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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

フェアに、クリーンに。世界が学ぶべき教材

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2019.12.13

いま、スポーツの世界で最大の問題といえば、もちろんこれをまず第一に挙げねばならない。ドーピングの蔓延である。

不正な薬物使用はスポーツを、競技を大きくゆがめてしまう。ドーピングに左右される勝負など、どんなにレベルが高くても、誰も見向きもしないだろう。そうなれば、スポーツはいとも簡単に衰退へと、さらに進んで滅亡へと向かわざるを得ない。

スポーツは社会の宝だ。スポーツ界だけでなく、社会全体でドーピング撲滅に動かねばならない。あらゆる機会を通じて、ドーピングがスポーツを滅ぼしてしまう危険性を説いていかねばならない。そして、禁止薬物など使わなくても強くなれることを、世界一になれることを示すのであれば、ここに格好の実例がある。室伏広治の金メダルである。

2004年アテネオリンピック、ハンマー投げの表彰式。中央のアヌシュはドーピング違反で失格する

2004年アテネオリンピック、ハンマー投げの表彰式。中央のアヌシュはドーピング違反で失格する

オリンピックのたびに繰り返されるドーピング失格事件。ことに多いのが陸上競技とウエイトリフティングで、陸上では特に投てき競技で目立つ。近年では、オリンピックが開かれるごとに、男女、種目問わず失格するメダリストが出るありさまだ。禁止薬物の検査方法の進化によって、何年かたってから過去の違反が明らかになる例も増えてきた。これでは、投てき競技の好記録が常に「もしかしたら?」の色眼鏡で見られてしまうのも無理はあるまい。

ちょっと思い出してみるだけでも、いくつもの例が出てくる。2004年のアテネオリンピックでは、男子ハンマー投げと同円盤投げで1位となったハンガリー選手がともに薬物違反で失格となり、女子でも砲丸投げで優勝したロシア選手が同じく失格した。アテネ大会に関しては、その8年後に男子砲丸投げのウクライナ選手の違反が発覚したため、メダル剥奪処分を受けている。男子では、投てきの4種目のうち、実に3種目で優勝者のドーピング違反が発覚したというわけだ。

2008年北京大会、2012年ロンドン大会でも、過去にさかのぼっての違反発覚も含め、女子砲丸投げや同ハンマー投げで優勝者のドーピング違反が明らかになり、メダルが剥奪されている。銀メダリスト、銅メダリストの違反失格も数多い。さらに2019年9月には、まだ記憶に新しい2016年リオデジャネイロ大会で金メダルを獲得した選手の違反が発覚した。

男子ハンマー投げで優勝したディルショド・ナザロフ選手。タジキスタン初のオリンピック金メダルをもたらし、一躍祖国の英雄の座についたが、2011年の世界陸上・大邱大会で採取された検体の再検査で禁止薬物に陽性反応が出たのだ。これにより、ナザロフ選手は暫定資格停止処分となり、世界陸上・ドーハ大会にも出られなかった。リオでは選手団の旗手を務め、史上初の金に輝いた栄光も、すべて地に落ちてしまったというわけだ。

とまあ、これが近年の投てき競技の状況である。最高レベルの選手たちの多くが禁止薬物に手を出し、これだけ摘発されているにもかかわらず、相変わらずドーピングをやめようとしていないのだ。言うまでもないことだが、投てき競技の魅力は奥深い。鍛え抜かれた肉体が生み出すパワーと、そのパワーを最大限に生かすための微妙きわまりない技の融合が、その真髄である。なのに、多くのトップ選手が禁止薬物の力を借りてでもパワーばかりを追い求めようとしている姿は何とも悲しい。

が、だからこそ、この投てき界でクリーンな選手がクリーンな勝利を飾れば、後に続く選手にも子どもたちにも、またファンにも訴えかける力は強い。それはドーピング撲滅への明快な旗印となり得るのだ。室伏広治選手の快挙は、まさしく「薬物など使わなくても世界一になれる」ことを満天下に示したのである。

2004年8月22日、アテネオリンピックの陸上・男子ハンマー投げ決勝。室伏広治は82m91という記録で競技を終えた。その時点で2位。ハンガリーのアドリアン・アヌシュの記録には28cmだけ及ばなかったのである。ところが、その1週間後、事態は思わぬ形で動く。アヌシュが別人の尿検体を提出したことがわかり、再検査にも応じなかったことから失格となって、剥奪された金メダルが室伏のものとなったのだ。

1週間遅れの戴冠。一番上に上がるべきだった表彰式は既に終わっている。室伏の心中はなんとも複雑だったに違いない。だが、それでも、この快挙が持つ意味ははかりしれないほど大きかった。真にクリーンな選手の価値を世界中に示すことができたからだ。

この時に2位に繰り上がったイワン・チホン(ベラルーシ)は、検査方法が進化した8年後に、この時期の違反薬物使用がわかり、アテネの銀メダルを剥奪されている。当時のトップ選手の薬物汚染の状況がどれほどだったかがよくわかる事例だ。そうした中だからこそ、薬物などに縁のない選手の戴冠の価値はいっそう大きかったと言えるだろう。

