杉山茂氏は1959年にNHKに入局し、5年目の1964年にはディレクターとして東京オリンピックのホッケー、マラソンの中継を担当されました。
その後、スポーツ報道センター長を歴任し、1998年長野オリンピックでは放送機構マネージングディレクターを務めるなど、夏冬あわせて12回のオリンピックの中継に携わりました。その杉山氏に「オリンピックとテレビの技術革新」についてうかがいました。
聞き手/佐塚元章氏 文/斉藤寿子 構成・写真/フォート・キシモト
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
杉山茂氏は1959年にNHKに入局し、5年目の1964年にはディレクターとして東京オリンピックのホッケー、マラソンの中継を担当されました。
その後、スポーツ報道センター長を歴任し、1998年長野オリンピックでは放送機構マネージングディレクターを務めるなど、夏冬あわせて12回のオリンピックの中継に携わりました。その杉山氏に「オリンピックとテレビの技術革新」についてうかがいました。
聞き手/佐塚元章氏 文/斉藤寿子 構成・写真/フォート・キシモト
ロンドン大会開会式聖火点火シーン
―― 「オリンピック」と「テレビ」との出合いは、いつ頃になるのでしょうか?
「伝える」という視点から時代をさかのぼりますと、まずは印刷機が開発されたことによって新聞がありますよね。そして、電話があって、ラジオがあって、その次の媒体文化は何かと言うと映像、つまりテレビなんですね。20世紀に入って、欧米や日本が一斉に映像を映して伝送するという研究に時代が入りました。その時に、映像で何を映すのが一番いいかと言うと、やはり景色であり、ビジュアル文化であるスポーツ、これほど映像にマッチする素材はないわけです。1920年代から研究は一気に進んでいきました。
一方では、1896年に近代オリンピックが復活したわけです。もちろん、最初からオリンピックを意識して映像研究がされていたわけではありませんが、1930年代頃から「テレビはスポーツにとって欠かすことのできないものなのではないか」ということになりました。ともかく「伝える」という歴史において、新しいメディアが開発されるたびに「ふさわしいものは何か」となると、やはりどの時代においてもスポーツは欠かすことができなかったんです。オリンピックは、その代表でした。つまり、それぞれ別の道を歩んで発展したきた「オリンピック」と「テレビ」が、1920年~1930年代後半に強い結びつきが生まれていったのだと思います。
ベルリン大会開会式のアドルフ・ヒトラー
―― その結びつきがより強固なものになったのは、1936年ベルリンオリンピックからではなかったでしょうか?
おっしゃる通りです。当時、テレビの技術開発が最も順調に進められていたのはイギリスだと言われています。つまり、ドイツよりもイギリスの方が先行していたんです。
ところが、アドルフ・ヒトラーが「あらゆることで世界一のオリンピックを行なう」と号令して、ドイツがベルリンオリンピックでテレビ中継を手掛けるのです。
ベルリン大会の公式映画を撮影する
レニ・リューフェンシュタール
―― どのくらいの規模の中継だったのでしょうか?
中継の範囲は、とても狭いものでした。まだ伝送技術がありませんでしたからね。ただ、それでも16基ほどの受像機があったと言われています。ヒトラーが行なったベルリンオリンピックは、その後、さまざまな批判を受けてきた大会です。テレビ中継に対してもいろいろと論じられました。例えば、ポロも競技種目に入っていたのですが、その映像について「馬が走っているのか、犬が走っているのか、わからなかった」などという酷評もあったようです。それでもテレビは極めて限られた範囲、ドイツ、それもベルリンの一部だけでしたが、オリンピックの威容を生で伝えました。それは、テレビとスポーツの素晴らしい出合いのひとつだったと思います。一方で、技術として先行していたのはイギリスで、1937年にBBC(イギリス放送協会)が、世界最古と言われるサッカーのトーナメント戦FAカップや、テニスのウィンブルドン選手権の中継を行なっています。そして戦後初の1948年ロンドンオリンピックでもBBCが、ベルリンをはるかにしのぐスケールで中継を行ないました。とはいえ、その時代はまだ一般家庭にテレビが普及していた時代ではなかったということを考えれば、その映像を見ていた人はほんの一握りだったと思います。
―― その頃、日本はまだまだラジオの全盛期でしたが、それでもテレビ技術の開発は行なわれていたんですよね。
もちろんです。もし1940年に「幻」となった東京オリンピックが開催されていれば、必ずテレビ中継は行なわれていたでしょう。
―― 実は、1940年には中継車が用意されていて、その写真も残っています。
そうなんです。当時、日本でテレビ中継の開発を行なっていたのは、二つのグループでした。一つは早稲田大学で、そこで既に中継車が作られていて、近く早慶戦の中継をしようとしていたところまでこぎつけていたんです。ところが、資金難でその話は途中で頓挫してしまったようです。一方、もう一つのグループは現静岡大学工学部の浜松高等工業の高柳健次郎氏(故人)。「日本のテレビの父」と言われている方です。小規模だったとしても、当時の日本にはオリンピックを中継するだけの技術は既にあったと考えられます。
インスブルック冬季大会開会式
―― 本格的にテレビが導入されたオリンピックは、いつ頃になるのでしょうか?
