2023.06.08
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2023.06.08
政治とスポーツ、特に平和の祭典と称されるオリンピックとの関係はどうあるべきか。冬季大会の歴史は、ボイコットの報復などに揺れた夏季大会に劣らないほどの示唆と教訓に富んでいる。歴史を通じて見えるのは、開催国への「内政干渉」を拒否しつつ、大会の成功とオリンピック運動の存続を図ろうとする国際オリンピック委員会(IOC)の姿だ。
1936 年ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大 会の開会式で開会宣言を行うヒトラー
「ヒトラーのオリンピック」はもう一つあった──。1936年ベルリン夏季大会の約半年前、独バイエルン州のガルミッシュ・パルテンキルヘンで開かれた冬季大会があった。夏季大会の開催国に、同年の冬季大会の開催権が原則として与えられた時代だ。
1933年に政権を取ったアドルフ・ヒトラーは、当初開催に懐疑的だったが、積極的な推進に転じる。オリンピックに大きなプロパガンダの可能性を見たことが理由だったとされる。
お墨付きを得た大会は、当時としては破格の費用で競技施設を再整備。一方で海外メディアの取材に規制をかけるなど情報統制も図った。2月6日の開会式では、親衛隊など数千人が護衛を務めるヒトラー総統を前に、ドイツのIOC委員でもあった組織委のカール・リター・フォン・ハルト会長が、「我々は総統がお命じになった通り、相互理解を培う真の平和の祭典として、オリンピックを開催できると世界に示す」と誓った。
反ユダヤ主義を軸とするナチス・ドイツの人種主義政策は、欧米特に米国社会で、すでに批判のデモや大会ボイコットの呼びかけを引き起こしていた。このため、ベルリン夏季大会の組織委事務総長で、聖火リレーの考案者でもあるカール・ディームは、冬季競技の会場の町や街道から、反ユダヤの標識やポスターなどを撤去するようフォン・ハルトに進言したという。冬季大会を、ベルリン大会の成功への重要な布石と見たからでもある。
すでに強制収容所が存在した時代に、「平和の祭典」によって現実を覆い隠し、すばらしい組織力のある近代国家としての虚像を世界に見せる。それがプロパガンダの核心だった。1936年の夏冬のオリンピックは、その後のナチス・ドイツの動きに対する各国の警戒を遅らせた理由の一つともされている。「プロパガンダが真実を反映している限りは許容される。しかし、ヒトラーのオリンピックのように、それが虚偽である場合は一線を越える」。ドイツの研究者は語る。
オリンピックを利用された形のIOCは、どうしていたのか。視察などを行った形跡はあるが、壮麗な大会開催を約束するナチス・ドイツに、内政干渉をする意図も動機も皆無だった。時のIOC会長だったアンリ・ド・バイエ=ラトゥール伯爵は、開催国の総統であるヒトラーとの親交を保ち、その政策にも「オリンピックに影響を及ぼさない範囲で」一定の理解を示したとされる。1942年に心臓発作で死去した際には、ヒトラーから贈られたカギ十字入りの花輪が棺に添えられた。
2002年ソルトレークシティー冬季大会の開会式に登場したグラウンド・ゼロ旗
政治的な発信のためにオリンピックを使うのは、独裁者や強権主義国家に限ったことではない。民主主義国家・米国で開かれた2002年ソルトレークシティー冬季オリンピックの開会式には、前年9月11日の同時多発テロ事件後、世界貿易センタービルの跡地から発見された星条旗「グラウンド・ゼロ旗」が登場した。ジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)は開会宣言にあたり、IOCの規定にはない「誇り高く、決意と感謝に満ちた国民を代表し」という表現を加えた。
グラウンド・ゼロ旗の登場については事前にIOCとの協議があった。しかし開会宣言の変更は、直前にブッシュ大統領自身が決めたという。米国内では好意的な反応がもっぱらだったが、世界の選手を迎える開会式をブッシュ大統領のメッセージ発信に使われた形のIOC内には、苦々しさが広まった。「ブッシュ大統領はオリンピックをハイジャックした」──。事後IOCが、規定を強化したのは言うまでもない。
プーチン大統領の肝いりで招致し、約5兆円という夏冬のオリンピック史上でも破格のコストをかけた(交通網などインフラ整備を含む)2014年ソチ大会。壮大な大会はしかし、複数の政治的な問題で記憶されることになる。
開幕前に噴出したのは、プーチン大統領が2013年に制定した国内法「同性愛宣伝禁止法」をめぐるさや当てだ。同法はセクシュアル・マイノリティに対する差別だとして欧米からの非難がわき起こった。トーマス・バッハIOC会長はこの教訓から、大会後の同年12月、オリンピック憲章の基本理念に「性的指向による差別の禁止」を加えた。
