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伊調馨と千春、姉妹の絆
~二人一緒のメダルから4連覇へ~

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2019.11.06

レスリングの女子フリースタイルは、2004年アテネ大会からオリンピックの正式種目になった。実は、日本ではメダルが確実な種目として、早くから注目されていた。なぜなら、前年の9月に行われた世界選手権で、日本女子選手たちは7階級中5階級で優勝していたからだ。金メダリストとなったのは、51kg級の伊調千春、55kg級の吉田沙保里、59kg級の山本聖子、63kg級の伊調馨、71kg級の浜口京子だった。51kg級と63kg級の伊調は、3歳違いの姉妹。女子レスリング史上初の姉妹同時世界王者になったのである。二人はともに2004年アテネ大会を目指した。

伊調姉妹は、青森県八戸市で生まれ育った。八戸市は伝統的にレスリングがさかんな土地柄だった。吉田沙保里の父である吉田栄勝は八戸出身。1973年の全日本選手権で優勝し、世界選手権で4位になった。1984年ロサンゼルスオリンピックで銀メダル、1992年バルセロナオリンピックで銅メダルを獲得した赤石光生は、青森県弘前市出身だが八戸光星高校で鍛えられている。

伊調姉妹は、ともに幼いころからレスリング教室に通っていた。几帳面で面倒見のよい姉・千春、マイペースの妹・馨。対照的な性格だったが、二人はいつも一緒だった。

馨は小学校の卒業文集に書いた。
「10年後の私。オリンピックに出て、金メダルをとっている」

1997年の春。この頃のオリンピックのレスリングには女子の種目がない。レスリングは男がやる競技と思われていた。だが、馨も千春もいつかは女子選手もレスリングでオリンピックに出場できる日がくると考えていた。

そして、「二人で一緒にオリンピックに行って金メダルをとろう」と言っていた。二人揃って、心からそう思っていたのである。

千春は高校からレスリングの強豪校である京都の網野高校に入ると、全国高校選手権で2連覇を達成。馨は全国中学生選手権で3連覇し、愛知県の中京女子大学付属高校(現在の至学館高校)に進んだ。姉妹の高校は離れたが、それぞれが同じ夢に向かって歩みを進めた。

2001年。大学生の千春と高校生の馨のもとに、3年後のオリンピックから女子レスリングが正式種目になるという、うれしい知らせが届いた。それまでは「二人で一緒にオリンピックに行って……」と思ってはいたものの、現実的には「最高の舞台は世界選手権」と考えていた。だが、その先にオリンピックが見えてきた。

このとき、東洋大学で勉強とレスリングの両立に悩んでいた千春は、思いきって飛び出し、レスリングに専念できる中京女子大学に入り直した。この大学の付属高校には馨がいた。姉妹は再び同じ場所で夢を目指すことになったのである。

2004年アテネオリンピック、レスリング女子63kg級金メダルの伊調馨

2004年アテネオリンピック、レスリング女子63kg級金メダルの伊調馨

2003年、アテネオリンピック出場に向けた戦いが始まった。各階級で1名しか代表に選ばれない。国内の選手層が厚ければ厚いほど代表選考レースは厳しいものとなる。

馨は負けることがなかった。国内トップの座に向けて順調に勝ち進んだ。一方、千春は苦しんでいた。ここ数年、つねに行く手を阻むライバルがいたのだ。それが坂本姉妹だ。姉・坂本日登美は同じ八戸出身で、階級も同じ。高校まで千春は坂本日登美に負けたことがなかったが、日登美が大学に進学してからは一度も勝てなくなった。そして日登美は2000年、2001年と世界選手権を連覇し、誰もが認める王者となっていた。千春があえて大学を移ったのは、その坂本日登美に絶対に勝ちたかったからだ。

世界選手権のレスリング女子フリーは7階級で行われていた。ところがオリンピックでは、4階級にしぼって実施されることになった。そのため、1つの階級に選手が集中することになる。もともと51kg級の選手だった千春はオリンピックで実施される階級の48kg級に変更したが、その階級に世界王者として君臨していたのが坂本日登美の妹・坂本真喜子だった。

