Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

開催地が変更になった冬季オリンピック…
~1976年大会、デンバーからインスブルックへ~

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.07.27

1972年札幌冬季オリンピックの閉会式。「DENVER '76」の文字が映し出される

1972年札幌冬季オリンピックの閉会式。「DENVER '76」の文字が映し出される

 1976年2月の冬季オリンピック(第12回)はデンバー(アメリカ・コロラド州)が開催地に決まっていた。

 6年前の5月、アムステルダム(オランダ)での第70次国際オリンピック委員会(IOC)総会で投票により選ばれた。

 デンバーは「アメリカ建国200周年」「コロラド州成立100周年」を祝う大事業と謳い、立候補していたほかの3都市に比べ優勢とみられたが接戦、2回目の投票ではシオン(スイス)に2票のリードを許した。

 シオンの得票が過半数に達しなかったため両市の間で決選投票が行われ、デンバーは2回目の投票で退いたタンペレ(フィンランド)に流れていた票を巧く取り込み、3930で“逆転勝ち”したものだった。

 冬季オリンピックがアメリカで開かれるのは1932年(第3回)のレークプラシッド、1960年(第8回)のスコーバレーに次いで3回目。1954年の第7回大会にデンバーの南約110kmにあるコロラドスプリングス市が名乗りをあげたが、19494月の第43IOC総会(イタリア・ローマ)での投票で敗れていた。コロラド州にとっては雪辱を果たしたとも言えた。

 冬季オリンピック開催地と言えば冬はスキー客で賑わう観光地、夏は避暑地を思い浮かべるが、デンバーの夏は暑い。冬夏のリゾート地としてのイメージは薄い。

 住民のスポーツ熱は高かった。シーズン別に多様でアイスホッケー、フットボール(アメリカン)、バスケットボールの有力プロチームが本拠地を置き国内最高リーグで活動。ベースボール(メジャーリーグ)は出遅れオリンピックが決まった時点にはなかった。

 デンバーの周到な「オリンピック・プラン」に“異変”が感じられたのは19714月の第71IOC総会(ルクセンブルク)だ。競技会場の一部に変更の可能性があることが、出席した組織委員会側から説明された。

 IOC委員の多くが首をかしげたのは「総ての競技会場は選手村(デンバー大学を予定)から45分以内に着く地点にある」との立候補時の約束が難しくなったとの報告だ。

 新しい会場に移るのはスキー競技。当初の予定地の多くは樹木の伐採など自然破壊に反対する地元の人たちの声が大きくなり、オリンピック開催そのものへの反対にふくらみかねない状況と知れた。

 この会議は札幌冬季オリンピック(19722月)の10カ月前とあって日本マスコミの取材も多く関心を持たれた。

 札幌大会でもスキーの滑降競技は候補に上がっていた2会場が、国際スキー連盟(FIS)の望む標高差を確保することができず、3番手の「恵庭岳」に決まった経過がある。

 同地は支笏洞爺国立公園のなかにあり現状復元が条件。それでも山林伐採への反対の声は高く男子1126m、女子870mの標高差を持ち2000mを越すコースへの着工が許可されたのは1968年だ。

 「自然」をいかに譲るか。冬季オリンピックの宿命でもある。

 スキー・リゾート地としての知名度をより高めるのに「オリンピック・シティ」の名はこれ以上ない看板だ。一方、豊かな自然を身近にした日々を好んでその地に住む人たちにとっては、その“飛躍”はわずらわしい。

 デンバーの施設配置計画は強引さがのぞいていた。「エバーグリーン」と名付けられた山の一角も競技会場用に開発が予定された。

 札幌冬季オリンピック開幕を前に札幌市内で開かれた第72IOC総会は、ルクセンブルク総会の時以上に、環境問題が深刻度を増しているのが知らされ、IOC委員たちの表情を強張らせたが大揺れには至らなかった。

 札幌オリンピック最終日(213日)の閉会式(真駒内屋内競技場)では場内の大型スクリーン(当時は電光掲示板などと呼ばれた)に「DENVER'76」の文字が浮かび、アメリカ国家が吹奏された。当時は「オリンピック旗(大会旗)」を次回開催地へ引き渡すセレモニーは開会式のプログラムであった。

 表面は平穏に見えたが、現実は深刻の度合いが増していた。

 デンバーに結成された「コロラドの未来のための市民の会」(CCFCitizens for Colorado's Future)は環境への影響のほか、予算(経費)が算出のたびに増え、市民の経済生活を圧迫する、とのアピールを併せ、行動の輪を広げた。

 内外マスコミによれば立候補時1400万ドルと見積もられた総予算はすでに2倍以上にかさみ、3500万ドルに及ぶとの報道もあった。CCFはオリンピックのために州による予算の使用を止めようとの運動をいちだんと強め勢いづく。

 1972年117日、4年に一度のアメリカ大統領選挙と並行してコロラド州ではCCFの提案による「オリンピックに税金を使用することへの可否」を問う住民投票が実施された。

 結果はCCFの主張が過半数を大きく超える52万票の支持を得た。開催派を中心とした反対は35万票に留まった。

 これで州からの“資金投入”が止まる。そうなればアメリカ政府の補助も見込めなくなる。デンバー窮地。

 IOC会長は2カ月前に20年間そのポストにあったアベリー・ブランデージ(アメリカ。18871975)からロード・キラニン(アイルランド。19141999)に代わっていた。「冬季オリンピックは総てに商業色が濃い」との持論を放ちつづけていたブランデージが在任していたら、一気に「冬季オリンピックの使命は終わった」と断じかねなかった。

