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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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鬼塚喜八郎 裸足のアベベに靴を履かせた男

【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】

2019.04.10

アベベ・ビキラ。1964年東京大会で2位以下に4分以上の差をつけ、オリンピック2連覇をはたしたエチオピアのマラソン走者は「裸足の王者」と呼ばれた。1960年ローマ大会のマラソンコース、アッピア街道の石畳を裸足で走り抜いた。世界に与えた衝撃の大きさから、「裸足の王者」がアベベの代名詞となった。

ホテルの部屋でアベベの足にシューズを合わせる鬼塚喜八郎(1992年にアシックスがアベベの妻と娘に寄贈した写真)

ホテルの部屋でアベベの足にシューズを合わせる鬼塚喜八郎(1992年にアシックスがアベベの妻と娘に寄贈した写真)

そのアベベにシューズを履かせた男がいた。鬼塚喜八郎。世界的なスポーツ用品メーカー、アシックスの創業者である。

1961年6月15日、毎日マラソン出場のために来日したアベベの宿泊先を訪れ、鬼塚は率直に切り出した。

「あなたをサポートしてシューズをご提供するためにおうかがいしました。このシューズを履いてぜひ優勝してください」

しかし、アベベはやんわりと拒否した。

「裸足で走って、何度も優勝してきました。シューズは必要ありません」

アベベはシューズを履いたことがないわけではなかった。ローマ大会の前も、シューズを履いて練習したことがあった。しかし、10kmほど走ると足が痛んでペースが落ちた。そこで、コーチのオンニ・ニスカネンと相談して裸足で走ったのだった。

断られたが、鬼塚はねばる。いまほど整備されていない日本の道路事情を話し、「危険だ」とも言った。アベベはそれでも裸足にこだわったが、ニスカネンが間に入って履いてみることになった。ニスカネンは裸足に限界を感じ、ひそかにシューズ導入を検討していたのだ。

鬼塚は「白いオニツカタイガー」をアベベの足に合わせた。オニツカタイガーとは、鬼塚創設のシューズのブランドである。

アベベはそのシューズを履いて毎日マラソンを制したと、参考にした文献にあった。私もそうなのだろうと思っていた。しかし、「オニツカタイガー」を前身とするアシックス広報部によれば、アベベは残念ながら毎日マラソンで鬼塚のシューズを履いていないという。正確を期すために調査した結果、2008年、「履いていない」と社内的に結論付けたのである。

1964年東京大会のマラソンでプーマ製のシューズを履いて走るアベベ

1964年東京大会のマラソンでプーマ製のシューズを履いて走るアベベ

 アベベは1964年東京大会でも鬼塚のシューズは履いていない。履いたのはプーマ製だ。当時はアマチュア規定が厳しく、金品の授受など論外だった。鬼塚自身も「良いものを提供すれば選手が使ってくれる」と考えていたふしがある。だが、世界はすでに契約社会となっていた。プーマはアベベに高額な金額を提示し、東京大会での自社製シューズ使用を契約していたのである。世界的な企業であるプーマと、ようやくナショナルブランドとなりかけの「オニツカタイガー」の企業力の差であった。ただ鬼塚の名誉のために言えば、熱心にアベベに靴を履かせようとした事実は覆ることはない。

鬼塚喜八郎は1918(大正7)年5月29日、鳥取県気高郡明治村(いまの鳥取市松上)に父坂口伝太郎、母かめの3男2女の末っ子として生まれた。坂口家は一帯の地主で、長兄の伝三郎は明治村村長となった家系である。

県立鳥取一中(いまの県立鳥取西高)を卒業した坂口喜八郎は姫路の陸軍第十師団に入隊し、同い年の上田皓俊中尉と知り合い親友となった。陸軍士官学校出身の上田は中隊長、喜八郎は少尉となって小隊長を務めていた。戦線が拡大するなか、連隊はビルマ(いまのミャンマー)戦線に派遣されることになった。

出陣3日前、連隊長に呼び出された喜八郎は、事情通だからと「残留」を命じられた。次期連隊長の副官となるためだ。
別れのおり、上田から「自分が戻るまで」と、神戸に住む鬼塚清市、福弥夫妻の面倒をみてくれと頼まれた。このことが喜八郎の運命を変えた。 聞けば、老夫婦には子どもがなく、上田が面倒をみると約束していた。

「わかった、俺に任せろ」と答えた。やがて、終戦を迎え鳥取に戻っていた喜八郎のもとに手紙が届いた。「その日の食べるものに事欠く」と助けを求める鬼塚夫妻からだった。

神戸に向かったのは喜八郎の「人を思いやる」「約束を守る」性質だ。「固く約束しておきながら見殺しにしたら、男として立つ瀬がない……」と後に回想している。

赤の他人だった鬼塚夫妻の借家の2階に同居し、生活を支えた。上田の戦死の報が届くと、なんと夫妻の願いを受け入れて養子になるのである。もちろん実の両親や兄たちは反対し、喜八郎自身も悩む。しかし、老夫婦を見捨てることはできなかった。

鬼塚喜八郎は3年間、西井商事という会社で働いた。会社とは名ばかり、戦後の"落とし物"である「ヤミ屋」に毛が生えた仕事でしかなかった。退職し、戦友だった堀公平を訪ねた。堀は兵庫県教育委員会の体育保健課長をしている。鬼塚は「社会のために役に立つ」事業を考えていた。「ヤミ市でみた非行化していく少年少女に誇りと生きる希望を与えたい」という思いへの、ヒントをもらうための訪問だった。

