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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

ジム・ソープ
最高のアスリートの悲劇

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2019.01.09

コロンブスがアメリカ大陸に到達するよりはるか昔、1万年以上前からそこには人が住んでいた。コロンブスは、自分が到達したのはインドだと勘違いし、そこで暮らしていた先住民をインディアンと呼んだ。ヨーロッパからアメリカ大陸に渡った白人が略奪や虐殺を繰り返した結果、先住民の人口は激減した。差別され、迫害されたインディアンたちは居留地に閉じ込められるか、存在を否定する生活を強いられるようになった。

そんなインディアン(先住民=ネイティブアメリカン)の子孫として生まれたジム・ソープは、のちに20世紀最高のアスリートと呼ばれるようになる。しかし彼の人生は、アマチュアリズムという思想、そして差別に翻弄され続けた。

1910年頃のジム・ソープ

1910年頃のジム・ソープ

ジム・ソープが生まれたのは、1888年5月28日、アメリカ合衆国オクラホマ州にある先住民サック・アンド・フォックス族の居留地だった。生まれたときに付けられた名前は「ワ・ソ・ハク」。先住民の言葉で「輝かしい道」を意味する。しかし、当時の米国政府により本名を放棄させられ、ジム・ソープと名乗るようになった。

大自然の中で、釣りや狩りをしたり、ときにはワナを仕掛けて鹿や熊を捕まえる本格的な狩猟もした。そんな野生児にとっては、学校の規則や読み書きなどの勉強、きちんとした制服、教師の命令など大嫌いだった。だが、一つだけ嫌いではなかった教科があった。体育である。走ったり跳んだり投げたりする陸上競技でも、レスリングのような格闘技でも、ジムは誰にも負けなかった。ジムがスポーツを得意とした背景には父ハイラム・ソープの存在があった。走る、跳ぶ、馬に乗る、狩りなどが得意だった父は、息子にスポーツの楽しさとフェアプレーを教えた。走るだけならまだしも、チームプレーや格闘技では相手がいなくては試合にならない。スポーツは相手を憎んでやっつけるものではなく、ともに楽しむもの。相手に危害を加えたり怖がらせたりしてはいけないと教えたのだ。ジムはまず野球を覚えた。投げる、打つ、走る、そのどれをとっても、能力は群を抜いていた。

ジム・ソープが18歳のとき、学校のグラウンドを歩いていると、陸上競技の選手が走り高跳びの練習をしていた。すると、ある高さまで上がっていったバーが、止まってしまった。誰もそれ以上の高さを跳べないのだ。自分ならできるのではないかと考えたジムは、選手たちに声をかけて跳ばせてもらった。すると、1回で楽にクリアしたのだ。それは学校の最高記録を越えたということだった。このときからジムは陸上競技部に入ることになった。

学生時代、アメリカンフットボールのユニフォーム姿

学生時代、アメリカンフットボールのユニフォーム姿

走り高跳びだけでなく、ソープは走り幅跳び、短距離走、ハードル走、ハンマー投げや砲丸投げなどにチャレンジし、どの種目でもすばらしい記録を出した。学校のヒーローになったジムは、複数の州の競技会に出場して多くの種目で優勝するうちに、他校にも知られるような存在になっていった。スポーツが上達するにしたがって、それまでは粗野だったジムの生活態度は改善され、体育以外の教科の成績も良くなっていった。

ある日、アメリカンフットボールの選手から声をかけられた。フットボール経験はほとんどなかったものの、やってみると、ボールを持って相手選手のタックルをかわし、軽やかに走り抜けることができたのだ。瞬発力とスピードが並外れていたのである。2週間後にはチームの1軍に入っていた。陸上競技、野球、そしてアメリカンフットボールの3つの競技で、ソープは大活躍した。

22歳のとき、ソープは偶然出会った野球部員からちょっとしたアルバイトに誘われた。ノースカロライナ州のロッキーマウントというマイナーリーグのチームがあり、そこでプレーすると1週間で15ドルもらえるというのだ。好きな野球をやってお金をもらえるならと考え、参加することにした。これがのちの彼の人生に、大きな影を落とすことになる。

じつは当時、ソープのような学生は多かった。のちに34代アメリカ合衆国大統領になるアイゼンハワーも士官学校の学生時代、ソープと同じようにプロ野球チームのアルバイトをしていた。違っていたのは、ソープは本名で行い、アイゼンハワーは偽名で行ったということぐらいだ。

ジム・ソープは、国内の陸上競技大会で圧倒的な力を見せつけ、1912年ストックホルムオリンピックの代表になった。ストックホルムへ行く船の甲板で、1人のネイティブアメリカンに声をかけられる。その男はアメリカ本土出身者ではなかった。1898年にアメリカ合衆国の準州になったハワイ(州になったのは1959年)から来た水泳選手、デューク・カハナモクだった。

「なあ、ジム、きみは走ったり跳んだり、いくつものスポーツができるのに、どうして水泳をやらないのかい?」

「それはデューク、きみのためにとっておいたのさ」とソープは笑顔で言ったそうである。この船には、のちにIOC会長になるアベリー・ブランデージも選手として乗っていた。

