2019.06.25
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2019.06.25
その人物の名はまったく異なる二つの面から記憶されている。栄光と悲劇である。円谷幸吉の長距離走者としての生涯は、両面ともに「昭和」あるいは「戦後」という時代を象徴しているかもしれない。彼の足跡はいまも、我々にさまざまな問いを投げかけているようだ。
1964年東京オリンピックで国立競技場に帰ってきた円谷
円谷は1940年、福島県須賀川町(現在の須賀川市)で農家の七番目の子、六男として生まれた。厳格な父親のもとで育った生真面目な末っ子が、兄の影響を受けて長距離を走り始めたのは高校生の時だ。が、本人も周囲も、将来つかむことになる栄冠のことなど、毛ほども想像しなかったに違いない。
確かに持久力は持ち合わせていた。とはいえスピードはなく、地元でもさほど抜きん出た力を示していたわけではない。県大会、東北大会で健闘してインターハイに出場できたのは、ひたすら生真面目に練習を積み重ねたたまものだったと言えるだろう。そのインターハイでは5000mで予選落ちに終わっている。この時点でも、何年もたたないうちに日本のトップの一角に上りつめるとは、それにとどまらず、オリンピックに出場して活躍するようになるなどとは、周囲の誰一人として思わなかったはずだ。
だが、円谷はじわじわ、じわじわと力をつけていく。高校を出て陸上自衛隊に入り、勤務のかたわら郡山自衛隊陸上部をつくって走り続けていた時も、まだ全国的に注目される存在ではなかった。日本選手権の5000mで入賞したり、青森―東京間を走る青東駅伝で活躍したりはしたものの、将来のトップ選手候補と目されていたとはいえない。それでも、岩に爪を立てて這い上っていくように、わずかなりとも前進していく歩みを止めないのが円谷幸吉というランナーだった。
その円谷の急上昇は二つの出来事がもたらした。ひとつは、自衛隊で陸上のコーチをしていた畠野洋夫との出会い。もうひとつは、1962年に自衛隊体育学校に入校して、オリンピックを目指す特別課程の選手となったことだ。
それまでは、練習といってもひたすら走り込むだけだった。持病の腰痛もあった。強い信頼関係で結ばれた畠野のもとで、ようやくバランスのとれた専門的なトレーニングを始めたのである。すると、ひたむきな走り込みで培われたスタミナに加えてトラック選手としてのスピードも身につき、走力は驚くほど上がった。その年、早くも日本選手権で5000m、10000mの2種目で優勝する。長く我流の練習で蓄えてきた分厚い底力は、一気に花開くためのきっかけをいまかいまかと待っていたというわけだ。
ここからのレベルアップは早かった。1963年になると成長はさらに加速する。ニュージーランド遠征などの新たな経験を積むたびに飛躍し、5000mで立て続けに日本新をマークするなどして、トラック長距離の頂点へと躍り出たのである。こうして翌1964年の東京オリンピック代表の座を確実にしたところで、彼はさらに大きな飛躍を遂げる。オリンピックの年を迎えると、トラックでのスピードを買われてマラソンにも進出し、選考会の好成績でマラソンの代表をも射止めてしまったのだ。
円谷が10000mとマラソンの日本代表に決まってから、体育学校の同僚として練習パートナーを務めた宮路道雄氏は、練習で円谷を引っ張りながら、その急成長ぶりを強く実感していたという。
「ああ、ずいぶん力がついたなあ、と。(前を走っていても)伝わってくるんです。いまにもスッと追い越されそうな感じなんですね」
ペースメーカーを追い越してしまいそうな勢い。それを育んだのはこんな姿勢だったと宮路氏は指摘する。
「彼は後ろからついていくのは好きじゃなかった。レースでは、自分から積極的にいって引っ張るんですね。それで力がついたと思います」
後ろについて最後だけ前に出ようとするのではなく、最初から積極的に自分の力をぶつけていく。後続の目標になるのもいとわず、先頭に立ってぐいぐいと引っ張っていく。その真っすぐな姿勢もまた、急上昇の原動力だったということだ。
円谷による1964年東京大会陸上競技唯一の日の丸掲揚