1956年、コルチナ・ダンペッツオ冬季オリンピックでRAI(イタリア放送協会)が行なった中継が最初だと言われています。1952年のヘルシンキ夏季大会もフィンランド放送によって試みていますが、イタリアは4年後(1960年)の夏にローマオリンピックを控えていましたので、それに向けてのテストだったんです。それまで目にすることができなかった、山の上から滑り降りてくるアルペンスキーヤーの様子を日本のラジオ(NHK)アナウンサーは、RAIの中継画面を見て実況しました。猪谷千春さんが銀メダルを手にしたあのレース(回転競技)です。テレビ中継にとって大きかったのは、1956年にアメリカのアンペックス社が開発したビデオテープでした。スコーバレーオリンピックをはじめ、その後の「テレビスポーツ」にどれだけ貢献したかわかりません。
そして、もう一つ忘れてならないのが、衛星中継です。1964年東京オリンピックでは「宇宙中継」と言われていましたが、その衛星中継が初めて行なわれたのは、日本では東京オリンピックだったと言われていますが、実は同年1~2月に行なわれたインスブルック冬季オリンピックでヨーロッパ-アメリカ大陸では短い時間でしたが始まっていたんです。アメリカ・ABC(アメリカ放送会社)は開会式とアイスホッケーのダイジェストを「宇宙中継」しています。つまり、欧米間はインスブルックの時に既につながっていたということです。
街頭テレビに見入る人たち
―― そうだったんですね。では、東京オリンピックが「宇宙中継の始まり」というのは間違っているんですね。
日本とアメリカ大陸間ということで言えば、「始まり」と言っていいでしょう。確かに東京オリンピックは「夏のオリンピック史上初の快挙」でもあります。東京オリンピックでは、日本-アメリカ大陸-ヨーロッパ大陸というルートで、世界に中継されました。
―― 1964年当時、私は中学生で、オリンピックをテレビで食い入るようにして見ていました。今でもはっきりと覚えているのが、開会式でNHKのアナウンサーが「この映像はワシントンにも鮮明に映っているという連絡が今、入りました」というコメントですが、今思うと、極めて政治的なにおいがするなぁと(笑)。おそらく事前に用意されていたものだったんでしょうね。
事実だったと思います。当時はまだ日本からヨーロッパへという回線は開通していなかったので、アメリカからヨーロッパに映像が行っているんです。ですから、「アメリカを通じて、この映像がヨーロッパにも流れています」と付け加えたとすれば、相当のプロパガンダになったでしょうね。つまり、「技術の勝利」として世界で同時に放映されたということを伝えようとしたのだと思います。「テレビとスポーツ」の歴史において、これほど画期的なことはなかったですからね。
東京大会開会式日本選手団入場
―― もうひとつ、東京オリンピックを契機としたテレビ技術の発達と言えば、「カラー化」がありました。当時カメラを担当された方の述懐によると、開会式の1週間ほど前に行われたリハーサルではちょうど曇天で、日の丸も選手団のブレザーの赤色も、鮮やかに映らなくて苦労されたそうですね。当日は、見事なまでの秋晴れでほっとしたと。
私が若い頃には映画で「総天然色」という言葉があったんです。それまで白黒だったものが、例えば郵便ポストやリンゴを赤い色に見せるわけですが、そうなるまでには大変な苦労があったはずです。紫色になったり、陽射しがあると橙色になってしまったり……。そういう中で、「東京オリンピックでは赤を赤色に見せよう」ということで、努力をして、さまざまな苦労を乗り越えてきた。
その成果が、東京オリンピックの時の「カラー化」でした。当時一般家庭にはようやく白黒のテレビが広く普及し始めたばかりでしたから、そんな時代にカラーテレビでオリンピックを見ることは極めて僅かでしょうが、視聴できた人たちの感動というものは、想像に余りあるものだったと思いますよ。
東京大会開会式で空に描かれた五輪
―― 杉山さんは、カラーで見ていたんですか?
