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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

フィギュアスケート・ジャンプの魅力の正体は?

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.10.12

 フィギュアスケートに、もしジャンプやスピン、スパイラルやステップシークエンスなどの要素(エレメンツ)がなかったら、それははっきり言って楽しくない。だが、かつてそうした種目があった。コンパルソリーフィギュア(規定演技)とよばれるもので、滑走して氷上に図形を描き、その正確性を競うのである。音楽はなく、選手の衣装も地味だ。技術だけが評価の対象であり、スポーツ観戦に求められるハラハラ、ドキドキがないため、あまり人気がなかった。オリンピックでは1988年カルガリー冬季大会まで実施されていたが、その後シングルでは行われなくなった。観戦者にとってのフィギュアスケートの醍醐味は、音楽に合わせて華麗に舞い、リズミカルに躍動する、美しくもテクニカルなパフォーマンスにこそある。人々はその各場面でスケーターの躍動美に惹きつけられるのだが、なかでも注目を集めているのがジャンプだ。

回転はどこまで目で捉えることができる?

 フィギュアスケートのジャンプの滞空時間は0.7秒あるいは2/3秒といわれる。その間に多くのトップ選手は3〜4回転する。最近では米国のイリア・マリニンが世界で初めて4回転アクセル(4回転半)を成功させた。前向きに踏み切って後ろ向きに降りるアクセルジャンプは、6種類あるジャンプの中で最も難しい。そして人間にとって5回転ジャンプは不可能なのではないかという予測から、4回転アクセルを「最後のジャンプ」とよぶ人もいる。

 しかし、何の予備知識もなくいきなりそのジャンプを見た一般の観客が「4回転半跳んでいる」と認識できるだろうか。あらかじめ「マリニンが“4回転半”を跳ぶ」と知らされていて、注目するからわかるのであって、もしその予備知識がなかったとしたらトリプルアクセル(3回転半)に見えてしまうのではないか。一瞬で4回転半を見破る(?)ことができるのは、フィギュアスケートに詳しい人に限られるのではないだろうか。0.7秒のうちに4回転半という文字通り目にもとまらぬ速さで回転する物体を正確に目で追える人が、専門家以外に多くいるとは思えない。

 フィギュアスケートは、採点に「芸術点(演技構成点)」があるように、技術だけではなく芸術性も競われる。そこで次は芸術点の構成要素の1つである美的価値という視点から見てみよう。はたして3回転半と4回転半ではどちらが美しい(美的価値があると評価される)のだろうか。両者に美しさの差はあるのだろうか。

 ちなみに4回転アクセルの技術点における基礎点は12.5点であるのに対して、3回転アクセルは8.0点である(2022年時点)。4.5点の違いは大きい。そして技の難易度の差はもっと大きい。2023年1月時点で完成させたのは世界でマリニンただ一人なのだ。だが、フィギュアスケートにおける美しさの差は、3回転半と4回転半で、はたしてそれほど大きいのだろうか。おそらくそれは、「技術の差は大きいが、美しさの差はそれほど大きくはない」ということになるのだろう。人間の目にとって、高速で動く物体を捕捉することには限界があるからである。

高速で動く物体を捉えようとした歴史

テオドール・ジェリコーの「エプソムの競馬」(ルーヴル美術館所蔵)

テオドール・ジェリコーの「エプソムの競馬」(ルーヴル美術館所蔵)

 高速で動く物体を描いた有名な絵がある。テオドール・ジェリコーの「エプソムの競馬」である。19世紀前半に活躍したフランスの画家ジェリコーは、疾走する馬を生々しいほどの迫力とスピード感で描いた。だが、描かれた馬は不自然である。実際にこのようになることはありえない。不自然であることの1つの理由は、胴体にくらべて脚が短いことである。さらに、走る4頭が同時に同じフォームになること。そして走る馬の脚の位置である。4頭とも脚が前後に伸びた状態で地面から離れているのだ。

 注目すべきは、はたして馬が走るときには、4本の脚がすべて地面から離れることがあるのか、そして離れた瞬間の脚は絵のように前後に伸びた状態になるのか、という点である。19世紀の欧米では、馬は「エプソムの競馬」に描かれているように、「4本の脚がすべて地面から離れることがあり、離れた瞬間の脚は前後に伸びた状態になる」と考えられていた。