迎えた1964年10月の東京オリンピック。円谷の活躍はあらためて記すまでもないだろう。まず10000mでは積極的なレース運びで6位入賞を果たした。当時の世界とのレベル差からして、これは快挙と評して差支えない成績だった。
そして陸上最終日、10月21日のマラソンで円谷は歴史に名を刻んだ。世界の強豪に伍しての銅メダルは、日本マラソン史上初めてのメダルであり、また、この大会での日本陸上陣唯一のメダルでもあった。日本国中からかつてない喝采が寄せられたのは、この若者が勝利のため、国のために自らの力の限りを出し尽くしたのを誰もが見てとったからだ。
まったくの無名から、ひたむきな努力と、生真面目で真っすぐな姿勢によって少しずつ、また少しずつ力をつけ、ついには頂点の一角まで到達した、その足どり。それは「時代」とぴったり歩調が合っていた。高度成長によって戦後の復興をなし遂げ、オリンピックを開くまでになった日本。そのころ人々は、その上昇はずっと続くのだと信じ、真面目に、ひたむきに努力しさえすれば必ず報われるとも信じて疑わなかった。円谷幸吉は、まさしく時代を象徴する存在だったのである。だからこそ、誰もが彼に熱烈な喝采を送ったのだ。
しかし――。国を挙げての喝采の裏側には等量の重圧があった。ヒーローとなった円谷にはすぐさま、次のメキシコオリンピックでは金メダルを取ってほしいという期待がかけられるようになった。それが取り返しのつかない悲劇を呼んだのは、メキシコ大会を翌年に控えた1967年のことである。
東京大会の後、円谷にはさまざまな心労が襲いかかった。腰痛で調子を崩し、思うように走れない毎日。レースでも結果を出せない。畠野コーチの転任により、信頼する指導者とも離れ離れになった。私生活では、進んでいた結婚話が破談になってしまった。結婚の件もコーチの件も、体育学校の新たな上層部が干渉したためと指摘されている。追いつめられた円谷は、自分の四方すべてが閉ざされたように感じたに違いない。
「絶対に弱音を吐かない。決めたことはやり通す」とは、練習パートナーであり親しい友でもあった宮路氏の円谷評だ。自分に厳しく、責任感は人一倍で、そのかたわら、周囲に気を配るのも忘れない性格だった。多くの期待にこたえられなくなり、私生活でも希望を失った彼は行き場を失い、自死を選んだ。体育学校宿舎の自室で、かみそりで頸動脈を切って亡くなっているのが発見されたのは1967年1月9日である。両親や兄弟、親戚にあてた遺書には、それぞれへの感謝の言葉だけが連ねられていた。「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の言葉に絶望の深さがにじんでいる。
日本のスポーツ史の中で最も悲しい出来事。それもまた、時代の空気を映し出すものだったかもしれない。
1964年東京大会の銅メダルをかけた円谷。生真面目な性格が表情から見てとれる
高度成長によって世界に日本の復活を示したいと、国を挙げて願っていた時代だった。そうした中では、何についても「国のため」「国を代表して」の意識が依然として強かったように思う。スポーツの世界でも、個人の思いより国の代表としての意識を優先しなければならないとする風潮が少なからずあったのではないか。
一方、高度成長時代は、上昇や前進のみが評価され、挫折や回り道はただの失敗としかみなされなかった。そこで多くの人々は、ヒーローにさらなる成功を求めた。それがどれほど困難なことかは考えもせず、ただ無邪気な残酷さで次の勝利を要求した。それを一概に非難することはできない。そういう時代だったのである。人一倍生真面目で責任感の強い自衛隊員は、不運にもそんな時代に、あまりにも対照的な栄光と挫折を味わわなければならなかったのだ。
ひたむきな努力が思わぬ高みに人間を押し上げる可能性を持っていることを、円谷幸吉の生涯は教えてくれている。と同時に、時代の空気や社会の意識が思いがけないところで思いがけない悲劇を呼ぶことも示している。それは、スポーツとは、オリンピックとはどうあるべきものなのかという問いまでをも、いまも我々に突きつけている。
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