はい。開会式当日は、駒沢オリンピック公園総合運動場でホッケーの中継の準備をしていて、前触れか何かで1、2分の映像を送って、その後はゆっくりと開会式の映像を見ていました。その時、自衛隊のブルーインパルスが5色の煙をはきながら五輪マークを描いたのを見て、初めて「あぁ、青空が青空に見えるのか」と驚きました。そして、「テレビの将来はこれだ」と確信しましたね。
東京大会マラソン・中継車
―― 競技においては、マラソンでの42.195キロ完全中継の達成がありました。
これは放送技術と、プロデューサー、アナウンサーの気持ちとが、初めて一つになった成果だったと思います。ただ、私としては正直言って、不満がありました。道路を走ることが許された取材車は、テレビ、ラジオ、公式映画の3台だったのですが、1年前のプレオリンピックの時に、リハーサルとしてマラソンを中継した際「これでは、見ている人は全然面白くないのではないだろうか」と感じました。なぜなら、テレビ車が1台だけでしたから、先頭のランナーだけを追っていくだけで、画がとても単調だったんです。それで、私はまだ入局5年目で「先輩たちに生意気だと思われるだろうな」と覚悟しながらミーティングで「いっその事、ラジオをやめて、テレビ2台で映したらどうでしょうか」と発言しました。でも、当時はいくらテレビが普及してきたとはいえ、まだまだラジオ全盛期でしたから「ラジオを外す」なんてことはあり得なかったんです。もちろん、ラジオの重要性は十分に理解していましたから、私はラジオ車をテレビに譲っていただいて、ラジオアナウンサーはスタジオでテレビスタッフが映す映像を見ながら解説したらいいのではないかと思ったわけです。でも、伝送手段などで「いろいろと事情があるんだ」と受け入れられませんでした。もし、あのマラソン中継を2台のテレビ車で映していたら、それこそ円谷幸吉のドラマチックなレースや順位争いもっと見せることができたのではないかと思います。ラジオの「テレビ利用」はスコーバレーで実証済みでしたね。
東京大会マラソン・中継車
―― なるほど。それは一理あるかもしれませんね。実際、3分の2以上映っていたのは金メダルに輝いたアベベ・ベキラ(エチオピア)でしたからね(笑)。
そうなんです。ですから、「アベベのアップと切り替えだけで、果たしていいのかな。2位以下の選手を映さなくてもいいのかな」と思っていました。アベベ以外の選手の様子を映すことができなかったことは残念でした。でも、当時は精一杯でしたね。
―― でも、あの42.195キロの長さをすべてお茶の間に届けたというのは、国民にとっては相当なインパクトがあって、中学生の私は「すごいなぁ」と思いながら興奮して見ていました。
確かにおっしゃる通りで、さまざまな技術陣の研さんと苦労の末の映像でしたね。あれだけの長丁場を、すべて無線で伝達するためには、中継車の映像をヘリコプターに飛ばさなければいけません。すごいアイディアでもあります。つまり、「宇宙中継」と言われた衛星放送と同じような仕組みです。
―― 特に甲州街道は並木道になっていて、なかなかダイレクトに電波を飛ばすことが難しかったんですよね。
中継車とヘリコプターの距離を保たなければいけなくて大変でした。また、当時のヘリコプターは2時間も飛び続けることはできませんでしたから、給油をどうするかという問題がありました。NHKには自前のヘリコプターはありませんでしたから、自衛隊に協力を依頼しているんです。