坂本姉妹も、以前から伊調姉妹と並んで有名な「姉妹レスラー」だった。そしてこの姉妹も、二人揃ってオリンピックを目指していた。しかし、階級が絞られたことで、姉・日登美は千春と同様に階級変更をせまられた。日登美はそこで妹と代表の座を争うことはできず、自分の夢を妹にたくして泣く泣くオリンピックをあきらめたのだ。ちなみに、坂本日登美は2010年に結婚し、小原日登美として2012年ロンドンオリンピックに出場、48kg級でみごと金メダルに輝いた。

2004年アテネオリンピックへの戦いで千春の前に立ちはだかったのが、1つの代表の座にかける姉妹二人分の夢だった。

オリンピック代表選考会となる大会は全日本選手権とクイーンズカップの2回。全日本選手権では坂本真喜子に勝利した千春だったが、次に行われたクイーンズカップでは、姉・日登美の強いバックアップを受けた坂本に完敗。代表選考は2カ月後のプレーオフにもつれこむことになった。

千春はこのとき、敗戦のショックで、「どうしたらよいのかわからない」と自分を見失ってしまっていた。

ここで立ち上がったのが、馨だった。選考大会で2連勝しすでにアテネ行きを決めていた馨は、それから毎日千春の練習につきあい、ずっとそばにいて励まし続けた。

「千春がいてくれることで私は実力以上の力を出せる。それはきっと千春も同じ。だからアテネにも絶対、一緒に行きたい。そして二人で金メダルをとるんだ」

馨の思いは千春に通じた。ふたたび前を向いた千春は短期間で自分のレスリングを立て直すことに成功した。
プレーオフの前日、千春のもとに馨からのメッセージがとどいた。
「自信」と大きく書かれたその紙には、こうあった。
「待ってるから。早く来い。こっちに来い」

アテネをかけた試合が始まった。坂本真喜子のセコンドにつくのは姉の日登美。伊調千春のセコンドには、妹の馨だ。世界でも珍しい、「姉妹対姉妹」の対決は、激戦のすえ千春の勝利となった。伊調姉妹が二人の力でつかんだ「アテネへの切符」だった。

2004年9月。アテネのマットの上で、姉妹はそれぞれ順調に勝ち進む。軽い階級から実施されるため、試合はつねに千春が先になる。二人のレスリングのスタイルは、千春が「攻め」、馨は「守り」。先手をとる千春は準決勝まですべてテクニカルフォール勝ちという圧倒的な強さを見せた。その勢いのまま決勝戦に臨む。しかし、決勝のマットに立ってみると、なかなか持ち味が出せない。焦っているうちに、延長にもつれこんだ。互角の戦いは点差がつかず、協議判定の結果、千春は負けてしまった。

2004年アテネオリンピック、レスリング女子51kg級銀メダルの伊調千春

2004年アテネオリンピック、レスリング女子51kg級銀メダルの伊調千春

表彰台に立った千春は、笑顔の金メダリスト、銅メダリストの横で完全に無表情だった。にこりともしない。

「応援していただいた多くの方々に申し訳ない。こんなメダルなら欲しくありません」と語った。

姉妹で金メダルをとると約束していたのに、自分は先に負けてしまった。あと少しのところで、臆病になってしまった。その悔しさが全身からにじみ出ていた。

千春が銀メダルに終わり、馨もショックに襲われていた。

練習場のテレビで千春の決勝を見ていた馨は、敗戦を見て泣きながら言った。

「千春が金メダルでないなら、私もいらない」

決勝のマットに上がることすらやめてしまいそうな妹を見て、千春は目を覚ました。

「自分が落ちこんでいてはいけない」

千春は馨のもと行き、馨に言った。

「勇気を出して攻めるんだよ」

その言葉が、馨をマットに引き戻した。

女子63kg級の決勝戦。強い心をとりもどした馨は、攻めてくる相手にも持ちこたえた。0-2とポイントで先を越されても、あきらめなかった。試合時間残り21秒というところで、馨のあざやかな逆転が決まった。