 デンバーは1114日「返上」をIOCへ届け出る。

 オリンピック開催地からの「返上」は1940年の日本政府による夏・東京、冬・札幌の例がある。「戦雲が厚くなったため」であった。

 1916年ベルリン(ドイツ)に決定していた夏季大会も、ほぼヨーロッパ全土が巻きこまれた第一次世界大戦のため消滅(中止)していた。

 「戦争」以外のケースでは1908年夏季大会のローマ(イタリア)がある。IOCの決定は1904年だったが、そのあと競技会場をめぐる予算など大会経費でイタリア政府と同国オリンピック委員会(CONI)が対立。歩み寄りが難しくなり、さらに国内の火山が大噴火し、多数の死傷者が出る被害も生じた。大会まで2年となった1906年に返上、急きょロンドンに変わる。デンバーのように一度は開催を歓迎した地元の人たちが、反対し返上へと動くのは初めてであった。

 IOCは、デンバーとの復活も交渉の視野に残すが国際スキー連盟(FIS)などがすぐに代替地を選定すべきだとしたのを受け、デンバーから連絡が入った翌日(1115日)に各国オリンピック委員会(NOCs)に文書で打診。19715月のIOC総会では落選(前述)したタンベルのほか、インスブルック(オーストリア)、レークプラシッド(アメリカ)、モンブラン地区(フランス)が立候補の意志を示した。アメリカ・オリンピック委員会(USOC)にはソルトレークシティが手をあげたが、デンバー同様に経費問題がくすぶりレークプラシッドに代わった。

1976年インスブルック冬季オリンピック、開会式での聖火点火。1964 年大会で使用した聖火台 (右)と新しい聖火台(左)の両方に点火された

1976年インスブルック冬季オリンピック、開会式での聖火点火。1964年大会で使用した聖火台 (右)と新しい聖火台(左)の両方に点火された

 会長に新任したばかりのキラニンにとっていきなりの難題となるが、翌年24日ローザンヌ(スイス)の理事会(委員8人が出席)で審議、投票によってインスブルックを選んだ。アルプスの山々を背にスキーをはじめウインタースポーツが盛んなチロル州の州都、短い期間で競技会場、宿舎などの準備が整えられると評価され、1964年の第6回大会に次いで2回目の開催となった。1960年の開催を目指し“確実”と言われながらスコーバレー(アメリカ)に敗れた苦い歴史もある。

 ところで、デンバーの撤退が自然破壊だけの問題ではなかったことを示す一市民の寄稿が理事会前に現地の雑誌に掲載されていた。私が知ったのは、生々しさの残る当時ではなく1983年に日本でも出版されたロード・キラニンIOC会長の回顧録「MY OLYMPIC YEARS」(日本語版書名「オリンピック激動の歳月」。訳・宮川毅、ベースボール・マガジン社)によるものだ。

 「コロラド」という雑誌の19731月号に寄せられた市民の一文をキラニンは「事情をよく物語っている」と紹介した。引用させてもらおう。

 『私(=寄稿者)はオリンピックそのものに反対投票したわけではない。政治家と尊大な組織委員会に反対したのである。彼らのひとりよがり、秘密主義、そして一獲千金を目論んで便乗しようとしたプロモーターたちに我慢ならないので反対投票をしたのだ。それにしても不幸なことだと思う。もし開催できるものなら、オリンピックはとてもすばらしいものになったに違いない。私が生きている間にこんな機会は二度と来ないと思う』

 デンバーは、冬季に留まらず「オリンピック」が大きくなりすぎていくことへの警鐘を鳴らしたのではないか。

 オリンピック憲章から「アマチュア」の字句が削除されるのは1974年だが、大会運営の様相は「プロ」の力を借りなければならぬほど膨張していた。

 1972年ミュンヘンでの夏季オリンピックで起きた過激派による選手村襲撃事件は、インスブルック冬季大会からの各大会で「警備」が課題として重くのしかかる。

 インスブルックではこれまでどおりIOCによる劇場公開用の記録映画が「ホワイト・ロック」のタイトルで制作されたが、経費捻出のため初めて企業の協賛が求められ、日本の出版社が引き受けた。

 変わりゆくオリンピック。デンバーはそれを告げながら去ったとも言えよう──。

関連記事

スポーツ歴史の検証
  • 杉山 茂 スポーツプロデューサー。1936年1月東京都出身。慶応義塾大学文学部卒業。ディレクターとして日本放送協会(NHK)に入局。一貫してスポーツ番組の企画、制作、取材にあたる。オリンピック現地取材は夏・冬あわせて12回。長野冬季オリンピックでは、国際映像制作機構「ORTO 98」のマネージングディレクターを務めた。1980年代後半からはスポーツ報道センター長としてオリピックをはじめ内外主要競技大会の放送権ビジネスを手掛けている。退局後、FIFAワールドカップ2002年日本組織委員会放送業務局長、慶応義塾大学大学院健康マネジメント研究科客員教授(2005~2009)、2019 年ワールドカップラグビー日本大会国際映像プロダクション「IG BS」のコンサルタントなどを務める。