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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

5. 日本にスポーツはなかったのか…

【スポーツの歴史を知る スポーツとは】

2017.02.10

かつて国立霞ヶ丘競技場にはピッチを見守るように4mもの大きさの2体の彫像ちょうぞうが飾られていた。1体は美を象徴する「栄光」と題されたギリシャの女神像、もう1体は「勝利」という名の力強い男の立像である。

 国立霞ヶ丘競技場の上部に飾られていた「勝利(野見宿禰)」
国立霞ヶ丘競技場の上部に飾られていた「栄光(勝利の女神ニケ)」

国立霞ヶ丘競技場の上部に飾られていた「勝利(野見宿禰)」と「栄光(勝利の女神ニケ)」

男の名は野見宿禰のみのすくね。『日本書紀』によれば、垂仁すいにん天皇の命で当麻蹴速たいまのけはやと闘い、双方蹴り合いのすえに蹴速の腰を踏み折って勝利したという。この故事をもって相撲の起源とされ、両者は相撲の始祖しそとなっている。柔道でも起源とされており、打撃を主にした格闘技のようなものであったか。

相撲は角力とも書き、記紀の時代から力くらべとして行われ、埴輪はにわも残っている。そうした武芸、力くらべの半面、奈良、平安時代には神事あるいは宮廷行事になった。東西に分かれた力士が闘う姿は今も大相撲に残り、土俵入りや弓取り式など神事としての名残もある。ただ、これをスポーツと呼べるのかというと、さてどうだろう。

神事として行われる蹴鞠

神事として行われる蹴鞠

最初の項(1. スポーツとは何か)で、日本にはスポーツの概念がいねんにある「楽しむ」要素はなかったと記した。しかし民間に伝わる行事、神事はどうなのか。豊作や豊漁を占う力くらべや綱引きなど、民衆の間に広く「楽しみ」として受け入れられていたように思う。もっとも、それはスポーツという概念ではくくれるものでもないが…。

行事といえば宮中で行われた射礼じゃらい競射きょうしゃは弓の元であり、相撲、さらに競馬、打球とよぶポロのような遊戯あるいは神事も行われていた。蹴鞠けまりたか狩りなども人気があった。蹴鞠は17m四方の鞠場まりばの中心に4本の木(柳、桜、かえで、松)を植え、4人の男が立って鞠を蹴り合う。枝にかかって動きが変わるところで技を競うのである。

ヨーロッパでのスポーツが狩猟やボール遊びから始まった起源と似ている。行事はやがて武士階級の武芸と民衆の遊戯に分かれるが、“スポーツ”の発達段階が類似していることに気づかされる。

勇壮な流鏑馬

勇壮な流鏑馬

武士は武芸によって天皇、将軍などに使えた。心身を鍛えるものとして発達したのが武芸である。流鏑馬やぶさめ笠懸かさがけ犬追物いぬおうもの牛追物うしおうものは騎馬での的あてであり、巻き狩りや鷹狩りは狩猟。弓矢、剣、やり、棒など道具を使った武術、また柔術や相撲は格闘技として身につけるべき武芸だった。さらに水泳では甲冑かっちゅうをまとった泳法などが発達。これら武芸には師範しはんが現われ、流儀・流派も形成された。

民衆は石合戦や相撲、水泳、鬼ごっこや手まり、羽根突き、たこ揚げ、綱引きなどにきょうじた。「楽しみ」「遊び」としての根づきである。12世紀、後白河法皇ごしらかわほうおうが編んだ歌謡集『梁塵秘抄りょうじんひしょう』は「遊びをせんとや生まれけむ たわむれせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動がるれ」とうたう。遊びが暮らしのなかで大きなポジションを占めていたことがうかがい知れよう。

だとすれば「スポーツを楽しむ感覚がなかった」と記すことは誤りかもしれない。あるいはそうした観点は、明治期の近代スポーツの受け入れに端を発しているのかもしれない。

いまも続く近代スポーツを日本にもたらしたのは、明治政府に招かれた「お抱え外国人教師」たちである。彼らは明治政府に招かれて語学や欧米の学問を教えるかたわら、生活様式をも日本に持ち込んだ。そのひとつが余暇の活用であり、趣味としてのスポーツだった。

英国人、フレデリック・ウイリアム・ストレンジが東京英語学校(現・東京大学)に教師として着任したのは、1875(明治8)年である。英語を教えながら、学生たちに英国流のスポーツも教えた。パブリックスクールの名門イートン校で学んだジェントルマンとしてボートのほか水泳、クリケット、フットボール、陸上競技にマルチな才能を発揮。1883(明治16)年には東京大学で日本初の陸上競技大会を開催している。