馨は表彰式のあと、金メダルを首にかけたまま言った。

「これは千春と二人でとった金メダルです」

4年後。北京オリンピックのマットの上に伊調姉妹はいた。今度こそ、狙うは「姉妹で金メダル」。馨は、実際に対戦した試合では2003年から公式戦91連勝を達成しており、63kg級の絶対王者と呼ばれるまでになっていた。千春も、2006年・2007年には全日本選手権、世界選手権ともに連覇を達成した。世界のどの選手よりも48kg級の金メダルに近い位置にいた。

だが千春は世界の選手たちのレベルが上がっていたことを感じていた。女子のレスリングが初めてオリンピックに採用された2004年アテネ大会にくらべて世界の選手層は厚くなり、個々の選手は強くなっている。

それでも千春は「二人一緒に金メダル」を思い、苦しみながら勝ち進む。準々決勝は残り数秒のところで逆転のフォール勝ち。準決勝も逆転勝利だった。決勝でも、疲れきった体で最後まであきらめずに戦った。結局、今回も千春の金メダルはならなかった。2大会連続の銀メダル。しかし、試合を終えたあとの千春は、4年前とはまったく反対の、実にすがすがしい表情をしていた。北京大会の銀メダルは、自分の全てを出しつくして勝ちとったメダルだったのだ。

表彰式で、千春は銀メダルを誇らしげに高くかかげた。

「これは私の中では金メダルです」

その言葉にまったく嘘のないことは、千春の笑顔が物語っていた。

2008年北京オリンピック、レスリング女子51kg級銀メダルの伊調千春

2008年北京オリンピック、レスリング女子51kg級銀メダルの伊調千春

一方、馨は千春が銀メダルに終わったショックで食事がのどを通らず、夜もよく眠れない状態で試合当日を迎えた。「もう戦いたくない」と言った。だが、「お前はもっともっと強くなれる」という千春や周りの説得で、馨は再びマットに戻った。

馨は初戦から苦戦を強いられた。だが、姉の分まで夢をかなえたい。それができるのは、自分しかいないと気持ちを切り替えていた。

決勝の序盤ではじん帯を痛めて劣勢に立たされ、試合は延長までもつれこむ。だが、持ち前のねばり強さが出た。

勝利が決まると、馨はマットにひざまずき、両手で顔をおおって泣いた。飛びはねて喜んだ4年前とは対照的な姿だった。

この北京大会後に、千春は引退を表明した。

長い間、お互いに支えあい、励ましあって戦い抜いてきた、同志の2人だ。
「千春がやめるなら、私も……」

一時はそう思った馨だが、レスリングにかける情熱がさめることはなかった。

2012年のロンドン大会。伊調馨は一人で日の丸のユニフォームをつけ、マットに上がった。もう同じマットに姉が立つことはない。だが、この大会の馨は、それまでのどの大会よりも強かった。相手選手のラフなプレーにも表情ひとつ変えずに圧倒的な強さで勝ち進み、3大会連続となる金メダルを獲得。日本選手としては柔道男子60kg級の野村忠宏に次いで2人目、女子選手としては初めてとなる、個人同一競技におけるオリンピック3連覇をなしとげた。

2014年11月28日、伊調姉妹を悲しみが襲う。故郷の八戸で母・トシが突然倒れ、帰らぬ人となったのだ。知らせを受けてすぐに八戸へ飛んだが、母と最後の言葉をかわすことはできなかった。

練習から離れるなんて何年ぶりだろうか。八戸の実家で母の死と向き合っている間、馨の脳裏にはさまざまな思い出がよみがえってきていた。

レスリングの知識はまるでないが、馨の子供時代から母は試合で「カオリ~」と声をかけ、手が赤くなるほど拍手してくれた。オリンピックでも毎回観客席から応援してくれた。中京女子大学付属高校に通うため愛知県に行くときは、「逃げて帰ってくるなよ。必ずチャンピオンになって帰ってくるんだよ」と見送ってくれた。