 これに疑問を抱いたのは、米国カリフォルニア州知事を務めた実業家のリーランド・スタンフォードだった。スタンフォード大学の創立者でもある。広大な農場でサラブレッドを飼育していたスタンフォードは、馬を調教してレースに出場させていたため、馬の脚の動きには詳しかった。彼は、ジェリコーが「エプソムの競馬」で描いた馬の脚の動きは間違っているのではないかと考えた。そこで馬を走らせ、当時実用化されて間もない「写真」を撮ることで脚の動きを解明しようとした。

 スタンフォードは馬の撮影を写真家のエドワード・マイブリッジに依頼した。ところが、馬の脚の動きを捉えるためには1カットだけでは不十分で、連続撮影をしなくてはならないのだが、当時はそのような装置などない。現在は連写など当たり前のようになっているが、1964年東京オリンピックの撮影でも、まだ一部の写真家しかモータードライブという連写装置を使用していなかったように、連写は比較的新しい技術なのである。もちろん19世紀にはなかった。

 そこでマイブリッジは24台のカメラを用意し、それを等間隔に置いた。それぞれシャッターとワイヤーを連結し、馬の脚がワイヤーにふれるとシャッターが切れる仕組みを作った。これを使い、1878年6月にスタンフォード所有の数頭の馬で数日にわたり、走る速度を変えて複数回撮影した。そのうちの1つが上の写真である。これによって「馬が走るときには、4本の脚がすべて地面から離れることがあるが、離れた瞬間の脚は前後に伸びた状態ではなく体の下に集まった状態になる」ということが証明された。

マイブリッジの「動く馬」。スタンフォード所有の馬サリー・ガードナーを撮った

マイブリッジの「動く馬」。スタンフォード所有の馬サリー・ガードナーを撮った

 つまり、写真などの映像技術を使用しない限り、高速で動く物体を人間の目で捕捉することは極めて難しいのである。画家ジェリコーは馬が大好きで、馬をモチーフにした絵を何枚も描いている。当然、走る馬を幾度となく観察していたのだが、そんな彼でも一瞬の姿を正しく描くことはできなかった。ただ、「エプソムの競馬」からは疾走する馬のスピード感、筋肉の動き、息づかいなどが強く伝わってくる。美とはそういうものだ。

魅力の正体はカタルシス

 フィギュアスケートのジャンプも4回転半と3回転半を見分けることは難しい。もしその両者が異なることが漠然とわかったとしても、正確に目で追って回転を数えることができる人間はけっして多くはないだろう。それを可能にしてくれるのは、一瞬を切り取る写真の連写や動画のスロー再生のような映像技術にほかならない。

2018 年平昌冬季オリンピックの金メダリスト、アリー ナ・ザギトワのジャンプ

2018 年平昌冬季オリンピックの金メダリスト、アリー ナ・ザギトワのジャンプ

 ところが、ジャンプしながら高速回転するフィギュアスケーターを撮影した写真は、けっして美しくないのだ。その一瞬に全力を込めて跳ぶため、顔は歪む。回転が速いため、遠心力で太腿の肉が外側に引っ張られる。もちろんそれはしかたのないことだ。競技として行われるフィギュアスケートで、究極の戦いに挑む選手の必死の姿なのだ。これは回転が速すぎて、通常、人間の目に映らない。しかし、写真という手段で時間を止めることによって見えてしまう。一般的に、スポーツ写真において美しいとされるのは、競技中のアスリートが極限にある瞬間をシャッターで切り取った画像であることが多い。ところが、フィギュアスケートのジャンプに限っては、その瞬間を止めた画像はそれほど美しく見えないのである。

 ジャンプだけではない。フィギュアスケートにおいてはスピンもスパイラルも、あるいはステップシークエンスも、その瞬間を切り取ると、凡庸な踊りのように見えてしまうことがある。

 フィギュアスケートの美は、あくまでも動きとして捉えなくてはならない。流れの美だからである。フィギュアスケートのジャンプは、踏み切りから空中姿勢、着氷の向きと姿勢が滞りなく流れ、そのプロセスに少しの歪みもないと、人の目には美しく映る。それが高速回転とともに行われることで、卓越した美を提供する。