東京大会マラソン・2連覇を果たしたアベベ
―― 中継車とヘリコプターの距離を保つのに、磁石の原理を利用したそうですね。
そう聞いていました。つまり、テレビ中継というのは技術革新と、非常に緻密なまでの研究の上に成り立っているわけです。我々“演出・制作サイド”の人間の作業は、そういう方々からすれば、楽なものですよ(笑)。
―― しかもマラソン当日は、小雨が降っていて、視界不良の状態でした。そのために、ほかのヘリコプターは許可が下りませんでしたが、中継のためのヘリコプターだけは飛ぶことが許されたそうですね。これは、まさに政治的な意味合いが強かったのかなと想像するのですが、いかがでしょうか。
おっしゃる通りだと思います。天気予報もレース頃には良くなるとみていたと聞いていました。東京オリンピックは、いわゆる国家プロジェクトでした。そして、その中核のひとつが「テレビ放送」で、しかもマラソンは東京の街並みを世界に映し出したわけですからね。警備などの問題もあって、コースは甲州街道となりましたが、皇居周辺などを織り込んだら東京の素晴らしさがもっと発信できたかもしれないと思ったことがあります。
―― そのようなご苦労があってのマラソン中継が、世界に初めて放送されたというわけですね。
NHKにとっては、マラソンをすべて中継するというのは技術力・制作力を示す大きなセールスポイントだったと思います。でも、世界各国ではどのくらいの放送時間だったかは未だに確かなデータはありません。おそらくフルコースは放送されなかったと思いますよ。私の予想では、もしかしたら平均15分くらいだったんじゃないかなと。
日本のマラソン人気は世界と比べても非常に高かったわけです。実はマラソンのフル中継を初めて実施したのは、東京オリンピックでのNHKではないんです。その前に、NHKとTBSが各々チャレンジして、すでに42.195キロの中継には成功していました。そうした当時のチャレンジの末に得た技術が集約されて、オリンピック史上初めてマラソン中継が行なわれたのが東京オリンピックでした。テレビ放送が日本で始まって10年近く、日本テレビ界の当時の放送技術の集大成だったんです。
杉山茂氏インタビュー風景
―― 「テレビとスポーツ」という観点において、1964年前後というのは、どのような時代だったのでしょうか。
私は1959年にNHKに入局しまして、2カ月後に1964年の東京オリンピック開催が決定しました。日本全体がオリンピックに向かっていくという空気を感じていましたね。まだ私にはスポーツのテレビ中継やテレビの技術開発についての知識が豊富にはありませんでしたが、それでも「今はまだ高級なテレビ受像機も、これから普及していくのだろう」ということだけは想像することができました。当時は、まだラジオ全盛期時代。1962年頃まで、新聞に掲載されている「ラテ欄」(ラジオ・テレビの番組欄)というのは、ラジオ番組が中心で、テレビ番組は小さく扱われていました。その時代のスポーツ放送というのは、ラジオアナウンサーの描写力、報道力に頼っていたんです。そういう中で、NHKをはじめ、各民放のテレビのプロデューサーの諸先輩方はパイオニアとして苦労されたと思います。何をどのようにして映すことで、何を伝えるのかということの研究を重ねていたわけです。ゼロからのスタートでしたからね。
―― 当時、テレビのスポーツ中継はどのようにして行なわれていたのでしょうか?
