2022.08.16
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2022.08.16
東京2020オリンピック卓球男子団体銅メダル決定戦。2-1と韓国にリードした日本チームは、あと一試合を取れば銅メダル決定。そして最後はベテラン、水谷隼に託された。期待を一身に背負った水谷は、3ゲーム連取で相手を圧倒。男子団体に銅メダルをもたらした。試合直後、水谷はミックスゾーンでのオリンピック放送機構(Olympic Broadcasting Services:OBS)インタビューの最後を、そう言って締めくくった。2週間にわたった卓球個人、そして団体戦を日本チーム男女は金銀銅メダル獲得という素晴らしい結果で終えたのだった。それと同時に長く日本男子卓球を引っ張ってきた水谷隼にとって、選手生活の最後だということも示唆していた。
東京大会卓球混合ダブルス優勝ペア、水谷隼・伊藤美誠のミックスゾーンでのインタビュー(手前 左:筆者)
思い返せば私にとって、2005年7月6日がすべての始まりだった。その日、シンガポールで開催されたIOC特別総会で、ロンドンが2012年のオリンピック・パラリンピック開催地に選ばれたのだ。1990年からロンドンに住んでいる市民として、絶対ボランティアとして参加しようと即断。その後も2014年ソチ冬季大会、2016年リオ大会にボランティアとして駆けつけ、東京大会を目指して、2018年夏に東京に戻ったのだった。ロンドン市民としてボランティア参加したロンドン2012大会は、まさに人生を変えた出来事だった。
ロンドン大会では、普段は国際展示会場であるエクセルセンターに言語サービス(Language Services:LAN)のメンバーとして配属された。会場では柔道、レスリング、ボクシング、重量挙げ、フェンシング、テコンドー、そして卓球と7競技を開催。単一会場ではオリンピック期間中、最も多くのメダルが授与された競技場であった。LANチームはそのすべての競技に対応し、30か国語以上から英語に通訳を行うのだ。主な活動場所は、選手が試合直後にインタビューを受けるミックスゾーンで、選手とメディアの間に通訳として入る。
高校まで卓球部だった私にとって夢のような役割だった。ボクシングもかなり対応したが、必然的に卓球アリーナが主な活動ベースだった。特に卓球では中国語、韓国語、日本語が必要とされるので、東アジア語の拠点としてチームリーダーを任されたこともその理由だ。
水谷隼とのリアルでの出会いは、ロンドン大会卓球競技のテストイベントとして、2011年11月にエクセルセンターで開催された、プロツアー・グランドファイナルまでさかのぼる。普通ならば国際卓球連盟(International Table Tennis Federation: ITTF)が主催なのだが、テストイベントということもあり、ロンドン大会組織委員会との共催で本番への予行練習を兼ねて開催された。水谷は残念ながら一試合目で敗れ、会場を後にすることになった。しかしその後のロンドンオリンピック、同じくLANチームで卓球会場となったリオセントロに配属されたリオ大会。そして今回の東京大会でも、卓球会場である東京体育館で水谷のインタビュー通訳を担当した。リオオリンピックでは重要なパートナーであるOBSが、LANチームの活動を紹介したビデオを制作してくれた。その中で水谷はこんな回答をしている。
「少しは英語できるんですけど、インタビューになるといつも同じ回答になっちゃうんです。言語サービスのボランティアが自分の本音をうまく訳してくれるので、本当にありがたいです」
ビデオでは彼の日本語に、実際に通訳した私の英語音声をかぶせているのだ。
東京大会言語サービスチームとオリンピック放送機構のメンバー(右端:筆者)
オリンピック・パラリンピックでは何百にもおよぶ様々なボランティアの役割がある。その中で言語サービスの任務は、選手の試合直後の第一声を世界に伝えることだ。大変なプレッシャーがあるものの、選手と感動を共にできる非常に恵まれた、そして同時に名誉なポジションと言っていいだろう。観客の案内や、競技のサポートといった役割には最も多くのボランティアが配属される。また関係者の移動をサポートするドライバーや、関係者・選手団・来賓などの接遇・お手伝いなどもボランティアが対応する。今回の東京大会はある意味、私たち、ボランティアにとって過去の大会以上に、活動の重要性が浮き彫りになったと言えるかもしれない。
