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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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デューク・カハナモク
ハワイ初の金メダリストはサーフィンの父

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2019.01.09

ワイキキビーチに立つデューク・カハナモクの銅像

ワイキキビーチに立つデューク・カハナモクの銅像

ハワイ、オアフ島ワイキキビーチの中央から少し東寄りに、サーフボードを背に立つ1人の男性の銅像がある。この人がサーフィンの父と呼ばれたデューク・カハナモクだ。生まれたのは1890年、現在のホノルル・ダウンタウンのほぼ中心。育ったのはワイキキビーチの西のはずれ。近くの砂浜には「デューク・カハナモク・ビーチ」という名前が付けられている。デューク・カハナモクは、ハワイから初めてオリンピックに出場した水泳選手である。オリンピックには3度出場し、金メダル3個、銀メダル2個を獲得している。

小さい頃からワイキキビーチで育ったデュークにとって、海は遊び場であり生活の場であった。1898年、ハワイはアメリカ合衆国に併合され、アメリカの準州となる。西洋の文化や習慣が強要されるようになり、それまで裸足で暮らしていたハワイの少年たちに靴を履くことが義務付けられた。だが、海では裸足で過ごせる。デュークは毎日、カヌーやサーフボードで遊んでいた。サーフィンは、はるか昔からハワイの人々に親しまれていた海の遊びだ。

この頃から観光地としてワイキキビーチが注目されるようになる。アメリカ本土からは大型客船でたくさんの観光客が訪れ、それに合わせて次々とホテルが建設された。

自分の身長の2倍もあるロングボードを乗りこなす

自分の身長の2倍もあるロングボードを乗りこなす

15歳のときにハイスクールを中退したデュークは、ワイキキビーチにたむろするようになる。観光客をカヌーに乗せたり、水泳を教えたり、サーフィンの技を見せたりしてお金をもらう彼らは、「ビーチボーイ」と呼ばれた。ちなみに、当時のサーフボードは長さが身長の2倍近くあるロングボード。現在主流になっているショートボードとは異なり、細かいターンをしたり、波の面を駆け上がって滑り降りたり、宙に舞い上がったりなどということはしない。ボードの上を歩いたり、ボードの先端近くに乗ったりするのがおもなテクニックだ。デュークが愛用していたボードは、「パパ・ヌイ papa nui(大きな板)」と名付けられた巨大なもの。この「パパ・ヌイ」は長さ4.8メートル、重さ52kgもあったという。素材はハワイアン・コア。高級ウクレレにも使用される硬くて美しい木材である。デュークはこの大きくて重いサーフボードをいともたやすく扱っていた。

当時は水泳の泳法も現在とは異なっていた。オリンピックでいうと、1896年第1回アテネ大会の水泳は平泳ぎで競われた。顔を水から出したまま泳ぐものとされていたのだ。次に発明されたのは背泳ぎだった。やはり顔は水面から出したまま。仰向けになり、水をかいた腕を戻すときに水面から出すため、平泳ぎより水の抵抗が少なく、スピードが出るようになった。背泳ぎがオリンピックに登場したのは1900年パリ大会。クロールの登場はそれ以降になる。

デュークたちがクロールを見たのは1910年頃。オーストラリア人が前を向いて腹ばいになり、水をかいた腕を水面から出して前へ戻すようにして泳いでいたのだ。この腕の動きは、サーフボードに乗って沖へ出るときに腕で水をかく「パドリング」に似ていたため、デュークはたやすく真似することができた。とはいっても、本格的に身に付けるには時間がかかった。デュークは毎日、クロールの練習をした。

1911年、デュークと仲間たちはアウトリガー・カヌー・クラブ「フイ・ナル(HUI NALU)」を結成した。ハワイ語のHUIはクラブ、NALUは波だ。英語にするとClub Wave(クラブウェイブ)あるいはSurf Club(サーフクラブ)などということになる。フイ・ナルはアウトリガー・カヌーでは世界有数のチームに育っていく。同時にデュークの名も知れ渡っていった。サーフィンの名手として、そして、ずば抜けて速く泳げる青年として。

その夏、アメリカ本土からアマチュア・アスレティック・ユニオン(AAU)の役員がハワイにやってきた。AAUは翌年に行われるストックホルムオリンピックでヨーロッパに勝つための有力な選手を探していたのだ。

水泳の代表選考レースはホノルル港で行われた。デュークはまず100ヤード(91.44m)を55秒4でゴールした。2位とは30フィート(9.144m)もの差だ。これは世界記録より速かった。続いて行われた50ヤード(45.72m)は24秒1。他を圧倒する泳ぎに、AAUの役員たちも「アンビリーバブル!」を連発した。

だが、この記録をアメリカ本土のAAU本部は認めなかった。理由の一つは、あまりにもタイムが速すぎて信じられなかったこと。そしてもう一つは、その記録を出したのが白人ではなかったからだ。この時代、有色人種は白人からあからさまな差別を受けていた。