1912年ストックホルムオリンピックに出場

1912年ストックホルムオリンピックに出場

オリンピックでソープが出場する種目は、陸上の十種競技と五種競技。十種競技は現在オリンピックで行われているものとほぼ同じで、1人の選手が、100m、走り幅跳び、砲丸投、走り高跳び、400m、110mハードル、円盤投げ、棒高跳び、やり投げ、1500mの10種目をこなし、総合得点で順位を決めるのだ。五種競技では、走り幅跳び、円盤投げ、200m、1500m、やり投げの5つを行う(現在はオリンピックで行われていない)。十種競技と五種競技は、どちらもきわめて過酷で、オールラウンドの強靭なアスリートでなければ挑戦できない。ちなみに現在行われている十種競技の優勝者は「キング・オブ・アスリート」と呼ばれ賞賛される。

ソープはこの大会で、なんと十種競技と五種競技の両方で金メダルを獲得したのだ。両種目とも2位に圧倒的な差をつけての1位である。

当時のオリンピックは、最終日にすべての競技のメダル授与式が行われていた。授与の方法も、現在とは異なり、開催国や参加国の王族や元首がメダルのプレゼンターになり、メダルをもらう選手が1段高いところにいるプレゼンターからメダルを手渡されるという方式だった。ソープは、五種競技の金メダルを授かるとき、プレゼンターであるスウェーデン国王グスタフ5世から「あなたは世界最高のアスリートです」と言われたとされる。

しかし喜びは長く続かなかった。ソープに思わぬ悲劇が襲いかかったのだ。ストックホルム大会が幕を閉じてから約半年後の1913年1月、複数の新聞が、「ジム・ソープはアマチュアではない」「かつてジム・ソープはプロ野球チームに所属していた」と書いたのである。当時のオリンピック憲章にはアマチュア規定があり、プロ選手の参加は認められていなかった。ソープは過去にマイナーリーグで野球経験があるという理由で、アマチュア規定違反により金メダルを剥奪されてしまったのである。このアマチュア規定は、1974年にオリンピック憲章から削除され、現在は原則としてアマ・プロの差なくすべてのアスリートが参加できるが、当時は非常に厳しかったのだ。

ソープは、全米アマチュア・アスレティック・ユニオン(AAU)に手紙を書いた。

「私はただのインディアンスクールの学生にすぎません。そのような規定についてはまったくの無知でした……。私は悪いことをしていると思っていませんでした。ほかの学生たちも同じことをしていたからです……」

訴えも空しく、2つの金メダルは国際オリンピック委員会(IOC)に返却された。ソープはみんなと同じアルバイトをして、たった週15ドルの報酬を得ただけだった。のちの大統領もやっていたことだった。大統領は偽名だったが、ジム・ソープは正直に名乗った。嘘をついていない、悪いことなどしていない。なのに……。

ジム・ソープの名は、あらゆる記録から削除された。1位が取り消されたことで、2位の選手が繰り上がることになる。だが、十種競技で2位だったスウェーデンの選手も、五種競技で2位だったノルウェーの選手も、金メダルの受け取りを拒否した。

「自分は1位ではないから」が、その理由だった。

ニューヨーク・ジャイアンツ時代のソープ

ニューヨーク・ジャイアンツ時代のソープ

もはや、プロスポーツ選手としてやっていくしか道がなかった。ソープはメジャーリーグのニューヨーク・ジャイアンツに入団した。しかし、そこで差別的な扱いを受ける。いくら活躍しても、アメリカ人として扱ってもらえないのだ。そこでソープはプロフットボーラーになり、野球以上の活躍をみせた。

第二次世界大戦が終結した頃から、ソープの名誉を回復させる動きが起こりはじめる。スポーツライターたち、ロータリークラブもそうした運動に加わった。1949年にはワーナーブラザーズがジム・ソープの映画を作ることを決めた。

同年、AP通信社がスポーツライターやキャスター約400人を対象に、「20世紀前半のアスリートのなかで最も優れているのは誰か」というアンケートを実施した。その結果、圧倒的多数が1位に挙げたのが、ジム・ソープだった。あのベーブ・ルースは2位、ベルリンオリンピックで活躍したジェシー・オーエンスは8位である。それでもソープの金メダルは剥奪されたままだった。

1953年3月28日、ジム・ソープは永眠した。享年64歳。名誉回復と金メダル奪回運動は続いていた。だが、IOCは動かなかった。当時のIOC会長はアベリー・ブランデージ。1912年ストックホルムオリンピックで、ブランデージはソープとともに五種競技と十種競技に出場した。だが、ブランデージは五種競技で6位、十種競技では16位に終わっている。そのことがソープの金メダル回復に影響していたとは思えないが……。

1973年、AAUはソープのアマチュア資格を回復する決定をした。それからさらに9年、サマランチ会長のもとIOCはようやくソープの名誉回復を決めた。金メダルが造られ、ソープの遺族に渡されたのだ。剥奪されてから70年が経っていた。

メジャーリーグのジャイアンツ時代に、彼は泣きながらこう言ったという。
「メダルは今、私の手にはない。しかし、あれは私が取ったものだったんだ。私は正々堂々とフェアに競技して勝ち取ったんだ」

ジム・ソープの事件は悲劇であり、二度とあってはならないオリンピック史における負のレガシーである。

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。