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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

「努力」が偉業をもたらした橋本聖子─人々の心に響いた奮闘─

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.11.09

 橋本聖子という競技者の思い出となると、スピードスケートと自転車競技の双方で取材してきた者として、頭に浮かぶ言葉はただひとつだ。「努力」である。あまりに単純で、当たり前すぎるではないかと言われるだろうが、どう考えても、ほかに適当な表現はない。どの競技のどの競技者であれ、誰も真似できないだろうと思わせるほどの努力を積み重ねて、彼女は、誰も肩を並べることのできない偉業をなし遂げたのである。努力というものの持つ果てしない可能性をこれ以上なくわかりやすい形で示した点において、彼女の功績ははかり知れない。

 1964年105日、北海道の早来町で牧場を営む夫婦の4人姉弟の末っ子として生まれた。その5日後に開幕した東京オリンピックの開会式に感動した父親が、聖火にちなんで娘の名前を決めたというのは、あまりにも有名なエピソードだ。実家は、周囲に何もない山奥。スケートは、冬になると凍る近くの池をリンクにして、3歳から始めた。何かに失敗すると幼い娘を容赦なく池に投げ込んだりするスパルタ教育の父に鍛えられ、乗馬や自転車もすぐに上達したというから、スケートの進歩も速かったに違いない。

 実際、そのキャリアを見ると、たちまち日本の頂点へと駆け上がっていったのがよくわかる。全日本ジュニア選手権の500mで優勝したのは中学3年、14歳の時。駒大苫小牧高に進んでからはさらに勢いが加速する。1年で世界ジュニア選手権に史上最年少の日本代表として出場すると、2年の時には全日本スプリント選手権で総合優勝。さらに、同じシーズンの全日本選手権まで制してしまった。高校生チャンピオンはこれまた史上初だった。

1983年第10回全日本スプリント選手権で総合優勝する橋本聖子

1983年第10回全日本スプリント選手権で総合優勝する橋本聖子

 高校を出て社会人となり、富士急に所属してレベルの高い練習を始めると、彼女は一気に日本の女王の座に駆け上り、頂点に君臨し続けることになる。19歳で1984年サラエボ大会の日本代表となると、1988年カルガリー、1992年アルベールビル、1994年リレハンメルと冬季オリンピックに連続出場した。聖子という名に込めた父娘の夢は、これ以上ない形で現実となったのである。

 といって、それは、天与の体格や運動能力やパワーが圧倒的に優れていたからではない。身長は156cmと小柄。小学校3年の時には腎臓病を患って2カ月入院し、2年間もスケートから離れた。既に日本のトップクラスに躍り出ていた高校3年では、腎臓病が再発しかけたのを端緒として呼吸筋不全症を発症した。呼吸が止まりかねないというほど重篤な症状で、やはり2カ月の入院。医師が「もうスポーツはできない」と告げたのも無理はない。

 ところが、彼女は敢然とリンクへ戻り、トレーニングを再開した。退院後間もない全日本選手権では、4種目完全制覇という離れ業で優勝を飾った。そして「オリンピックの申し子」といわれた大活躍が始まる。自転車競技も加え、「冬夏計7大会に出場するという快進撃は、まさしく前人未踏と言うしかない。しかも、スケートでは、500mから5000mまですべてをこなすオールラウンダーとしての取り組みを崩さなかった。体格に恵まれず、普通なら競技など継続できないはずの大病を2度も経験しながら、並ぶもののない偉業をなし遂げてみせたのである。

 なぜ、そんなことができたのか。笹川スポーツ財団の「スポーツ歴史の検証」インタビューにはこうある。「シンプルに病気をしたからだったと思います…入院中は本当に苦しくて、最終的に肺活量は元には戻りませんでした。それでも工夫をしながらトレーニングを続けるという、ふつうだったらやらないことをしてきたのは、病気をしたことによって辛いことに耐えられるようになったからだと思います」

 病気をしたからつらいことにも耐えられるようになった、と気負いなく言ってみせるところには感嘆するほかない。この話もまた、比類ない努力を積み重ねてきたことのひとつの裏付けであろう。誰にも真似できない努力とはすなわち、誰も耐えられないようなつらさにも耐えてきたのを意味しているからだ。

 彼女は、自身の並外れた努力についてあまり語らなかった。鬼気迫るような猛練習の影はうかがわせず、平静に、淡々と振る舞っていた。ただ、彼女の著書「聖火に恋して」には、さりげなく書かれてはいるが、きわめて印象的な記述がいくつか出てくる。たとえば、こんなところだ。

 「私にとって『ハードトレーニングをする』ということはものすごく簡単なことなのです。いや、そのトレーニングが過酷であればあるほど楽しいことだったのです」

 「私の身長は156㎝です……私自身としては『この身長だからこそ努力の尊さが分かる』となります。もし、体格的にもっと恵まれていたら、練習は楽な方へ走っていってしまったでしょう……私が言いたいのは『ハンディは何もしない人にはハンディだけど、それを克服しようと努力する人には逆に力強い味方になる』ということです」

 「過酷であればあるほど楽しい」「ハンディは力強い味方になる」とは、なんとわかりやすい表現だろう。けっして、生まれつき抜きん出た能力を持っていたわけではない。が、彼女は人並み外れた才能をひとつ秘めていた。「果てしなく努力を積み重ねる」才能である。彼女は「努力の天才」だった。

 では、その、いくらでも努力できる才能を駆り立てたものは何だったのか。これについても、著書からいくつかの記述を挙げてみよう。

 「確かに苦しいことは事実です……が、『記録を出したい』という気持ちの前には、苦しさは瞬間的な通過点でしかないのです…レースや練習が終わってしまえば『次はもっといいレースを』『明日はもっと充実した練習を』となってしまうのです」