 そのジャンプの動きは大きく2つに分けて捉えることができる。1つは踏み切りから飛翔・回転中の空中での動作・姿勢で、もう1つは着氷だ。静止画像でわかるように、前者はアスリートにとって恐怖へのチャレンジであり、試練の動きであり、苦難への旅立ちでもある。強いGに逆らいながら顔を歪め天空に向けて打ち上げられる宇宙ロケットの飛行士のようである。一方、後者は、片足で後ろ向きに氷を正しく捉え、バランスのよい姿勢をとりながら流れるような曲線を描くことで、ジャンプにおける一連の動作を終える。そのとき、選手の表情も笑顔になる。

ジャンプから美しく着氷したザギトワ

ジャンプから美しく着氷したザギトワ

 この一連の動作において、「踏み切り〜空中動作・姿勢」は抑圧であり、「流れるような着氷」は解放・浄化となる。見る者は、そこに大きなカタルシスを体験することができるのだ。ジャンプの途中で回転軸がぶれて両足着氷になったり、転倒したりした場合は、カタルシスを味わうことができない。抑圧が解放されないことによって、当惑、幻滅、失意、無念などとともに、憐憫、心痛などの気持ちを抱く。他方、ジャンプが成功したときのカタルシスは、ジャンプの難易度に応じて強いものとなる。2回転より3回転、3回転より4回転のほうが、アスリートにかかる負荷が大きい分、成功したときのカタルシスは大きい。そのカタルシスを味わった観戦者は、フィギュアスケートのさらなる虜になる。

 もちろん、フィギュアスケートはジャンプだけではない。ほかの技も難易度が高いものほど成功したときに得られる安堵感は大きい。

 これは器械体操や棒高跳びでも同様で、器械体操であればやはり難易度が高い技を成功させたとき、棒高跳びであればより高いバーを越えたときに得るカタルシスは大きくなる。そういったいくつもの採点競技がある中で、フィギュアスケートに魅せられる観戦者が多いのは、芸術性が関係しているのではないだろうか。

 フィギュアスケートでオリンピックに出場した経験をもつ國學院大学助教の町田樹氏は、オリンピックスポーツにおける採点競技を、フィギュアスケート、新体操、アーティスティックスイミングなどの「アーティスティックスポーツ」と、器械体操(女子の床を除く)、トランポリン、飛び込みなどの「フォーマリスティックスポーツ」に分類する。前者を「評価対象となる身体運動の中に、音楽に動機付けられた表現行為が内在するスポーツ」と定義し、後者を「定型化された技のみを実施していくスポーツ、もしくは確立された技の理想形を追求していくスポーツ」と位置づける。そして、アーティスティックスポーツであるフィギュアスケートは、芸術点と技術点(難度点)の総合得点で評価が決まるとしている。その芸術としての要素は、創作性、音楽解釈などによって構成されている。つまり、技の難易度と完成度以外に、音楽に動機付けられた表現行為(=芸術性)があるのがフィギュアスケートということになる。アートとしての要素を多分に含んだスポーツなのだ。

 銀盤に華麗な衣装を身に纏った選手が登場して、フィギュアスケートの演技がはじまる。しかし、そこでは優美さとは異なる「ジャンプ」という激しい身体運動が披露される。その瞬間、フィギュアスケートがスポーツだったことを思い知らされる。目にも止まらぬスピードで回転する瞬間、無事にきれいに着氷してくれと願う。そして、願いがかなったとき、安堵して胸をなでおろす。だが、まだ油断できない。次のジャンプがある。音楽に合わせて銀盤の上で美しく舞うスケーター。まばたきする間も惜しみながら見つめる。スポーツと舞いが重なり合いながら4分間が過ぎ、音楽が鳴りやむと同時に演技が終わる。

 美しい世界に包まれながら緊張と安堵を繰り返すフィギュアスケート。美的な優しさと、ジャンプに見られるスポーツとしての厳しさ。幾度となく苦難に挑戦し、そのたびに成し遂げられ、得られるカタルシス。

 美と激しさが混在する超現実的空間で行われる死闘であるがために、トップ選手の演技から得られるカタルシスは大きい。演技が終わると客席から大きな拍手が湧き上がり、戦い終えたアスリートの笑顔が彩りを添える。

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。