堀は重要な言葉を鬼塚に語った。

「『健全なる身体に健全なる精神が宿る』という格言を知っているだろう。人間教育は知識だけではない。徳育、体育、そして知育の3つが総合して完成する。とくに成長期では、スポーツが心身の発達に及ぼす影響は大きい」

スポーツの効用を語る堀に、鬼塚は尋ねる。「では、人生をスポーツに捧げ、貢献できるとして、どんな道があるか」。

少し考えて、堀は述べた。「運動靴を作ってみたらどうか。ほとんどのスポーツをする子どもが靴を欲している。彼らに運動靴を履かせてみないか」。

1949(昭和24)年3月、30歳の鬼塚は自宅に兵庫県内の学校や官公庁に教材や備品を納入する配給問屋、鬼塚商会を創設した。同時に、堀から紹介された長田区の靴メーカー、矢仲ゴム工業に通う。靴づくりを一から学ぶためだ。金型や木型のこと、材料の裁断からミシンのかけ方、靴底のゴムの種類など、ほぼ1年かけて工程を学んだ。

始まりはバスケットボールシューズ。「一番難しい」と言われたから挑戦した。

兵庫県バスケットボール協会理事長の松本幸雄が指導する県立神戸高校に通い、ボール拾いをしながら選手の足もとを探った。選手の動きとシューズの様子を目でみて、選手から反応を聞いては試作品をつくる。履いてもらって感想を聞き、また試作する。課題は、バスケットボールに重要な急停止、急発進ができる「グリップ性」だった。

ある日、夕食のキュウリの酢のものに吸盤を上に向けたタコの足が入っていた。「これだ、これなら床に吸い付く」。さっそく工場で試行錯誤、吸盤型シューズを完成させて神戸高校に乗り込んだ。

確かに急停止はできた。ところが、グリップが効き過ぎて勢いにのった選手たちはみんな転倒。「これではネンザしてしまう」と松本に叱られた。

吸盤の底を浅く、ほどよく止まるバッシュを開発すると、好評だった。だが、また難題が起きた。30秒ルールの導入である。クイックターンなどの早い動きに対応すべく、また工夫を重ねる。

今度は乗っていたタクシーのアクシデントがヒントになった。急に横道から子どもが飛び出し、運転手があわてて急ブレーキを踏む。鬼塚は前の座席に思いっきり頭を打ち付けた。そのとき、タイヤのきしむ音に頭が反応した。

「あの音はなんだ。自動車のストップの原理はどうなんだ?」

運転手から「東京の晴海で自動車ショーをやっているから、行ってみればいい」と聞いて、さっそく上京した。いろいろなタイヤを見るためにだ。

そこで知ったのが「煉瓦積みブロックの原理」である。自動車のタイヤは、摩擦抵抗で発生する熱を放射しやすいように煉瓦を積んだような構造になっていて、急な動きに対応している。その「煉瓦積みブロック」をシューズに応用するのだ。

試作品を手に神戸高校に急ぐと、松本が絶賛してくれた。「ほんとうにいいものができた。ぜひ普及させてほしい」。

「オニツカタイガー」ブランドのバスケットボールシューズが全国シェアの50%を超え、社業が安定したころ、次のターゲットを「マラソン」に定めた。

現場主義の鬼塚がマラソン大会をまわってみると、選手たちが足のマメに悩んでいることに気づかされた。

「マメのできない靴をつくる」

公言して製作にかかった。材料を探し、裁断を工夫し、中敷きを考えたりしたが、思った通りのシューズはできない。あきらめかけたころ、長風呂してあがった足の裏がふやけてシワができていたことに気がついた。

「そうか、マメができるのは靴じゃなく、足なんだ」

大阪大学医学部の水野祥太郎教授をから、マメができるのは「簡単にいえば火傷の原理だ」と教わった。人間には自己防衛の機能があり、火傷をするとリンパ液が集まって炎症を治そうと水泡をつくる。マメは火傷を治すための水泡と同じ役割なのだという。

となれば、火傷しない靴をつくればマメはできにくくなる。熱を逃し、靴の中の温度上昇を抑えればいい。靴のつま先や両側に小さな穴をあけ、ベロをなくして全開にした「マジックランナー」の誕生だった。余談ながら、このシューズを履いた寺沢徹が1963年別府大分毎日マラソンでアベベの記録を破る世界最高記録をマークし、君原健二は1968年メキシコシティー大会の銀メダルに輝くのである。

アベベこそ取り逃したが、鬼塚は1964年東京大会で初めて選手村にサービスショップを出し、各種競技シューズを展示。日本人選手だけではなく、外国人選手の相談にも応じ、ときにシューズを無料提供した。破格の資金をかけた結果、「オニツカタイガー」のシューズを履いた選手たちは金メダル18個、銀16個、銅10個のメダルを獲得。愛用者を増やし、国際的なメーカーへと育っていくのである。

1992年バルセロナ大会の選手村内に設置されたアシックスのサービスブース

1992年バルセロナ大会の選手村内に設置されたアシックスのサービスブース

1977(昭和52)年7月21日、大阪に本拠を置くスポーツウエアメーカー、「ジィティオ」「ジェレンク」と合併し、「アシックス」として新会社を発足、鬼塚が社長となった。社名は堀から聞き、会社創業の理念とした『健全なる身体に健全なる精神が宿る』というラテン語「Mens sana in corpore sano」の「Mens」をより躍動的な「Anima」に置き換え、その頭文字から「A・S・I・C・S(アシックス)」としたのである。

鬼塚喜八郎は2007(平成19)年9月29日、89歳の人生に幕を下ろしたが、遺伝子を持つ後継者たちはいまも意志を引き継ぎ、日々新たな挑戦を続けている。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。