使命感で引き受けた開幕5カ月前の組織委員会会長への打診
2016年リオデジャネイロオリンピックでは日本選手団団長を務めた(中央)
―― コロナ禍での東京2020オリンピック・パラリンピック開催については、開幕前には中止や延期の声が多くありました。そうした意見を持った人たちに対しての答えとして、オリンピック・パラリンピックを開催する意義を示すことはできたのでしょうか
これまで何回か日本選手団団長を務めさせていただいたこともあって、以前から「なぜオリンピック・パラリンピックは存在するのか」「なぜオリンピックはこれだけ人々を魅了するのだろうか」ということを調査してきました。東京オリンピック・パラリンピックも、コロナ禍の前は賛同の声が多くありました。2019年12月に内閣府が行った「東京2020オリンピック・パラリンピックに関する世論調査」では、開催について「日本にとって良いことだと思う」と答えた人は85.5%にのぼりました。それだけ多くの方が、東京オリンピック・パラリンピックを楽しみにしてくださっていたのだと思います。
一方、どの大会でもおよそ3割の人たちはオリンピック・パラリンピック開催を良く思っていないという調査結果が出ていますが、ならばその3割の人たちにどのようにしてオリンピック・パラリンピックの魅力を伝えていけばいいのか、ということが課題とされてきました。調べてみると、3割のうち1割は「オリンピック・パラリンピックは好きだが、国民に大きな負担をかけてまで自国開催をする必要はない」という考えの人たちでした。もう1割の人たちは「そもそもそんな大会は必要ない」という考えの人たちで、残り1割は「反対だけれど、実際には見る」という人たちでした。さらに調べていくと、実際に自国でオリンピック・パラリンピックを開催すると、反対していた人たちのなかから「開催して良かった」と、考えが変わる人たちがいました。ただし、その逆もしかりで入れ替えが起こるので、割合的には変化はないというのが、過去のオリンピック・パラリンピックでの調査結果でした。そう考えますと、「そもそも必要ない」というスポーツにまったく興味がない人たちを除いて、2割の人たちはふだんほかのスポーツを見ていたり、あるいは自分自身がスポーツをしていたりと、それなりにスポーツに興味がある人たちなんですね。そういう人たちにオリンピック・パラリンピックの開催意義を伝えていけるかということが重要だと感じました。どの大会でもそうした結論が出ていたわけですが、コロナ禍での東京オリンピック・パラリンピックにおいては、どの世論調査においても5割以上の人が「中止すべき」あるいは「開催することに不安がある」と答えています。また2021年1月に共同通信社が行った世論調査では、「中止すべきだ」(35.3%)「再延期すべきだ」(44.8%)をあわせて、8割以上の人が反対意見であるという結果が出ました。しかし、私自身はそうした状況を冷静に捉えていました。なぜなら、反対の声をあげている人たちのなかには、もともとは賛成だった人たちがたくさんいるということはわかっていたからです。
では、なぜ今大会は反対なのかと言えば、ひとつは新型コロナウイルス感染症への対策に不満と不安を持っていたからで、そのストレスを東京オリンピック・パラリンピックに向けることで、安心感を得たいという気持ちもあったのだと思います。そして、メディアも不安を煽るような報道を続けることで、国民の関心をひいていたところがありました。そういうなかで、私たちはもともとオリンピック・パラリンピックに興味を持ってくださっていた人たちに「これだったら開催しても大丈夫だろう」という安心感を抱いてもらえるように、地道に努力を重ねていくしかありませんでした。会見などで私の消極的な態度に「もっと強く主張すべきだ」という声もあったのですが、私としては無理に戦う姿勢を見せれば、かえって反発されるだろうと思っていましたので、とにかく「自分の仕事は、開催を実現させることだ」と言い聞かせて準備に専念しました。もちろん開幕前にもできる限りの理解していただける努力はしましたが、最終的には感染拡大を防ぐ大会を実践することで理解をしていただくしか方法はないと考えていました。
―― 橋本さんは「ストレスをかわすことが得意だ」とおっしゃっていますが、今回のストレスはどのようにしてかわされたのでしょうか?