東京オリンピック開催が決まった1959年というと、日本でテレビ放送が始まった1953年から6年が経っていますから、一応はあらゆるスポーツ中継が行なわれていました。しかし、制作規模は“最少”でした。例えば、人気の巨人軍を主としたプロ野球を局の看板番組にしていた日本テレビも、球場に2台のテレビカメラしかありませんでした。それも2台を切り替えるというより、1台はもう1台が壊れた時に備える目的が大きかったと言われています。「伝え方」という点においては、「ポロの馬が犬に見えた」という1936年ベルリンオリンピックよりは向上していたと思いますが。そこへ、「東京オリンピック開催」が決定したわけです。
―― 東京オリンピックによって、「テレビとスポーツ」はどのような関係になっていったのでしょうか。
両者がこれほど相性のいいものに出合ったことはないと思ったでしょう。衛星中継の日常化によって、あらゆるスポーツ中継が世界中のテレビ局のキラーコンテンツになっていったのは、スポーツが「国境なき文化」であったからです。
メキシコ大会マラソン・君原
―― 東京オリンピック後の技術革新としては、4年後の1968年に開催されたメキシコオリンピックで「スローモーション」が登場したと記憶しています。
「スローモーション」が実用化されたのは、実は東京オリンピックなんです。アメリカのアンペックス社が開発し、その後ソニーや東芝が製作したビデオテープを使って、NHKがスローモーションの技術を開発していました。ですから、スロモーションが初めて披露されたオリンピックは東京だと言っていいと思います。
それが「即時再生」という方法で行なわれたのがメキシコオリンピックでした。これはアメリカのテレビ会社がアメリカンフットボールの中継のために開発したものなんです。アメフトは、攻守が入れ替わる時に、15~20秒の間が空きます。その時間に、今起こったプレーを再生したいということからでした。
私も随分と担当しましたからよく覚えていますが、1960年代当時は、ビデオテープをスローモーションにするためには、ここから使いたいというシーンの20秒くらい前からテープを回転させないと、映像が安定しなかったんです。
つまり、どんなに短くても再生(オン・エア)するには20秒はかかるということです。それが、瞬時にスッと再生できるビデオテープが開発されたのは“革命”ですよ。テレビでスポーツを見るということにおいて、「即時再生」ほど素晴らしいものはないですよね。当初はプレーをもう一度見る楽しさに使われていたわけですが、徐々に戦略や技術的なことに使われ、さらには判定の材料になっていった。果たして、それが最初にビデオテープを開発した人たちが望んでいたことかどうかは、個人的には疑問ですが、それは置いておいて、ビデオテープの開発というのは、テレビとスポーツの関係性を強めたものの代表的な技術と言っていいと思います。
―― こうしたテレビの放送技術の革新というのは、どのようにスポーツの発展に寄与してきたのでしょうか?
テレビスポーツ番組の制作者としての私の理念は「今日テレビで見たスポーツを、来週は現場で見たいと思える、思わせる」ということでした。スポーツというのは、競技場の風と空気の中で見ているのが、何より面白いし素晴らしい。つまり、やっぱり「生」で見るのが一番ということです。そのお手伝いをするのが、テレビだと思っています。広くお茶の間にスポーツシーンを届けることによって、「あぁ、あんな選手になりたい」というふうにスター選手を創出し、スポーツとお茶の間との距離を縮めたのも、テレビの力が大きかったと思います。
―― いわゆるスポーツが「大衆化」したということですね。
FIFAワールドカップブラジル2014 決勝・メッシ選手
(アルゼンチン)
そうですね。私自身は「家庭化」という言葉の方が合っているんじゃないかと思います。というのも、それまではどちらかというと、「スポーツは男性のもの」という傾向が強かったと思いますが、テレビの登場によって「家族の楽しみ」になったと思うんです。そして、スポーツの技術や戦略という部分でのテレビの貢献度もまた高いと思っています。例えば、サッカー日本代表で言えば、W杯の出場権をかけて他国と戦う場合、相手国が丸裸になってしまうほどの映像が手元にあるわけです。陸上競技で言えば、現在は100mを何秒で走るかだけではなく、スタートでの選手の顎の上げ方にまで着目している時代ですよね。超高速カメラ(スーパースローモーション、ウルトラスローモーションなど)で一流アスリートの超人的なプレーをいとも簡単に見ることができ、それが驚嘆を呼びます。
―― また、オリンピックと言いますと、やはり「放送権料」を外すことはできません。聞くところによると、IOCの予算の3分の2が放送権料と言われていますが、実際はどうなのでしょうか。
オリンピックを筆頭にスポーツのスーパーイベントの財政的成功の大半をテレビマネーが担っているのは事実でしょう。人気が人気を呼んで、権料が高くなる現象も続いています。私自身、放送権料を払う側、交渉する側の仕事もしていましたが、正直言って「なんでこんなに高いんだろうか」と思っていましたし、NHKの内部でも批判はありました。
少し乱暴に聞こえるかもしれませんが、私はオリンピックを放送することを「やめる自由」というのもあると思っていたんです。ですから、何度か「じゃあ、やめましょうか」と発言したことがありました。実際、ヨーロッパのテレビ局はいくつもオリンピックの放送をやめざるを得なくなっています。オリンピックに限らずサッカーもテニスもゴルフも自転車レースも、あまりにも放送権料が高くて買えなくなってきているんです。放送権料はスポーツに限らず、映画やステージショー、オスカーのようなセレモニー、日本では有名タレントの結婚式などでも発生します。しかし、金額の大きさはスポーツが飛び抜けています。それはなぜかというと、1秒後の展開さえ未知な生の魅力、世界を熱狂させるスーパースターの存在などが、それほどの「商品価値」になっているからです。
―― そもそも「放送権料」の始まりは何だったのでしょうか?