だが、ハワイではデュークを推す声が強かった。本土で行われる最終予選会にデュークを行かせたいとする人々は確実に増えていった。フイ・ナルは、デュークの旅費を集めるための募金活動を行った。経済的にも政治的にもアメリカにしてやられっぱなしのハワイは、せめて自分たちが得意とする海のスポーツでアメリカ本土を見返したかった。幸い、ハワイにはヒーローがいる。デュークはハワイの人々の期待を一身に集めた。

1912年ストックホルムオリンピック出場の頃のカハナモク

1912年ストックホルムオリンピック出場の頃のカハナモク

なんとか募金は集まり、アメリカ本土に渡る。だが、泳いだデュークは、プールの水の冷たさに驚いた。ハワイの海とは水温がまったく違う。時間をかけて、なんとか慣れた。そして最終選考レースに出場したデュークは、みごとアメリカ代表の座を射止めたのだ。ただ、彼の泳ぎには欠点があった。それは、ターンがうまくできないことだった。ハワイの海で泳いでいたデュークは、プールの壁を使ったターンをしたことがなかったのだ。これは、本土のコーチがつきっきりで徹底的に練習することで克服した。

1912年6月、デュークはニューヨークからストックホルムへ向かう船の上にいた。この船には6~7メートルという小ささだがプールがある。前へ進まないように、体に巻いたロープを柱にくくりつけて泳いだ。

ある日、甲板でデュークは1人の男に声をかけた。彼は「インディアン」と呼ばれている本土のネイティブアメリカンだった。ジム・ソープという名の陸上競技の選手で、野球やアメリカンフットボールでも活躍していたことでデュークもよく知っていた。

「なあ、ジム、きみは走ったり跳んだり、いくつものスポーツができるのに、どうして水泳をやらないのかい?」

「それはデューク、きみのためにとっておいたのさ」とソープは言ったそうである。そのインディアンの笑顔に、デュークは親近感を持った。

ストックホルムオリンピックが開幕した。デュークは男子100m自由形の決勝に進んだ。

スタートは遅かった。だが、あっという間にトップに立つと、ぐんぐん差を広げる。泳ぎはダイナミックだった。顔を上げたままパワフルに両腕を回転させる。サーフィンのパドリングをすばやく行っているようだった。迫力のあるその泳ぎとスピードは観客を熱狂させた。ゴール時には2位に2mほどの差をつけて金メダル。4×200mリレーでも銀メダルを獲得した。船で一緒だったジム・ソープも金メダルを2つ獲得した。

翌年1月、不幸なニュースが飛び込んできた。オリンピックのアマチュア規定違反で、ジム・ソープの金メダルが剥奪されたというのだ。それも、夏休みに野球のマイナーリーグで少しアルバイトをしただけで。ワイキキビーチでカヌーやサーフィンを教えていくらかの小遣いをもらっていた自分とほとんど変わらない。デュークはショックを受けた。

「たったそれだけで違反にされてしまうのか。あんなにすごい選手を悪者のように扱うなんて……」

金メダルを獲得して、デュークの名は全米に知られるようになった。多くの競技会に出場し、パワフルな泳ぎを披露した。次の目標は1916年のベルリンオリンピックだ。

しかし、第一次世界大戦のためにベルリン大会の中止が決まってしまう。気落ちしていたデュークに、父の死という不幸が襲いかかる。デューク本人も、当時スペイン風邪と呼ばれていたインフルエンザにかかった。そうした苦難を乗り越え、彼は再び泳ぎ始めた。

30歳で1920年のアントワープオリンピックの出場権を得た。デュークはこの大会でも大活躍する。男子100m自由形では世界新記録で金メダル、そして4×200mリレーでも金メダルを獲得した。8年前以上の成績だ。

有名になったデュークにハリウッドが注目した。格好のいい主人公役ではなかったが、いくつもの映画に出演した。そして1924年、3度目のオリンピックとなるパリ大会に出場。34歳直前という年齢で男子100m自由形に出場して、銀メダルを獲得している。このとき金メダルをとったのは、のちにターザン役で映画に出演するジョニー・ワイズミュラーだった。

1924年パリオリンピックでジョニー・ワイズミュラーと

1924年パリオリンピックでジョニー・ワイズミュラーと

現役を引退したデュークはホノルル市の保安官に就任し、1960年まで26年間続ける。その後は若いサーファーとともにアメリカ西海岸から南部をまわり、サーフィンの実演をしてみせた。全米にサーフィンと観光地ハワイをアピールしたのである。そのデュークを人々は「サーフィンの父」と呼んだ。日本に第1次サーフィンブームが到来したのもこの頃だ。「ザ・ビーチボーズ」「ザ・ベンチャーズ」の曲も一緒にやってきた。その大元の火付け役が、デューク・カハナモクだったのだ。

南半球の古代ポリネシア人が発明したといわれるサーフィンは、数千キロにおよぶ大航海とともにハワイに伝わった。そのサーフィンを楽しみ、人に教え、そして広めたデューク・カハナモク。

2020年、サーフィンは初めてオリンピックの競技になる。

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。