2004年アテネオリンピック、ハンマー投げ決勝の室伏広治

2004年アテネオリンピック、ハンマー投げ決勝の室伏広治

身長こそ187cmあるが、当時の体重は92kgほど。巨漢ぞろいのハンマー投げのピットで、その体はいかにも細く見えた。110kgを超えるほどの大男でも、さらに大きな体、さらに強い筋肉を求めて薬物使用に走るのは、そうしなければ勝てないと思うからだろう。それがハンマー投げの一側面である。では、室伏はさほど大きくない体で、どうやってクリーンなまま頂点に上り詰めたのかといえば、そのカギは「体をどう動かすか」にあったようだ。

7.26kgの鉄球をワイヤーでつないだハンマーを、体を回転させる投法によって80mも投げ飛ばす。投てきの中でも群を抜く難しさを秘めた種目である。ということは、見よう見まねや行き当たりばったりの練習では到底上達は望めないし、たとえ素質があっても、一足飛びに強くなれるわけでもないということだ。

室伏広治はそれを十分にわかっていた。父・重信もハンマー投げの名選手で、日本におけるこの種目の牽引車であったのはよく知られている。あらゆる側面を考えながら、じっくりと時間をかけて世界レベルまで力を伸ばしていった父の背中を、広治はずっと見ていた。そこで、彼もまた、父と同じ姿勢で競技に取り組んだ。綿密に計画を立て、やるべきことをやるべき時期に着実に実行することで、一歩一歩前に進んでいったのである。

最初は空ターンから始めた。ハンマーを持たずに回転の練習をするのだ。それを徹底的に繰り返すのが第一歩だった。

それなりの体力があり、ある程度の運動能力があれば、人のフォームを真似てハンマーを投げることはできるだろう。だが、それでは伸びていかない。ハンマーを勢いよく加速していくためには、きちんとした回転が安定してできるようになる必要がある。確固たる土台を築くには、そこから始めなければならないのだ。

そのようにして、彼は、ハンマーをより遠くに投げるために最も適した体の使い方、動かし方をひとつずつつくり上げていった。大ざっぱに全体を強化していくのではない。ただ筋力をつけるのでもない。重心はどこに置くか。体の各部はどう位置させるか。いろいろな関節の角度はどうすべきか。さまざまな要素について工夫し、それを繰り返し練習して、ハンマーを投げるのに最適な動きをひとつひとつ練り上げていったのである。

たとえてみれば、高品質の部品をそろえて組み立て、融合してすぐれた完成品をつくるようなものだろうか。さまざまな要素を最適の形につくり、ひとつにまとめてさらに磨き上げることによって、理想の投法に近づけていったのだ。圧倒的なパワーに頼るのではなく、理にかなった体の使い方、動かし方を身につけることで、ハンマーにより遠くへと飛ぶ力を伝えようという考え方である。それができるようになれば、フォームは常に安定し、ぶれが少なくなる。無理にパワー増強をはからなくても、より小さい力で同じだけの、あるいはそれ以上のエネルギーをハンマーに伝えることができるようになる。

2008年北京オリンピックで室伏広治に指示をおくる父・重信

2008年北京オリンピックで室伏広治に指示をおくる父・重信

40歳まで現役を続けた父がずっと追い求めてきたのも、より理にかなった動きだった。慣性や作用反作用といった科学の法則まで研究して、よりよい動きを探ったという。広治もまた、大学院でバイオメカニクスの研究を手がけたように、体の使い方を専門的、科学的に解明しながら、投てきに最も適した体さばきを目指してきた。あらゆる面から工夫を重ねつつ、親子二代で追求してきた「よりよい動き」。それがついに、アテネの金メダルという最高の形で実を結んだのだった。

この足跡がひときわ輝いているのは、それまでの多くの選手たちとは異なる方向から頂点を目指したゆえだろう。先に触れたように、多くはより体を大きくしてパワーを増そうとしてきた。それが薬物に走りがちな原因でもある。が、室伏父子の発想はまったく違っていた。「動き」という最も基本的なところから強化を進めていくという方向性をここまで徹底して実践した例は、かつてなかったのではないか。これは、どの種目にもどの競技にも応用できるはずだ。

広治は、世界陸上でも大邱大会で優勝を飾り、記録は84m86まで伸ばした。世界歴代4位。上にあるのは、薬物検査が現在ほど厳格かつ精密に行われていなかったころの記録と、薬物疑惑のあった選手の記録である。それら上位の記録について、とやかく言うべきでないのはもちろんだ。ただ、この84m86には、「歴代4位」というだけではない価値があると言ってもいいだろう。

室伏広治という存在が現れる前は、ハンマー投げで日本選手が世界の頂点に立つ日が来るなどとは、誰も考えもしなかった。人種や民族による体格差は超えられないものという思い込みが厳然としてあった。しかし彼は、独自の発想を具体化することで不可能を可能にしてみせた。日本のみならず、投てき種目や陸上競技のみならず、多くの国の多くのアスリートを勇気づける快挙だったと言っておきたい。

そしてそれは、薬物の力など借りなくても、知恵と努力でいかようにも強くなれることをも明快に証明してみせたのである。反ドーピング運動の観点からして、これほどわかりやすく、説得力のある実例はまたとあるまい。一方、これはまた、フェアプレーの大切さを示すということでも、最高の教材のひとつとなるはずだ。フェアに、クリーンに戦うことの素晴らしさを伝える物語として、「コウジ・ムロフシの伝説」は世界に広く語り継がれるべきではないか。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。