 「スポーツのレース中やトレーニングの最中によく使われる死点は不思議なポイントです。その点を乗り越えると死んでしまうのではなく、死にそうに苦しかったものが生き返るのです。私の場合は死点を越えると、目の前にさらに高い頂が見えてしまうのです。そして、その頂を見ると何のためらいもなく、次の挑戦が開始できるのです」

 オリンピックについては、これらの記述が印象的だ。

 「私の考えはこうです。『オリンピックに出場すること、苦しい練習に耐えること、スケートを滑ることが、今の私に与えられている使命なのだ』と……」

 また、オリンピックに出場し続けたのは「完全燃焼しきれなかったから」としている。全力を出し尽くして燃え尽きたレースはいくつかあったが、子どものころから思い描いてきたオリンピックの聖火のもとで行うレースに値したかというと、「ほとんどのレースは『NO』だ」として、「『NOならもう一度やり直せ』が、私が子供の頃から教えられてきたスポーツなのです」と言い切っている。

 こうしてみると、くっきりと浮かび上がってくるものがあるようだ。

 自分がやるべきことは、なんとしてでもやり遂げる。どんなに大変なことでも、その内容に自分が納得できなければ、納得できるまでやり直し続ける。ひとつ山を越えても、必ずその先にもっと高い頂が見えてくるから、ためらわずにそこへと向かっていく。どんなにつらく、苦しくとも、一段上、また一段上と自らを高みに押し上げずにはいられない。橋本聖子とは、そんなアスリートだったのである。そして、それが、誰も真似のできない「努力する才能」を研ぎ澄ましていったというわけだ。

 スケートで十分な実績を持ちながら、あえて自転車競技に挑んだのも、そうした思いゆえだろう。困難を乗り越えながら自分を進化させていく喜びをそこにも見出したのだ。スケートと自転車競技には相通ずるところがある。橋本と同時期に活躍したクリスタ・ローテンブルガー(東ドイツ=当時)のように、自転車競技にも取り組んだスケーターも少なくない。挑み続け、高みを目指し続けるのを身上とする橋本が、持ち前の「努力する才能」をそそぎ込むにふさわしい、もうひとつの対象として自転車の世界を選んだのは、いわば必然だったと思う。

 ソウル大会に向けて苦闘を重ねている時、彼女は「限界が見えるまでやれれば十分です」と筆者に語った。常に自分の限界まで力を絞り尽くし、時にはその限界を押し広げようともしていた競技者である。スケートと同様に、自転車にも同じ決意で立ち向かっていたというわけだ。

 オリンピックのメダルを量産したわけではない。メダルはただひとつ。スケートでは4回の出場で計8回の入賞を果たす健闘も見せたが、オールラウンダーとしては、どの種目でも優勝争いは遠かった。3大会出場の自転車競技では入賞に届かなかった。それでも、彼女の名が幾多の金メダリストより輝いているのは、努力というものが秘めているはかり知れない可能性を、広く世の中に示したからだ。「どんなことでも、ひるまずに立ち向かい、努力を積み重ねていけば、道は開ける」ことを身をもって示した小柄な競技者の思いは、スポーツの枠を超えて多くの人々の心に響いた。だからこそ、橋本聖子の軌跡は歴史に残る伝説となったのである。

1992年アルベールビル冬季大会の女子1500mを全力で走り 抜ける橋本

1992年アルベールビル冬季大会の女子1500mを全力で走り 抜ける橋本

 彼女を取材してきた中で一番の思い出といえば、やはりこれだ。1992212日、アルベールビル冬季オリンピックの第5日。スピードスケートの屋外リンクでは女子1500mが行われていた。

 そのシーズンは不調に苦しんでいた橋本。アルベールビルでも、まず3000m500mを滑って、ともに12位に沈んでいた。1500mはやや不得意な種目。今回もメダルには手が届かないのかと関係者の誰もが思っていた時、リンクに夢が舞い降りてきた。

 3組でリンクに登場した彼女は、それまでの不振を感じさせずに伸び伸びと滑り、ラストはいつものように力を出し尽くして氷に倒れ込んだ。その時点で2位。好タイムとはいえ、後には強敵がずらりと揃っている。ところが後続のタイムは伸びない。3番手になったが、それ以上、彼女の記録を上回る選手は出なかった。誰も予想しなかった銅メダル。こうして橋本は、ついにオリンピックの表彰台に立ったのだった。

 すべてが終わった時は夜になっていた。ずっと彼女の取材を続けていた記者たちが、暗い中でヒロインを囲んだ。

 「最後の1周は真っ白でした。滑り終えたら脚がどうにもならなくて、立っていられなかった……」

 「極限の疲れを味わうのがものすごく好きです。そういうきつさって、誰もが味わえるものじゃない。幸せだと思います」

 取材陣の輪の中で彼女の顔は輝いていた。一方、取り囲んだ我々も笑顔だった。みな、ここまでの苦労の重みを熟知している。我々が手放しの笑顔だったのは、この時ばかりは取材者ではなく、彼女の苦闘をねぎらい、偉業をたたえる一人のファンになっていたからだ。「オリンピックの女神は、あの努力をちゃんと見ていたんだ。だから、特別にご褒美をくれたんだ」とは、取材の輪の中で筆者が思ったことである。橋本聖子はまさしく「オリンピックの子」だった。

出典:橋本聖子「聖火に恋して」日刊スポーツ出版社 1994, 235p

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スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。