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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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セミナー「子供のスポーツ」

成田選手とカイ選手の友情

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2020.01.07

ライバルあってこそ、選手は成長し、強くなっていく。最初は歯が立たなくとも、あきらめずにライバルの背中を見据えていれば、いずれは追いつけるかもしれない。追いつき追い越すのも夢ではない。先行するライバルの方も、追ってくるライバルを刺激剤としてさらに強くなっていける。切磋琢磨し合える相手がいるかどうかは、アスリートにとって実に大事なことなのだ。

激しく闘志を燃え立たせて戦っていても、スポーツの場合は「仇敵」ではない。お互いに相手を尊重し、大事に思う気持ちも生まれてくる。しだいに心が通い合い、ライバルでありながら、一方でかけがえのない友となり、心の支えとなる場合も少なくないのである。

パラリンピックの競泳で実に15個の金メダルを獲得している名選手、成田真由美。日本パラスポーツ史に燦然と輝くスーパースイマーにもそんなライバルがいた。かつて激戦を繰り広げたカイ・エスペンハインとの心の通い合いは、パラスポーツの歴史を美しく彩っている。

2000年シドニー大会のカイ・エスペンハインと成田真由美

2000年シドニー大会のカイ・エスペンハインと成田真由美

横断性脊髄炎によって中学一年で両足の自由を失い、車いす生活となった成田真由美が泳ぎ始めたのは1994年、23歳の時である。始めたのが遅かったのは、スポーツ万能だったのに水泳だけは大嫌いだったからだ。だが、ふと思い立ってプールに入ってみると、自由に体が動くのがなんとも気持ちよかった。以来、プールは、自らの可能性をどこまでも広げていくための挑戦の場となった。

持ち前の行動力と積極性を発揮して、真由美は練習に試合にと奮闘した。どんどん伸びる記録。横浜サクラスイミングスクールで福元寿夫コーチから本格的な指導を受けるようになると、ますます記録は向上した。横断性脊髄炎の後遺症と、泳ぎ始めてから遭った不運な交通事故の影響で、体にはいくつもの問題を抱えていたが、真由美は質量ともにハイレベルな練習をこなした。泳ぐ楽しさ、一生懸命に取り組めるものがあることの素晴らしさに比べれば、練習のつらさは物の数ではなかったのである。

カイの名前を初めて聞いたのは1996年5月、3カ月後に迫ったアトランタパラリンピックを目指す強化合宿の時だった。彼女のクラスであるS4の世界ランキング表にその名があったのだ。100m自由形。そこには衝撃的な数字が載っていた。

「1.36.36 KAY ESPENHAYN (GER)」

ドイツにおそろしく強い選手がいた。そのタイムは1分36秒36。真由美が前の年に出したベスト記録よりも11秒近く速かった。これを見て彼女がショックを受けたのは、記録をどんどん伸ばしている中で、自分もパラリンピックの金メダルを狙えるのではないかと夢みていたからだ。

だが、真由美は打ちのめされたままではいなかった。すぐに戦う姿勢を取り戻した。彼女はその場から横浜サクラスイミングスクールの福元コーチに電話をした。

「先生、カイという選手がこんなにすごいタイムを出しているんです。彼女に勝たなきゃ私は金メダルが取れない。どうしても追いつきたいんです」

そこから、真由美はいっそう練習に集中するようになった。真剣さの度合いがまた一段上がった。「絶対にこれだけはやるんだという強い気持ちが出てきている」とコーチは見てとった。思いがけない強力なライバルの出現が、彼女の心に火をつけたのである。

初めてのパラリンピック出場となった1996年のアトランタ。真由美は自由形、平泳ぎ、背泳ぎ、個人メドレーで計6種目に出場し、金メダル2つ、銀メダル2つ、銅メダルひとつという素晴らしい成績を残した。何より嬉しかったのは、得意の自由形でカイに勝ったことだった。

1996年アトランタ、初めてのパラリンピック出場

1996年アトランタ、初めてのパラリンピック出場

150m個人メドレー、200m自由形、50m背泳ぎではカイに及ばなかった。が、50mと100mの自由形ではライバルを圧倒した。中でも圧巻だったのは100m自由形である。優勝タイムの1分36秒23はS4クラスの世界新記録だった。つい3カ月前、「こんなに強い選手がいるのか…」と衝撃を受けた、あの驚異のタイムを自らが上回ったのだ。2位のカイを1秒以上も突き放す完勝。絶対にあきらめてはいけないことを、可能性に限界のラインを引いてはならないことを、彼女はこうして学んだのだった。

初めて会ったカイは予想と違っていた。たくましくて大柄な選手だと思っていたのだが、実際のカイは、ほっそりとして儚げな雰囲気の女性だった。年は二つ上。髪を短く刈り上げていて、やせぎすな少年のようにも見えた。

金メダルは、このライバルがいたから獲得できたともいえた。大きなタイム差にショックを受けながらも、絶対に追いつくのだと決意を固め、苦しい練習に耐え抜いたからこそ、ここで頂点に立つことができたのだ。

そのカイは、美しく透き通った声で「おめでとう」と祝福してくれた。かわした言葉は少なかったが、ライバルのやさしさが心に沁みた。カイへの友情がわき上がってきたのはその時だ。こうして二人はお互いに、遠く離れていても心を通じ合っているのを感じる存在となったのである。

それ以来、カイの笑顔はいつも真由美の脳裏にあった。ドイツにいるカイも同じように、真由美の顔をいつも思い浮かべているはずであった。

二度目のパラリンピック出場となった2000年シドニー大会。真由美は7種目に出場して6つの金メダルを獲得し、残るひとつも銀メダルという破格の成績を残した。並外れた猛練習と、それを可能とする強靭な精神力に支えられた泳ぎは、完成の域に達しようとしていた。