メディアも含めてすべての国民の気持ちを、全身で受け止めようという思いでいました。選手、スタッフ、ボランティアなどの人たちのストレスになってはいけませんので、国民のマイナス感情の矛先が、東京オリンピック・パラリンピック自体に向かないよう、すべて組織委員会会長である私のところに向くようにしたいと思いました。ただ、実際にはなかなか難しかったなと反省しています。私自身が責められることはぜんぜん構わなかったんです。政治に身を置いていれば、反対意見や責められることなど日常茶飯事。もちろん聞く耳は持っていますが、一つひとつ気にしてストレスに感じるということはありません。とにかく大会開催を実現させることが、森喜朗前会長から引き継いだ最重要業務と思っていました。
―― コロナ禍というだけでなく、開幕前にはさまざまな問題が起きました。森さんの女性蔑視ともとれる発言で、東京オリンピック開幕まで半年を切ったなか、会長が交代するという事態となりました。そして東京オリンピック開会式・閉会式の式典・演出チームでも過去の言動が問題視されて、辞任が相次ぎました。こうしたさまざまなことが、国民の組織委員会への不信感を募らせていったのだと思いますが、もっと国民に丁寧に説明をしたり、情報を開示することによってあそこまでの騒動には至らなかったのではないかと思います。
対応については、いろいろと反省しなければいけない点はあります。ただ、すべての情報をオープンにすると、問題とされた人が一層世間の批判にさらされてしまう可能性がありました。実際、数十年前の過去にまで遡っての言動や映像を調べ上げられて、次々と世間にさらされる状況でしたので、なかなかそこで説明をしたり情報を開示するというようなことができませんでした。もちろん組織委員会としては、私自身に対しても含めて、関係者の身体検査はきちんとしていました。しかし、プライベートなこともありますので、メディアがしたような何十年以上も昔のことまでは調べることなどはできませんでしたし、正直メディアに対しては「そこまでするのか」と驚きました。どこまで調べて、どこまでオープンにすればいいのかは、本当に頭を悩ませたところです。東京オリンピック・パラリンピックをうまく運営していくために、組織委員会としては結構細かく身体検査をしたつもりでした。ただ、いくら情報開示が重要だとはいえ、どんな人にもこれからがあります。とはいえ、世間はやめさせなければ納得はいかなかったと思いますので、その人の将来の部分までも傷つけることなく、どうやって辞任の方向にもっていくべきなのかということには苦心しました。
森喜朗前大会組織委員会会長
―― 森前会長が自らの発言の責任をとって、2021年2月12日に組織委員会会長を辞任することを表明したのを受けて、組織委員会では「候補者検討委員会」が設置されました。そこで後任の会長に選ばれたのが橋本さんだったわけですが、その経緯について改めて教えてください。
森前会長が辞任をするとなった時には、すでに東京オリンピック開幕まで5カ月に迫っていましたので、当時東京オリンピック・パラリンピック担当大臣の立場としても「これは一日でも早く後任を決めてもらわないと困るな」と思いながら毎日のように報道されるニュースを見ていました。そうしたところ「候補者検討委員会」(以下、検討委員会)で私の名前が出ているということを耳にしたわけですが、ただ政治家が組織委員会のトップに立つということは特に何か規定が定められているわけではなかったもののタブー視されていたようなところがあったんです。ところが、過去の大会を調べてみると、例えばセバスチャン・コー氏(現・国際陸上競技連盟会長)は上院議員のまま2012年ロンドンオリンピック・パラリンピック組織委員会会長を務めていました。「それならば、問題はないだろう」ということで検討委員会において私に一本化して、打診するという流れだったようです。正直、打診を受けてから悩む時間はありませんでした。すぐに菅義偉首相(当時)に相談に行ったところ「誰かがやらなければいけないのであれば、あなたが一番適任なのでは」と言っていただいたので、もうその場で大臣の辞職願を出しました。それが受理されたあと、組織委員会の理事会にはかられて決定しました。「火中の栗拾い」というようなことも言われましたが、私自身がさまざまな立場でオリンピックに関わってきましたので、どれだけ東京オリンピック・パラリンピックが重要だということかはわかっていましたし、使命感もありました。それと「こんな大変な役回りを、ほかの誰かにお願いするのはあまりにも酷なことだ」とも思っていたんです。その人が辛い思いをするのを見るのは嫌だな、それならば、自分でやったほうがよっぽど楽だろうと思いました。ですので、組織委員会の会長に就任することに対しては「私でよければ」という思いでした。ただ東京オリンピック・パラリンピック担当大臣と同時に、女性活躍担当大臣として男女共同参画を推し進めていくためにやり遂げたいことがたくさんあっただけに、道半ばで手を離さなければいけなかったことについては本当に残念でなりませんでした。それでもふだんから一緒になって事業を進めてきた丸川珠代さんが後任となってくれましたので、立場は変わっても一緒にやっていこうということで安心してバトンを渡すことができました。
