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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

4. 近代スポーツを生んだ英国の階級文化
ス​ポ​ー​ツ​の​始​ま​り

【スポーツの歴史を知る スポーツとは】

2017.02.10

2012年夏季オリンピックがロンドンに決まったとき、「近代スポーツの母国への回帰」が語られた。前項で取り上げたサッカーをはじめ、そこから派生したラグビー、陸上競技、ボート、テニスなど、今日、世界中で行われている「あらゆる」スポーツが19世紀後半までに英国で誕生し、成長している。

中世までの「遊戯」から、近代の「スポーツ」へ、その変化をもとめるとしたら、ルールの成立と組織の整備があげられよう。つまり、社会化することで「娯楽」「気晴らし」が「真面目な遊び」に変わっていく。それが英国で起きたわけに触れてみたい。

娯楽性からの変化の背景で、17世紀中期に起きた清教徒革命が大きな役割を果たす。1618年、英国王ジェームズI世は『ブック・オブ・スポーツ』(遊戯教書)と呼ばれる布告を出し「罪のないスポーツ」への「妨害」「抑圧」を禁じた。ピューリタン(清教徒)たちは、民衆のスポーツ(娯楽)である競走や格闘技、フットボールのような身体活動を、「ふしだら」で「粗野そや」なものと認識した。そして、飲酒やけ事、動物いじめや男女間の不純な交遊などと同じように、禁止しようと試みた。教書はそれへの抵抗でもあった。

やがて、清教徒革命によって成立した共和制は行き詰まり、王政復古おうせいふっことなる。スポーツへの抑圧は勢いを失い、伝統的な娯楽が復活する。一方、18世紀末からの産業革命で次第に成長してきた都市型市民の感性は、「粗野」な側面を嫌い節制や秩序を重んじるようになっていく。ピューリタン世界への回帰というより、都市市民の成長と農村の解体、社会との関わりの変化によるものであろう。

1835年には民衆の祭り、娯楽で公然と行われてきた「動物いじめ(例えば豚を的にした射撃など)」を禁じる法律ができ、同年制定の「公道法」はフットボールなどのゲームで通行に支障を与えた場合、罰金を科すことが定められた。また、なぐり合いはグラブをつけて行うボクシングに変化していった。

19世紀はスポーツ史に革命を起こした世紀といえよう。その担い手がパブリックスクールの生徒とオックスフォード、ケンブリッジ両大学の学生、OBである。彼らの多くは英国の支配階層ジェントリー出身者だった。

イギリスのパブリックスクールの1つ、ラグビー競技を生み出した「ラグビー校」

イギリスのパブリックスクールの1つ、ラグビー競技を生み出した「ラグビー校」

ジェントリーとは古くは各地の大地主、所領の経営だけではなく行政、司法をも担う荘園領主しょうえんりょうしゅであった。領民が分をわきまえれば恩恵を施し、娯楽をも後援した。それが都市との二重生活を経て生活圏を移していく。一方で彼らは、子弟を郊外にある寄宿舎制のパブリックスクールに入れ、ジェントルマンとなるための教育を施そうとした。

パブリックスクールでは古典・人文学を中心に支配階層としての教養を教えた。そこに19世紀初め、身体活動を通じた精神と肉体の鍛錬が加えられ、重要なポジションを占めていく。勤勉、節制、忍耐などが重視された学校生活のなかで、無秩序だった身体活動にルールが形成されていくのは自然だろう。

例えば、前項でも取り上げたフットボールの村と村との対抗戦ではゴールの位置だけが決められ、何キロもの広い地域で行われた。審判もいない状況下、暴力行為や破壊活動が頻繁ひんぱんに起き、ピューリタンが白眼視はくがんしするのも無理ないありさまとなっていた。

パブリックスクールでは限られた校庭で活動しなければならない。自然、エンドラインとサイドラインが生まれ、ゴール間の距離も定まる。ラフプレーも禁止されるようになる。安全性を高めるため、してはならないことが定められた。「ルール化の発見、発明」といってもいい。

彼らは1863年のサッカーの組織化を指導、その後、次々と各スポーツのルール形成と国内統一組織化を手がけていく。主だった組織の成立をあげておこう。1857年登山、1866年陸上競技、1869年水泳、1871年ラグビー、1875年ヨット、1878年自転車、1879年スケート、ボート、1884年ボクシング、1886年ホッケー、1888年テニス、1895年バドミントン、1898年フェンシングと、ほぼ19世紀末までに近代スポーツが組織化されている。

ちなみに、パブリックスクールでは、「自治」の名のもと生徒は放任状態に置かれていた。このため、周辺住民とのトラブルも絶えず、18世紀初め、ラグビー校校長に赴任したトマス・アーノルドが変革に乗り出した。勤勉、節制、忍耐を重んじた教育である。ただ、彼は運動を教育に用いる意志はなかったとされる。運動の導入は彼の弟子たちで、活動は「アスレティシズム」と呼ばれた。

アスレティシズムでは個人よりも集団スポーツに重きが置かれ、クリケットやフットボール、ボートなどが有効であるとされた。集団スポーツによる忍耐や克己心こっきしん、協調心を養うとともに、スポーツマンシップや自己犠牲精神、集団への忠誠心などは大英帝国の植民地政策、統治策に結びつく。ここは否定的にとらえるよりスポーツの広がりを思いたい。

クリケットの試合風景

クリケットの試合風景

この頃までに産業革命で力を得た新興しんこうブルジョア層(中産階級)の子弟の入学も増え、ジェントルマン教育は英国支配階層の思想、肉体的な背景を形成する。1850年代のベストセラー、トマス・ヒューズ著『トム・ブラウンの学校生活』はその学校生活を描いた作品である。

他方、産業革命により労働者階級もスポーツと縁をもち、「プロ・アマ」問題が発生する。ストレートにいえば、アマチュアとはジェントルマン階級、プロフェッショナルは労働者階級を指す。プロはあくまでもアマチュアの奉公人であり、同じピッチ上でプレーしていても「スポーツマン」とはみなされず、競技場の出入り口や更衣室、食事の場も差別されていた。ジェントルマンはスポーツに加え、ダンスや演劇活動など多方面で楽しみを享受する人たちであり、プロのように一芸に秀でる必要はない。一方で同じ舞台に労働者階級が上ることを好まず、出場資格に「アマチュアに限る」と条件もつけた。それは、1839年の英国の格式あるボートレース、ヘンレー・レガッタが始めとされ、スポーツ界に派生していく。単にスポーツから労働による対価を得るかどうかではなく、英国の“階級文化”の象徴といっていい。

1890年代のヘンレー・レガッタ参加者たち

1890年代のヘンレー・レガッタ参加者たち

近代オリンピックは1894年、パリで開いた国際スポーツ会議で復興が採択されるのだが、このときから「アマチュア」はオリンピックの創始者ピエール・ド・クーベルタンを悩まし続ける“悩みの種”であった。

ちなみにフランス人であるクーベルタンはオリンピック復興を提唱する以前、英国に渡り、パブリックスクールのスポーツ教育を視察している。スポーツの競技性とともに教育効果、とりわけ人間形成のための教育効果に着目し、英国でのスポーツ教育を土台として世界平和の意味合いを込めて近代オリンピックを創始するのである。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。