意表を突いたのは、オリンピック閉幕直後にプーチン大統領が、ウクライナのクリミア自治共和国のロシア編入に向けた軍事的な動きに踏み切ったことだ。続くパラリンピックでは、すでにロシア入りしていたウクライナ選手団が大会ボイコットも辞さない構えを見せるなど、混乱が広がった。結局ウクライナは参加継続を決めるが、開閉会式には選手がひとりずつ、平和を訴えるメッセージを帯びて登場するなど、抗議の意思を示し続けた。
世界の選手たちへの裏切りとも言える事態も露見した。ロシアの組織的ドーピング不正だ。調査にあたった世界反ドーピング機関(WADA)は、2015~16年に一連の報告書を公表し、国ぐるみの不正だったと指弾。これに対しロシア政府は、すべては西側の政治的攻撃だと否定し続けたが、メダル量産という「政治」の意志が、スポーツのあり方の根幹を揺るがす、歴史的な汚点となった。
開幕前年、北朝鮮の相次ぐミサイル発射などで緊張感が高まった2018年平昌オリンピック。しかし1月、金正恩氏の「(大会に)北朝鮮代表団を派遣する用意がある」との表明で、懸念から一転、南北融和が演出されることになる。オリンピックとパラリンピックの開閉会式では、「朝鮮半島旗」を先頭に南北朝鮮の合同入場行進が行われ、女子アイスホッケーでは初の南北合同チーム(コリア)が結成された。ちなみにコリア対日本の試合では、北朝鮮の女性応援団が一糸乱れぬ声援を繰り広げ、会場中に「竹島」入りの朝鮮半島旗が翻った。
北朝鮮の参加に特別対応で道を開き、南北対話をお膳立てしたIOCのバッハ会長は、合同行進を平和の祭典の象徴として絶賛。その後北朝鮮を訪問し金正恩氏と会談した。この時期のスピーチでは、オリンピックが国際平和に道を拓き得ることを強調している。
皮肉なことに、その後北朝鮮は融和攻勢から転じ、IOCの督促にも関わらず2020年東京大会には不参加。このためIOCは憲章違反を理由に、北朝鮮オリンピック委員会に資格停止処分を下すことになった。政治の思惑で演出された「平和の象徴」は、政治の思惑によって容易に崩れる砂上の楼閣でもあることを印象づけた。
2022年北京冬季パラリンピックの開会式で、ロシアのウクライナ侵攻に抗議し「Peace !(平和 を!)」と叫んだ国際パラリンピック委員会(IPC)のパーソンズ会長
2022年北京冬季大会は、東京大会に続いて新型コロナウイルス感染症の直撃を受け、連日の検査や行動制限など、徹底した封じ込め対策が採られる中で開かれた。開幕前には香港や新疆ウイグル自治区での状況を理由に、中国人権問題に対する批判が噴出。一部の西側主要国首脳は、開閉会式を欠席する「外交ボイコット」を示唆した。
しかし、オリンピック閉幕後の2月24日、さらに衝撃的なできごとが起きる。ロシアによるウクライナ侵攻だ。
IOCは同日、ロシアの3度目となる「国連のオリンピック停戦決議」違反への非難声明を発表。28日には、ロシア及び支援を行うベラルーシの選手を国際大会から「除外」するよう、国際大会の管轄諸団体に勧告する声明を出した。政治を超えた大会参加の普遍性を、オリンピック運動の最大の価値だと標榜してきたIOCにとって、異例の踏み込みだった。
困ったのは、3月4日に北京パラリンピック開幕を控えた国際パラリンピック委員会(IPC)だ。IPC理事会は2日、すでに現地入りしていた両国選手の個人資格での大会参加を容認したが、各国選手や選手団から抗議と大会ボイコットの示唆が殺到したため撤回。3日、大会継続のために両国選手の「除外」を決断した。11月にはIPC臨時総会を開き、ロシアとベラルーシのパラリンピック委員会の資格停止処分を正式に決めた。
ところが一方のIOCは軌道修正を図り、バッハ会長は選手の除外勧告は「制裁ではなく予防措置」で、大会とロシアの選手らを守り、各国政府による国際スポーツ界への政治介入を防ぐためだったと釈明。12月には、2024年パリオリンピックの予選もにらみ、両国選手の個人参加による国際大会復帰に向けた、模索を始めることを明らかにした。表明は、ウクライナなどから痛烈な批判を呼んだ。
時代を超えてIOCは、政治とどう協力し、かつ距離を取るかに腐心してきた。ボイコットに揺れた1980年代には、政治から一線を画す姿勢を強調したが、今やバッハ会長は「政治とスポーツが無関係でいられるというのは幻想だ」と述懐する。スポーツの大衆化が進み、普及や教育、選手強化、大会開催に至るまで、政治(行政)の支援なしには立ち行かない現実があるからだ。
現在のオリンピック運動には、200を超える国・地域が参加しており、その中には強権国家として人権問題等を抱えるところも少なくない。IOCはこのため、内政への批判を避け、政治的な中立を決め込む。各国政府に対しては国連や国際会議の場で、政治を超えた参加の普遍性こそがオリンピック運動の価値だとし、政治に利用せずオリンピック運動の自治を尊重するよう訴えてきた。
「平和」が続く時代には、こうした対応も有用だった。けれども戦争の余波が国際社会を揺るがす中で、IOCも矛盾を抱え、苦しい模索を迫られつつあるように見える。冬季オリンピックに落ちてきた政治の影は、どんな未来を内包するのだろう。