歓喜の一方で気にかかったのは、久しぶりに再会したカイがやつれて見えたことだ。持病が悪化して体調にかげりが出ているようだった。シドニー大会が終わったら、また手術をするという。真由美は思わず泣いてしまった。「大丈夫よ。だから泣かないで」と、カイはいつものやさしい笑みを浮かべた。

パラリンピックにやって来る選手たちは、皆どこかに障害を抱えている。進行性の病気と闘っている者も少なくない。カイがずっと苦しい闘病生活を送ってきているのを真由美は知っていた。とはいえ、悲しんでばかりいても何も始まらない。カイも、すべての力と誇りをここにそそいで戦うつもりだろう。

気持ちを切り替えて、真由美は力の限り泳いだ。その結果が6つの金メダルである。150m個人メドレー、50、100、200mの各自由形の優勝タイムは世界記録だった。100m自由形では、カイに15秒の差をつけた。とはいえ、ライバルも持っている力をすべて出し尽くしたに違いなかった。

最終種目の50m自由形。真由美は初めて40秒を切り、39秒23という抜群のタイムをたたき出した。ゴールした後、隣のコースのカイは、真由美の肩をやさしく抱いて、「おめでとう。素晴らしいタイムね」と言ってくれた。真由美がまたも涙を抑えられなかったのは、苦しい状態にありながらも精いっぱい泳ぎ、こだわりなく祝福の言葉をかけてくれた友の思いが心に響いたからだろう。

悲報が届いたのは2年後である。闘病を続けていたカイが34歳の若さで力尽きたのだった。自らも体調を崩し、長い入院を終えたばかりだった真由美は、それを知ってしばらくは身動きもできなかった。

厳しい状況にあるのは、ドイツからの便りで知っていた。真由美は千羽鶴を折って送ったのだが、それが届く前日、カイは息を引き取っていた。何より大事な存在を失ったという思いが真由美を打ちのめした。

「カイがいたからこそ、私はここまで努力できた。こんなにも成績を挙げることができた。彼女がいつも後押ししてくれていたようなものだ」

そう思うと涙が流れた。悲しみは癒えなかった。

が、そうしているうちに、ひとつの考えが頭に浮かんだのである。

「カイはもう一度パラリンピックで戦いたいと思っていたに違いない。次のアテネ大会に行きたかったに違いない」
「それなら私がアテネに行こう。カイの気持ちと一緒にアテネに行って、彼女の分まで泳ごう」

それまでは体調が崩れていたこともあって、2004年アテネパラリンピックのことなど、まるで考えていなかった。だが、かけがえのない友の死が、思いもかけず背中を押した。「カイのためにも」の思いが、またしても真由美の心に火をつけたのだった。

入院でどん底まで落ちていた体調を、彼女は少しずつ戻していった。ある程度体調が整うと、再び横浜サクラスイミングスクールでの猛練習が始まった。周囲が無理とみていたカムバックをみごとに果たしたのは、もちろん、いったん決めたことはやり遂げずにはおかない強靭な精神力があったから、そして、心を通い合わせた盟友の思いをも背負っていたからだろう。

いよいよ迎えた2004年のアテネパラリンピック。大会前に取材を受けると、彼女はこう答えた。
「目標は金メダル2つです。ひとつは私のため。もうひとつはカイに捧げるために」

パラリンピックではIDカードを持ち歩く。真由美のIDカードホルダーには、IDのほかに1枚の写真が入っていた。自分とカイが一緒に写っている写真である。

2004年アテネ大会200m自由形で金メダルを獲得

2004年アテネ大会200m自由形で金メダルを獲得

いざ大会が始まると、真由美の活躍はとどまるところを知らなかった。金メダル2つどころか、なんと7つもの金メダルを手にした。前2回を上回る快進撃は、ある意味、当然のことだったかもしれない。この時、ただでさえ無敵の成田真由美は、その前の女王であるカイ・エスペンハインの思いと力も自らの身に取り入れて泳いでいたのである。

2005年、真由美はドイツのライプチヒを訪れた。カイの母、モニカ・エスペンハインに会いに行ったのだ。

アテネで得た金のうちのひとつをモニカに届けようと真由美は決めていた。カイが最も得意としていた50m背泳ぎの金メダルである。真由美とモニカはカイの墓に詣でてメダルを供えた。モニカの家には、かつて送った千羽鶴が飾ってあった。カイ亡きあとも、エスペンハイン家と真由美の心はつながっていた。

ライプチヒへの旅は感慨深いものだった。真由美には、それがアテネパラリンピックの本当の終幕のように思えたのである。

その後も成田真由美は泳ぎ続けて、2008年北京パラリンピックに出場。いったん一線からは退いたため、ロンドン大会には出なかったが、2014年に本格的な練習を再開して競技の場に戻った。2016年のリオデジャネイロ大会ではリレーも含めて6種目に出場。50m自由形でその時の自己記録に100分の1秒と迫る39秒23をマークしたほか、50m背泳ぎではアジア新を出す力泳を見せた。

さらに人々を驚かせたのはリオ大会が終わった秋だ。50m自由形で、初めて39秒を切る38秒84を出したのだ。12年ぶり、47歳で出した自己新には、まさしく金メダル並みの価値があったといえるだろう。「人間が持っている可能性というものを、子どもたちにも気づいてもらいたい」というかねての思いを、この名スイマーはそのまま形にしてみせたのである。そして、その力強い歩みの奥には、常に「カイとともに」の思いがあったはずだ。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。