諸説ありますが、一説には、プロボクシングが全盛期を迎えていた1920年代のアメリカと言われています。ラジオ局が中継を企画した時、興行師が「そんなことしたら会場に観客が来なくなってしまうし、飲食など会場内の売上にも響く」ということで反対したんです。そこで、ラジオ局が「それなら、その分は我々が補てんしますよ」と申し出たのが、放送権料の始まりだと。現在のような高値を呼んだ要因の一つには、アメリカの放送界はラジオもテレビも、すべて民放(商業放送)という背景があります。スポンサーのために、好コンテンツの独占が必要だったんです。それが高価格競争を生み出したというわけです。
アトランタパラリンピック陸上で2位の荒井
―― 2020年東京オリンピックに向けては、オリンピックと同様にパラリンピックにも注目が高まっています。テレビとスポーツという観点では、パラリンピックについてはいかがでしょうか。
世界的な流れとして、美術や音楽と同じように、障がい者がスポーツをすることが社会に受け入れられてきたということは、非常に素晴らしいことだと思います。私自身は、障がい者がスポーツではなくリハビリテーションを主眼とするという時代に育ってきた世代ですから、障がい者が競技スポーツをするという流れに、なかなか追いつけなかったところがありました。それを打ち砕いたのが、1998年長野パラリンピックで、ロバート・ステッドワード国際パラリンピック委員会初代会長(カナダ)が組織委員会の関係者やメディアを前にした会見で述べられた挨拶でした。「障がい者スポーツがリハビリという考えは、時代遅れ。障がい者スポーツの中には、アスリートとして競技スポーツをする選手も出てきていて、彼ら彼女らはオリンピック選手と同じように絶え間ない努力をし、技術を磨いている。その選手に対しては、健常者の選手と同等の評価をするべきだ」と。そのスピーチを聞いて、「障がい者スポーツは、そこまでのレベルになっているのか」と知ったわけです。私に障がい者スポーツを競技として見る概念を与えてくれたのが、長野パラリンピックでした。
障がい者スポーツで印象的だったのは、1996年アトランタオリンピックです。その大会では、オリンピックの陸上競技の中に「車いすレース」が組み込まれていて、私も現場で見ていました。その車いすレースの表彰式の時、雨が降ってきて、車いすの選手が滑ってなかなか表彰台に上がれなかったんです。でも、その時、誰一人手を貸そうとはしなかった。そして、彼がようやく表彰台の一番上に立った時、スタンドから割れんばかりの拍手が送られたんです。その時、「あぁ、彼のことをみんなが障がい者ではなく、アスリートとして扱っているんだな。なるほど、だからこそパラリンピックが成り立つんだ」と思いました。と同時に、「こういう環境でなければ、日本に障がい者スポーツは根づかないだろう」と。私は「感動」という言葉があまり好きではないのですが、その時は体が震えるばかりに感動して見ていました。選手に対しても、観客に対しても、競技役員に対しても、抱いた感情です。
長野冬季パラリンピック・大日方
そういう中で、2020年東京パラリンピックでテレビは何を映しだすべきかというと、「ありのままの姿」だと思います。例えば、脚を切断した選手が義足を履いて走ったり跳んだりするシーンを、視聴者が「痛々しい」ではなく、スポーツ選手として見れるように映し出す送り手側の姿勢です。つまり、オリンピックをオリンピックと思うように、視聴者がパラリンピックをパラリンピックというスポーツ大会だと思えるように映し出すことが、2020年東京パラリンピックのテレビ放送に求められていることだと思います。そしてテレビで見た翌日、ぜひ会場へ観戦に出かけていただきたい。
―― 最後に、今後のメディアについてお伺いしたいと思います。インターネットが発達し、現在はSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の時代です。IOCもSNSの活用を推奨しているところがあると思いますが、そうした中で、今後テレビはスポーツ界においてどのような存在となっていくのでしょうか。
私は、時代はさらに変化していくと思いますし、“テレビ人間”としてはそのことに恐れも感じています。本来、スポーツというのは豊かな時間を持ちながら、スポーツの空間というものを競技者と共有していくようなものであると思うんです。
長野冬季パラリンピック開会式で入場する日本選手団
スポーツは何が面白いかというと、スタートからフィニッシュまでのプロセスであって、SNSのように結果だけを知って終わり、という端末情報だけで満足いくものではないと思うんですね。とはいえ、確かに時代はSNSですよね。
そうした中で、ひと言で言えば「頑張れ、テレビ」です。そして、テレビと同様に、ラジオや新聞など、これまでスポーツと色濃く関わってきたメディアが、単に時代の波に押し寄せられるのではなく、それぞれの「スポーツメディア」として努力していかなければ、スポーツは本当に端末情報になってしまいます。ですから、「頑張れ!テレビ」のひと言に尽きます。
1912 明治45 | ストックホルムオリンピック開催(夏季) |
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1916 大正5 | 第一次世界大戦でオリンピック中止 |
1920 大正9 | アントワープオリンピック開催(夏季) |
1924 大正13 | パリオリンピック開催(夏季) 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる |
1928 昭和3 | アムステルダムオリンピック開催(夏季) 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得 人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得 サンモリッツオリンピック開催(冬季) |
1932 昭和7 | ロサンゼルスオリンピック開催(夏季) 南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 レークプラシッドオリンピック開催(冬季) |
1936 昭和11 | ベルリンオリンピック開催(夏季) 田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)
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1940 昭和15 | 第二次世界大戦でオリンピック中止 |
1944 昭和19 | 第二次世界大戦でオリンピック中止
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1948 昭和23 | ロンドンオリンピック開催(夏季) サンモリッツオリンピック開催(冬季)
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1952 昭和27 | ヘルシンキオリンピック開催(夏季) オスロオリンピック開催(冬季)