ストレンジの教えは、東京大学をはじめとする日本の高等教育機関に伝わっていく。彼は指導にあたり「スポーツにとって重要なことは勝敗ではなく、全力をつくすこと。スポーツの奥義おうぎは心身の鍛錬たんれんにある」と説いた。いうまでもなくイートン校で学んだ英国流のスポーツ精神である。

彼は日本で亡くなり、青山墓地で永遠の眠りについた。墓碑には「日本の近代スポーツの父」と刻まれている。ただ、その後の日本スポーツ界の潮流は、彼の教えである「スポーツマンシップ」よりも、「アマチュアリズム」に比重が置かれていった。なんとも残念である。

明治初期の日本は、先に記した通り軍隊と学校をゆりかごとして育った。軍隊では身体活動を通して精神を磨く武士道精神が重んじられ、学校とりわけ高等教育機関はエリートを育む場として、スポーツを「楽しみ」よりも「鍛錬」と結びつけた。高みに立つ「アマチュア」という考え方は受け入れやすかったと思う。

ベースボールを「野球」と訳した中馬庚

ベースボールを「野球」と訳した中馬庚

1874年、体育が正式教科となる。陸上競技、体操に重きが置かれたという。ここでもおやとい外国人教師が活躍し、1878年に文部省直轄機関として体操伝習所でんしゅうしょが設立された。神田一ツ橋に設置された伝習所には、近くで道場を開く嘉納治五郎かのうじごろうも見学したとの記録がある。

ちなみに東京高等師範学校(現・筑波大学)初代校長が嘉納で、彼は柔術各流の長所を集めて柔道として集大成、1882年に下谷北稲荷町の永昌寺えいしょうじに12畳敷の道場を開く。これが講道館こうどうかんの始まりである。講道館では勝負法(武術)練体法(体育)修心法(智徳の修養と柔道の原理を実生活に応用)の三部が説かれた。単なる道場ではなかったことに留意しておきたい。

嘉納は、1909(明治42)年にアジア人初の国際オリンピック委員会(IOC)委員、1911年には大日本体育協会(現・日本体育協会、日本オリンピック委員会)を創設して初代会長に就く。日本のスポーツリーダーとしての働きは別項に譲る。

また、当時の思想をリードした慶応義塾の創始者、福沢諭吉ふくざわゆきちは海外見聞録『西洋事情』で運動場設備に言及している。慶応義塾は1868(明治元)年から4年まで芝新銀座にあった頃、「中庭を運動場として、ブランコを造って盛んに運動をさせたが、明治4年、三田に移るに及んではブランコ、鉄棒、シーソーなどを造って生徒の随意運動に備えた」という。

慶応こそ「遊び」の要素を教育に取り入れた始まりのようだが、このころの日本スポーツにはしかし、遊びの要素は感じられない。それは今日、「みる」スポーツの“王者”として発展してきた野球も同様である。

ベースボールの起源は諸説あるが、1845年にニューヨーク在住のアレクサンダー・カートライトが現行のゲームの原型を考案、翌年、ニュージャージー州ホーボーケンで試合をしたのが最初だとされる。日本には1872(明治5)年ごろ、大学南校(後の東京大学)英語教師、ホーレス・ウイルソンによって伝えられた。彼もまた「お雇い外国人」である。4年間の在職中に神田一ツ橋にあった第1大学区第1番中学(後の第一高等学校=一高、その後東京大学)で生徒に伝授した。神田の日本学士会館に「日本野球発祥の碑」が残る。

松山市にある正岡子規像。野球のユニフォームを着てバットを持っている

松山市にある正岡子規像。野球のユニフォームを着てバットを持っている

野球もまた他のスポーツと同様、高等教育機関をゆりかごに成長していった。とりわけ英国のパブリックスクールにならい1894(明治27)年に設置された旧制高等学校、なかでも一高が日本における野球のルーツ校である。精神を重視した一高野球は人材の社会的な立場とともに広まっていく。旧制高校では文武両道に秀でた人材の輩出を目的にスポーツにも力をいれた教育が行われたが、結局「人格形成」を重視するあまり、「楽しさ」は排除されていったのではないだろうか。

それでも、一高出身の東大生・中馬庚ちゅうまんかのえがベースボールを「野球」と訳したり、同じく正岡子規まさおかしきが日本初の野球コラム『松蘿玉液しょうらぎょくえき』を日刊紙に連載、野球のルール、用具、方法などを解説するとともに、野球を題材にした短歌、俳句などを発表したことは特筆したい。同時に、同じ明治初期に相次いで創刊した新聞が野球をはじめとするスポーツ振興の推進役となったことも覚えておきたい。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。