはありません。アスリートとしては、60歳ぐらいになったときに、マスターズの大会で8位以内に入ることを目標に定めています。
障害者スポーツをもっと身近に
ロンドン大会
陸上競技・佐藤真海選手
―― 海外でのパラリンピアンに対するアクションというのは、日本のそれと何か違いはありますか。
ありますね。シドニー大会の時、メダルセレモニーのあと、プールサイドで応援してくれていた子どもたちがやってきて、「サインをくれ」と言われたときには、「えっ? 私のサインでいいの」と驚きました。当時は書き方もわからないし、日本だとサインと言えば色紙ですが、海外だと子どもたちが自分の着ているTシャツを手で引っ張って「ここに書いてくれ」とか、かぶっている帽子をパッと取って「帽子にサインをくれ」とか。
―― すごい反応ですね。
海外ではパラリンピックもオリンピックと同じ価値を持つ大会だとわかってくれていることが多いです。それは日本でもそうあってほしいと思いますね。
―― またそれだけファミリー化しているというか、障害者スポーツが身近なのでしょうね。