橋本氏の後任のオリンピック・パラリンピック
担当大臣に就任した丸川珠代氏
―― 会長就任直後の2月末には組織委員会内に事務総長直轄の「ジェンダー平等推進チーム」を設け、小谷実可子スポーツディレクターがチーム・ヘッドとなって改革に取り組まれました。3月には組織委員会の女性理事を12人に増やし、女性の比率を42%にまで引き上げました。
男女共同参画担当大臣を務めていた時に最も重要視していたのは、「世界が日本をどう見ているか」でした。女性活躍の面では、いまだ日本は世界から非常に遅れている国だ、と見られているというのが実情です。2021年3月に世界経済フォーラムが公表した「ジェンダー・ギャップ指数」では、日本は156カ国中120位と先進国のなかで最低レベル、アジア諸国のなかでも韓国や中国、ASEAN諸国より低い結果となっています。そうしたなかで、森前会長の後任を務めるのはどういう人物なのかと世界から注目されていて、日本を見てもらえるチャンスでもあると思いましたので、「日本はやっぱり女性活躍の点で遅れている国だな」とは思われないようにしなければなりません。そのため、女性理事を増やしたことについては「単なる数合わせではないか」という批判もありましたが、女性の比率が42%という数字で示すことでインパクトを与えられたのではないかと思います。
実際、世界からの反響は大きかったです。今後さまざまな組織や社会で意識改革が進められていくきっかけになっていくことを期待しています。
病気によって人生観が変わり、身についた耐える強さ
(左)幼少時 (右)父と
―― 橋本さんは、1964年10月5日に北海道勇払郡早来町(現・安平町早来)で生まれ、その5日後にアジアで初めて開催された東京オリンピックの聖火にちなんで、お父さまが「聖子」と名付けたというのはあまりにも有名な話です。
私の父はスポーツが大好きな人で、東京オリンピックにも強い思いを抱いていました。どうしても自分の母親、私の祖母に開会式を見せたいということで、北海道から上京して、国立競技場で開会式を見ているんです。もちろん開会式のチケットは人気でしたから、相当苦労をして取ったようですが、実際には3枚取れたんだそうです。当時、祖母は足を悪くしていて、歩くのもやっとのような状態でしたので、父が祖母を背負って行ったのですが、地元の女医さんも帯同することになって、3人で上京したんです。
開会式で聖火リレーの最終ランナーとして国立競技場の聖火台に火を灯した坂井義則さんは、第二次世界大戦末期の1945年8月6日、世界で初めて広島県に原爆が投下されたその日に広島県三次市で生まれた方でした。「戦後復興と平和」の象徴として選ばれたということを知った父は深く感銘を受け、それで生まれた自分の子どもをオリンピック選手に育てたいという考えで、女の子だったものですから「聖子」と名付けたそうです。そうした自分の名前の由来については、幼少時から何度も父に聞かされてきましたので、小学校にあがる前から「自分はオリンピック選手になる」と言っていたのですが、ただオリンピックがどういうものなのかはわかっていませんでした。初めてオリンピックを見たのは、小学校1年生のときの札幌オリンピック(1972年)でした。実際に見に行くことはできず、テレビでの観戦だったのですが、大会期間中に開閉会式が行われた真駒内公園のスピードスケート競技場に連れて行ってもらい、そこに置かれた聖火台に灯る火を遠くから見ることができました。
鈴木恵一選手(1972年札幌オリンピック)
―― 初めて触れたオリンピックは、いかがでしたか?
北海道では誰もが遊びでスケートをやるのですが、私も3歳からスピードスケートをやっていまして、慣れ親しんできたスピードスケートがオリンピックの種目にあるんだということを札幌オリンピックを見て知りました。当時、地元ではスピードスケート男子500mの鈴木恵一さん(元日本スケート連盟理事)にメダルの期待が寄せられていました。だから小学1年生の私も、鈴木さんが金メダルを獲るものだとばかり思っていたんです。あとから聞いた話では、鈴木さんは29歳になっていて、すでに全盛期を過ぎていらしたということだったのですが、日本選手団の主将を務め、選手宣誓もされていて、すごく大きな期待を寄せられていたんです。ところが、コーナーで失敗をして、19位に終わったんです。それが、子どもながらにしてすごく残念に感じたのを覚えています。一方、それまで遊びでやっていたスピードスケートが、競技として行われているのを見て、「あ、この競技を続けていけば、オリンピックに行けるんだ」と思いました。もちろん、予選を勝ち抜かなければいけない厳しい舞台であるということは、小学1年生の私にはまだぜんぜんわかっていませんでしたが、何となく自分がめざすオリンピックがイメージできるようになったのは、札幌オリンピックの影響が大きかったです。父にお願いをして、小学校2年生でスポーツ少年団に入れてもらい、本格的にスピードスケートを始めました。
―― ところが、小学校3年生の時に腎臓病を患われました。スピードスケートを諦めなければいけないというようなことはなかったのでしょうか?
