Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

3. サッカーの起源と伝播

【スポーツの歴史を知る スポーツとは】

2017.02.10

世界で最も盛んなスポーツは?と問われたら、サッカーと答える人が少なくないはずだ。国際サッカー連盟(FIFA)加盟の国・地域は208を数え、国際オリンピック委員会(IOC)加盟の205カ国・地域をうわまわる。むろん、国際連合加盟国数よりも多い。

しかし、答えはバスケットボールである。バスケ約4億5000万人に対し、約2億6000万人と引き離されてサッカーは2位。4年に1度のFIFAワールドカップの盛り上がりが、サッカー人気を印象づけているのだろう。

ボールひとつあれば、ゲームができる。ルールを定めた競技規則は17項目。それも7つは競技場等の規則で、プレーにおけるルールは10項目と、極めてわかりやすい。

サッカーのリフティングのように見える、紀元前4世紀頃のギリシャのレリーフ

サッカーのリフティングのように見える、紀元前4世紀頃のギリシャのレリーフ

複雑な競技ではないから、きっと起源は古いだろう。確かに古代エジプトや古代ギリシャ、古代ローマの遺跡から、足で丸いボール状の物体を蹴る仕草のレリーフが発見されている。また、南米のインダス文明やメキシコのマヤ文明の遺構からも、ボールを足で扱っている壁画などが見つかっている。

世界4大文明の1つ古代メソポタミアでは、馬に乗った男たちが球体を棒で打ち合い、奪い、抱えて目的地に運ぶ遊びがあったという。いや、これにより、勝者が王の娘をめとったとされる。遊びではなく闘争である。しかも、ひとりが勝者となるのだからサッカーとはいえない。

ポロのようであり、サッカーやラグビーにも似たこの身体活動は古代ローマを経てヨーロッパに流布していく。

一方、東方の中国にも伝えられ、球体を蹴り合う「蹴鞠けまり」になったとされる。紀元前1世紀の前漢時代にまれた『戦国策』に蹴鞠の記載があり、今日、FIFAがホームページで「サッカーの最も古い形態」と認めている。

中国・宋の時代の蹴鞠

中国・宋の時代の蹴鞠

それがほんとうにサッカーの起源といえるのか、疑問を持つ人も少なくない。
サッカーの起源については諸説ある。FIFAの蹴鞠容認以前、中世のイングランドを起源とするのが定説であった。

8世紀頃のイングランドでは、戦争に勝利すると敵の将軍の首を切り取って蹴りあい、勝利を祝ったという。それが大衆の間に広まり、王の首に見立てた球体を蹴って決められた地点まで運ぶ「遊び、祭り」となった。村どうしの“対抗戦”となる場合が多く、しかし参加人数も手の使用制限も、場所もさまざまでルールなどない状態であったという。

17世紀のカルチョ

17世紀のカルチョ

また、8世紀以前のイタリアには、宮廷の門でボールを蹴りあい金を賭ける遊びがあった。「カルチョ」と呼ばれ、数名の男が球を蹴り合い格闘技の要素もあった。メソポタミアから伝えられた遊びである。イタリアでは現在もサッカーを「カルチョ」と呼ぶが、少なくともイタリアにおける起源であろう。
11世紀から12世紀のフランスには「ラ・シュール」と呼ばれる球体を蹴り合うサッカー、ラグビー、ホッケーに似た遊びがあった。復活祭やクリスマスに階級を超えて行われ、けが人もでる激しい活動であった。

中世イングランドで行われていた危険な競技「モブ・フットボール」

中世イングランドで行われていた危険な競技「モブ・フットボール」

ラ・シュールが英国に渡り、その後、オックスフォードやケンブリッジなどの名門大学に進むためのエリートを養成するパブリックスクールでルールが工夫、改良されていき、フェアアプレーやチームワークなどを学ぶ側面も加味され、近代スポーツに開花する。

こうしたサッカーの前身ともいうべき遊戯が発展していく中世ヨーロッパは、政治・軍事をしきる騎士、農民、商人、都市生活者など身分が固定された封建社会でもあった。階級社会のなかでスポーツは、階級による発達を遂げながら、しかし、異なった社会間の交流の場ともなっていった。

貴族の子弟は騎士となるための厳しい教育をうけ、水泳、競走、跳躍、乗馬、剣術、馬上のヤリ試合と格闘、射撃(狩猟)、登攀とうはんなどを実践、宮廷作法も身につけなければならなかった。気品と教養に加えて身体活動の優秀さも重要視され、運動においても家庭教師のような指南役が存在した。騎士道と武士道、中世に勃興ぼっこうした日本の武士世界と相通じる。

農民の身体活動は農業生産をさまたげない限り、領主はそれを認めた。即興的で組織されていない遊戯と、騎士階級の各種活動を模倣もほうした身体活動が行われ、ダンスや徒競走、跳躍、格闘技、馬上競技(競馬)、サッカーに似た球戯などの大会が、主にキリスト教の農業祭として催された。村落が活動の単位だった。

中世の都市は商人、手工業者、金融業者などで構成された共同体で、自治、自決、自衛の意識が高かったという。とりわけ自衛の必要性から身体訓練が流布し、フェンシングやレスリング、射撃などがもてはやされ、ダンスや球戯が楽しみとして取り入れられた。

やがて、貨幣経済の発展は農村から都市への人口流入を招き、いきいきとした都市型スポーツとなっていく。それらは、民衆のスポーツへの希求ききゅうという面に支えられて成長し、近代スポーツの温床となるのである。

スポーツ歴史の検証

関連記事

  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。