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1956 昭和31 | メルボルンオリンピック開催(夏季) コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季) 猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)
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1960 昭和35 | ローマオリンピック開催(夏季) スコーバレーオリンピック開催(冬季)
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1964 昭和39 | 東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季) 円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得 インスブルックオリンピック開催(冬季)
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1968 昭和43 | メキシコオリンピック開催(夏季) テルアビブパラリンピック開催(夏季) グルノーブルオリンピック開催(冬季) |
1969 昭和44 | 日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任
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1972 昭和47 | ミュンヘンオリンピック開催(夏季) ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季) 札幌オリンピック開催(冬季)
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1976 昭和51 | モントリオールオリンピック開催(夏季) トロントパラリンピック開催(夏季) インスブルックオリンピック開催(冬季)
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1978 昭和53 | 8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催
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1980 昭和55 | モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット アーネムパラリンピック開催(夏季) レークプラシッドオリンピック開催(冬季) ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加
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1984 昭和59 | ロサンゼルスオリンピック開催(夏季) ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季) サラエボオリンピック開催(冬季) インスブルックパラリンピック開催(冬季) |
1988 昭和63 | ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 鈴木大地 競泳金メダル獲得 カルガリーオリンピック開催(冬季) インスブルックパラリンピック開催(冬季)
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1992 平成4 | バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得 アルベールビルオリンピック開催(冬季) ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季) |
1994 平成6 | リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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1996 平成8 | アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得
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1998 平成10 | 長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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2000 平成12 | シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得
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2002 平成14 | ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2004 平成16 | アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得 |
2006 平成18 | トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2007 平成19 | 第1回東京マラソン開催 |
2008 平成20 | 北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季) 男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得
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2010 平成22 | バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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2012 平成24 | ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催を決定 |
2014 平成26 | ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2016 平成28 | リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季) |