小学校3年生の春に腎臓病になり、入院自体は2カ月ほどだったのですが、療養生活は小学4年生の夏休みが明けるくらいまで続きました。その間、学校は午前中の授業だけ受けて、お昼に迎えに来てもらい、午後からは自宅で療養するというようなことをしていました。両親は心のなかでは「もうスピードスケートは無理だろう」と思っていたと思います。私自身は何もわからなかったですね。当時はとにかく塩分はいっさい禁止という食事制限が辛いということが一番にあっただけで、腎臓病の怖さみたいなものはわかってはいませんでした。療養をして元気になれば、きっとまたスピードスケートができるのだろうと考えていたと思います。
―― 入院中には辛い経験もされたようですね。
苫小牧市立病院に入院していたのですが、小児病棟には同じくらいの年齢の子どもたちがたくさんいまして、そのなかで同じ年齢の女の子と友だちになりました。今考えますと、その病院は当時としては珍しい取り組みをしていて、北海道大学のインターンの学生が塾のようにして、学校に行けない私たちに週に何度か勉強を見てくれたんです。そのほか、週に2、3回ほど、おやつの時間の前に子どもたち同士の交流会があって、ベッドから起き上がれるような子どもたちが、寝たきりの子どもたちの病室に行って紙芝居やトランプをして一緒に遊ぶというような時間がありました。その時、「あの子は治らない病気なんだよ」ということを聞かされて「同じ年齢で、そんなに大変な病気をしている子どもがいるんだ」ということを知ったのですが、その女の子も大病を患っていたんです。その子の病室に行くのが辛く感じたりしたこともあったのですが、当の本人はすごく明るくて、私たちが病室から出る時には、いつも笑顔で見送ってくれました。その子が、ある日突然亡くなってしまったんです。その時に、「あの子は、みんなと会うのがいつ最後になってもいいように、いつも笑顔でいたんだよ」ということを聞かされて、子どもながらにして人生観が変わりました。「自分と同じ9歳という年齢の子どもが、こんなふうにして死んでしまうことがあるんだ」と。健康でいることが、どれだけ人間にとって幸せなことなのか、というふうに考えるようになってからは、食事制限が辛いとは思わなくなりました。
―― そうした病気になったことによって人生観が変わったことが、競技で過酷なトレーニングをするうえでも大きく影響したのでしょうか?
もちろんトレーニングは苦しいのですが、入院生活や食事制限をすることに比べたら何でもないと思えました。耐えることに対して苦に思わなくなったのですが、一方では、自分を追い込むことができるようになってしまったということでもありました。それで高校3年生の秋口に腎臓病が再発しかけて、まだ若いというのに体にむくみが出てきたんです。小学校の時には「急性なので再発することはないだろう」と言われていたのですが、完治していなかったのだと思います。それとのちに検査でわかったのですが、私は生まれつき腎臓機能が弱かったようなんです。それで「このまま放っておけば、完全に再発してしまう」ということで、また入院せざるを得なくなってしまいました。実は、翌シーズンにはレークプラシッドオリンピック(アメリカ)を控えていて、私自身は確実に出場できると思っていました。しかし、腎臓病が再発すればもう出場できないと思い詰め、今でいう「PTSD」(心的外傷後ストレス障がい)により「呼吸筋不全症」を発症してしまいました。ストレスによって呼吸する際に必要な筋肉が動かなくなってしまったんです。そのためちょっと上半身を起こしていないと呼吸することができなくて、180度体を横にして寝ると完全に呼吸が止まってしまうという状態のなか、酸素マスクで呼吸しながらの入院生活を余儀なくされました。とてもオリンピックどころではなく、諦めざるを得ませんでした。
―― その状態から、スピードスケートで冬季オリンピックに4回、自転車競技で夏季オリンピックにも3回出場と活躍するまでに至ったのには、何が要因していたのでしょうか?
シンプルに病気をしたからだったと思います。もし健康な状態で過ごしていたら、苦しい思いをしてまでオリンピックに7回も出場しよう、なんてことは考えなかったと思います。でも、大きな病気を患ったことで、自分なりに人間の限界を知ることができたのではないかと思います。入院中は本当に苦しくて、最終的に肺活量は元には戻りませんでした。それでも工夫をしながらトレーニングを続けるという、ふつうだったらやらないことをしてきたのは、病気をしたことによって辛いことに耐えられるようになったからだと思います。