2017.02.10
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2017.02.10
かつて国立霞ヶ丘競技場にはピッチを見守るように4mもの大きさの2体の
国立霞ヶ丘競技場の上部に飾られていた「勝利(野見宿禰)」と「栄光(勝利の女神ニケ)」
男の名は
相撲は角力とも書き、記紀の時代から力くらべとして行われ、
神事として行われる蹴鞠
最初の項(1. スポーツとは何か)で、日本にはスポーツの
行事といえば宮中で行われた
ヨーロッパでのスポーツが狩猟やボール遊びから始まった起源と似ている。行事はやがて武士階級の武芸と民衆の遊戯に分かれるが、“スポーツ”の発達段階が類似していることに気づかされる。
勇壮な流鏑馬
武士は武芸によって天皇、将軍などに使えた。心身を鍛えるものとして発達したのが武芸である。
民衆は石合戦や相撲、水泳、鬼ごっこや手まり、羽根突き、たこ揚げ、綱引きなどに
だとすれば「スポーツを楽しむ感覚がなかった」と記すことは誤りかもしれない。あるいはそうした観点は、明治期の近代スポーツの受け入れに端を発しているのかもしれない。
いまも続く近代スポーツを日本にもたらしたのは、明治政府に招かれた「お抱え外国人教師」たちである。彼らは明治政府に招かれて語学や欧米の学問を教えるかたわら、生活様式をも日本に持ち込んだ。そのひとつが余暇の活用であり、趣味としてのスポーツだった。
英国人、フレデリック・ウイリアム・ストレンジが東京英語学校(現・東京大学)に教師として着任したのは、1875(明治8)年である。英語を教えながら、学生たちに英国流のスポーツも教えた。パブリックスクールの名門イートン校で学んだジェントルマンとしてボートのほか水泳、クリケット、フットボール、陸上競技にマルチな才能を発揮。1883(明治16)年には東京大学で日本初の陸上競技大会を開催している。
ストレンジの教えは、東京大学をはじめとする日本の高等教育機関に伝わっていく。彼は指導にあたり「スポーツにとって重要なことは勝敗ではなく、全力をつくすこと。スポーツの
彼は日本で亡くなり、青山墓地で永遠の眠りについた。墓碑には「日本の近代スポーツの父」と刻まれている。ただ、その後の日本スポーツ界の潮流は、彼の教えである「スポーツマンシップ」よりも、「アマチュアリズム」に比重が置かれていった。なんとも残念である。
明治初期の日本は、先に記した通り軍隊と学校をゆりかごとして育った。軍隊では身体活動を通して精神を磨く武士道精神が重んじられ、学校とりわけ高等教育機関はエリートを育む場として、スポーツを「楽しみ」よりも「鍛錬」と結びつけた。高みに立つ「アマチュア」という考え方は受け入れやすかったと思う。
ベースボールを「野球」と訳した中馬庚
1874年、体育が正式教科となる。陸上競技、体操に重きが置かれたという。ここでもお
ちなみに東京高等師範学校(現・筑波大学)初代校長が嘉納で、彼は柔術各流の長所を集めて柔道として集大成、1882年に下谷北稲荷町の
嘉納は、1909(明治42)年にアジア人初の国際オリンピック委員会(IOC)委員、1911年には大日本体育協会(現・日本体育協会、日本オリンピック委員会)を創設して初代会長に就く。日本のスポーツリーダーとしての働きは別項に譲る。
また、当時の思想をリードした慶応義塾の創始者、
慶応こそ「遊び」の要素を教育に取り入れた始まりのようだが、このころの日本スポーツにはしかし、遊びの要素は感じられない。それは今日、「みる」スポーツの“王者”として発展してきた野球も同様である。
ベースボールの起源は諸説あるが、1845年にニューヨーク在住のアレクサンダー・カートライトが現行のゲームの原型を考案、翌年、ニュージャージー州ホーボーケンで試合をしたのが最初だとされる。日本には1872(明治5)年ごろ、大学南校(後の東京大学)英語教師、ホーレス・ウイルソンによって伝えられた。彼もまた「お雇い外国人」である。4年間の在職中に神田一ツ橋にあった第1大学区第1番中学(後の第一高等学校=一高、その後東京大学)で生徒に伝授した。神田の日本学士会館に「日本野球発祥の碑」が残る。
松山市にある正岡子規像。野球のユニフォームを着てバットを持っている
野球もまた他のスポーツと同様、高等教育機関をゆりかごに成長していった。とりわけ英国のパブリックスクールにならい1894(明治27)年に設置された旧制高等学校、なかでも一高が日本における野球のルーツ校である。精神を重視した一高野球は人材の社会的な立場とともに広まっていく。旧制高校では文武両道に秀でた人材の輩出を目的にスポーツにも力をいれた教育が行われたが、結局「人格形成」を重視するあまり、「楽しさ」は排除されていったのではないだろうか。
それでも、一高出身の東大生・