悲しみにくれながら、母の「どんな状況でも試合に出ろ!出るからには勝て!」という声が脳裏にひびいた。

伊調は練習を再開し、母の死から1カ月たらず後に開催された全日本選手権で他を圧倒し、勝利した。

32歳になり、ケガによる欠場や不調、入院などが増え、それまで盤石だった「絶対女王」ぶりにゆらぎが見えるなか迎えた2016年リオデジャネイロ大会。伊調はこの大会で、それまでの3大会では見せなかったしぐさを繰り返した。試合前、必ず上を見上げ、何かを念じてからマットの中央に進む。

「絶対金メダルをとるからね。いい試合をするからね。見ていてね」

天国の母へのメッセージだった。

1回戦は11-0のテクニカルフォール勝ち、2回戦は3-1の判定勝ち、準決勝は10-0のテクニカルフォール勝ち。数字を見れば大差だが、実際は苦しい試合だった。

そして決勝、ロシアのコブロワゾロボワとの戦いはそれまでのレスリング人生でもっとも不恰好な試合となった。

気迫あふれる表情でマットに上がった馨は、第1ピリオドで1ポイントを先制する。だが、タックルを仕掛けたところを返され、逆にバックを取られて2点を失い、逆転された。1-2とリードを許し、追う展開となる。

続く第2ピリオドでは反撃を試みるも、守る相手になかなか攻撃の形を作れない。ポイントを奪えないまま、試合時間を示すタイマーの数字が、無情にも6:00に近づいていく。このまま時間が過ぎれば、馨の負けだ。相手は髪の毛を執拗につかむなど、さまざまな手段を使って伊調の攻めを防ぐ。思うようにタックルを繰り出すことができない。

「絶対女王が、このまま何もできずに終わってしまうのか」
観客がなかば諦めかけていた終盤、タックルしてきた相手と激しく組み合う。
相手につかまれた右足を必死で引き抜くと、試合終了間際の残り4秒で、たくみにバックを取った。2点を加えて逆転。そのまま終了のホイッスルが鳴った。

劇的な、前人未到の4連覇達成。実況席も会場も絶叫につつまれた。

だが、伊調は厳しい表情をくずさない。いったんマットを降りて大きな日の丸を手渡され、両手で掲げながら再びマットに上がって歩き始めたとき、その顔にようやく大きな笑顔が広がった。

2016年リオデジャネイロオリンピック、4連覇の伊調馨

2016年リオデジャネイロオリンピック、4連覇の伊調馨

千春も会場のスタンドで、妹が達成した驚異の4連覇の瞬間を見守っていた。
「最後の最後に、ああやって逆転するのは馨らしいな」

うれしくて何度も飛びあがった千春は、スタンドの最前列に降りてきた。馨は真っ先に千春のもとへ駆け寄る。そして千春に抱き寄せられたとき、涙があふれてきた。姉とともに父と兄、そして2年前に亡くなった母・トシの遺影も、馨を見守っていた。

伊調はこの決勝を、「二度とあんな試合はしたくない」と振り返る。自己採点は100点満点中、なんと5点だ。だが、応援してくれる人々への恩返しができた充実感に、日の丸を掲げた伊調の顔は輝いていた。

リオ大会を終えた馨は、競技を離れて休養したあと本格的な練習を再開。2020年東京大会への出場、そしてオリンピック5連覇を目指したが、おしくも代表入りはならなかった。

「選手・指導者として、レスリングがより魅力ある競技として発展していけるよう、今後とも力を尽くしていきたい」

そうコメントし、これからもレスリングに関わり続ける強い覚悟をみせた伊調馨。燦然と輝く前人未踏の「オリンピック4連覇」という栄光の記録。それは、日本の、そして世界の女子レスリングをさらにレベルアップさせる、未来を照らす光だ。

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  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。