コロナ禍で開催された東京大会は、過去大会とは全く違った状況であった。本来多くの日本国民はオリンピック・パラリンピックが大好きであり、敬意を持っている。しかしながら感染状況が一向に改善しないことから、ネガティブな空気が社会を覆ってしまったのだ。町中がお祭り騒ぎの高揚感で終始したロンドン大会。フレンドリーで明るいカリオカたちの笑顔が印象的だったリオ大会。オリンピック・パラリンピックとは、本来そういう特別なイベントなのだ。そういった中で、多くの国民が表立って大会を支持する声をあげられず、沈黙してしまった。同調圧力が強く働く、日本社会独特の現象といってもいいだろう。この点に関しては、2021年6月12日に英国放送協会(British Broadcasting Corporation:BBC)が"Tokyo Olympics:Why people are afraid to show the support for The Games”「東京五輪、国民が支持を表明しにくい日本」と題した記事で解説を試みている。
こういった中で、ボランティア達の気持ちは状況が不透明な中で揺らめいていた。自分の力ではどうすることもできず、実際に大会が開催されるかどうかも分からない。ユニフォームを着て歩く自分たちに対する世間のまなざしが怖い。暴言を浴びるのではないか、あるいは暴力を振るわれたら、という恐怖。自分、家族、関係者がコロナに感染という不安もあった。残念ながら、様々な理由で辞退せざるをえなかったボランティアは約1万人いた。それでも7万人の大会ボランティアは最後までコミットしていたのだ。大会を目指して自分ができる努力だけをするしかない、という思いは大会を目指してきた選手と全く同じだったと言えよう。
それでも最後は多くの会場が無観客となりながらも、大会が開催されることが決定した。そこに至る、特に現場のスタッフ、関係者の努力は想像を絶するものであっただろう。無観客の結果、活動機会が無くなってしまった案内などを担当するメンバーを、いち早く他の役割に再配置させたのもスタッフのお陰だ。ようやく活動の機会を与えられたボランティア達の活躍は目覚ましいものだった。特に選手・関係者に対するおもてなしは世界中から絶賛され、海外メディアやSNSに数多く取り上げられたのは記憶に新しい。
今回は観客席から沸き起こる声援がほとんどなかった。普通であれば選手たちにとって、観客からの応援は大きな励みになっているはずだ。パンデミックの中、ここで競い合っていることが本当に歓迎されているのだろうか?多くの選手たちが疑問に思ったに違いない。こんな状況で彼ら、彼女たちに勇気を与えたのは、たとえマスクで隠れていても、ボランティアの笑顔とおもてなしだったのだ。ソーシャルメディアで大きく取り上げられたので覚えていると思うが、英国の選手が試合会場に入る際、ボランティアが列を作って拍手で迎えたシーンは本当に印象的だった。
一方でロンドンやリオでは、ボランティア達は一目でわかるユニフォームを着ているため、町中で知らない人から声をかけられた。パブでビールをおごってもらったことまである。また現地メディアも、絶え間ないボランティアへの感謝の言葉を繰り返した。残念ながら東京の雰囲気は違っていた。ユニフォームを隠すようにTシャツなどを、上からはおっているボランティアも沢山いた。ところが一歩活動場所に入ると、選手や関係者から一様に感謝の言葉が出てくるのだ。競技を問わず、多くの選手が試合直後に開口一番、「大会を開催してくれて、応援してくださるスタッフやボランティアの皆さん、本当にありがとう」とインタビューで述べてくれた。
ボランティアはお金の為にやっているのではない。そのやりがいの一つは「やってよかったな」と思えること。たくさんの「ありがとう」に支えられているのだ。今回はそのありがとうが、多くの選手や関係者から直接ボランティアに向けられて発信されたのだ。自分たちの活動が感謝されているということが、本当に実感できた瞬間だった。
東京オリンピック・パラリンピックは期間中のボランティア活動だけではなかった。組織委員会のボランティア検討委員として5年以上にわたって準備段階、PR、面談、研修など多岐にわたって関わってきた。それだけ私にとっては特別な大会だったのだ。開催をほとんど諦めていた時期もあった。それでも異常な事態の中で開催され、不可能を可能にした大会の一員であったことは一生の思い出であり、名誉なことだと思っている。
さて、卓球男子団体のメダルセレモニーが終わり、銅メダルを首にかけてミックスゾーンを通ってきた水谷は、私を見かけると近づいてきた。そして、こう言葉をかけてくれた。
「ロンドンから何回も通訳をしてもらって、本当にありがとうございました」そう言って控室に去ってゆく彼の後姿を見る私の目からは、あふれる涙が止まらなかった。