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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

オリンピック代表と栄光を支える企業

【オリンピック・パラリンピックのレガシー】

2021.05.07

1.戦略となる企業スポーツ

 代表の椅子がもうひとつあったなら……多くの方がそう思われたはずだ。2020年の掉尾を飾った柔道男子66キロ級の東京オリンピック代表決定戦。阿部一二三と丸山城志郎の闘いは4分間の試合時間を大きく上回る24分間におよび、まさに鬼気迫った。

丸山城志郎の柔道衣の胸にはミキハウスのロゴが見える

丸山城志郎の柔道衣の胸にはミキハウスのロゴが見える

 勝負は新型コロナウイルス(COVID-19)の感染を避けるため、観客をいれずに行われた。ふたりの眼差しの強さ、隙を与えない動きと荒い息遣い。張り詰めた会場の空気が、無観客試合だからこそ逆に、その場に居るかのようにテレビ画面から伝わった。残念なことに中継したテレビ東京は時間配分を見誤ったのだろう。放送時間内には決着せず、YouTubeに切り替えて決着を待った。私のような“観客”は少なくなかったろう。

 最後は大内刈りの「技あり」で、阿部が勝利。女子52キロ級の代表に内定している妹の詩と東京大会の舞台に立つ夢を叶えた。

 思えば、柔道の代表はこの階級を残し、すべて決まっていた。国際試合が中止になり、実力が拮抗する世界王者どうしの決着は延びに延びた。その間、体調を管理し気持ちを切らずにきた両選手の精神力の強さを改めて思う。試合を終えた後、「丸山選手がいなければ、自分はここまで強くなっていない。存在は大きかった」と阿部が話し、丸山は「ここまで肉体的にも精神的にも強くなれたのは阿部選手の存在があったからこそ」と語った。ふたりにしかわからない心の叫びは、コロナ禍が生んだ物語にほかならない。

 それにしても両選手を支えたスタッフ、関係者の思いはいかばかりか、そこに思いを馳せる。阿部を支えた「パーク24」と丸山をサポートし続けた「ミキハウス」――ふたりが所属する両社の関係者のご苦労を思う。

 日本のスポーツ選手、とりわけトップ選手を支えているのは企業である。物心両面からの支援と簡単に言うが、生活支援や活動資金の提供に加えてサポート人材の確保、競技によっては練習施設や合宿施設の確保や応援など、活動は多岐にわたる。当然、それらを統轄する管理部門も必要となる。一声で会社が動くオーナー企業ならともかく、経営者の趣向によって容易に操作できるものではない。全社を挙げたプロジェクト、あるいは企業戦略として位置づけられているといっていい。

 日本にはかつて、「失われた20年」と称された時代があった。1990年代初頭から2010年代初頭の日本経済が低迷した時代を指す。当時、企業スポーツ部の休廃部が相次ぎ、社会問題として取り上げられたこともあった。現在、沈静化しているのは事態が好転したというよりも、景気動向による企業スポーツ部の休廃部、あるいは統合が常態とはいえないまでも「企業の生き残り」のためには致し方ないと諦観にも似た思いがあるからかもしれない。他方、IT企業など先端の新興企業群の流入もあり、相対化してみれば落ち着いた状況にあるといってもいい。

2.なぜ企業はスポーツを支えるのか

 企業は何を目的にスポーツを支援しているのだろうか?

 いささか古いが、2015年に笹川スポーツ財団がバスケットボール、バレーボール、ハンドボール、野球、ラグビー、柔道、陸上競技、卓球、バドミントンの9競技144チーム(男子89、女子55)を対象に調査した結果がある。チーム保有の目的として「従業員の士気高揚・一体感醸成」が63.8%と最も高く、次いで「企業による地域社会への貢献」が26.1%、「企業名の宣伝・広報」8.1%であった。

 早稲田大学の武藤泰明教授は笹川スポーツ財団編『企業スポーツの現状と展望』(2016年・創文企画)に寄せた論文で、企業がスポーツを保有する目的は「3点あると考えられる」として、以下の3つを挙げた。

 a.ブランディング:企業や製品・サービスの広告効果を目的とする

 b.組織活性化:従業員や取引先の一体感の醸成を目的とする

 c.地域貢献:コーポレート・シチズンシップの実現を目的とする

 武藤教授は、このうち歴史的な流れとして「bの組織活性化」があり、「テレビの普及と1964年東京五輪によって、企業スポーツは広告宣伝媒体として認識され」「地域貢献という親会社の目的を遂行する手段として位置づけられるのはずっと下って1990年代半ば以降、企業スポーツの存続が危ぶまれるようになってから」だと指摘。同時に「上に述べたような三つの目的は、スポーツ以外の手段によっても達成できる」と分析する。

 スポーツを必要としなくともブランディングや組織活性化、地域貢献は達成できる。あえてスポーツを選択した(する)企業こそ、スポーツ、なかでも組織的な強化とともに個人の強化が重要であるオリンピックにとって掛け替えのない存在というほかはない。

 前回2016年リオデジャネイロ大会で、日本は12個の金メダルを獲得している。16人の選手が獲得した金メダルだが、このうち11人、68.75%が企業選手だった。企業依存の高さを如実に示している。今回の東京でも先に挙げた柔道を例にとると、代表に内定した男女7階級14選手のうち日本体育大学在学中の阿部詩(女子52キロ級)と環太平洋大学を中退し母校・南筑高等学校を拠点に独自の調整を続ける素根輝(女子78キロ超級)を除けば12人、75%が企業選手(大学職員,自衛隊を含む)である。

3.日本初のメダリストは企業人

 日本がオリンピックに初めて参加した1912年ストックホルム大会。出場したのは陸上競技短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三のふたりであった。三島は東京帝国大学、金栗は東京高等師範学校(現・筑波大学)に在学する学生選手である。

 いわゆる近代スポーツは明治初期、欧米から“輸入”された。主として「お雇い外国人教師」によって大学など高等教育機関、あるいは陸・海軍にもたらされた。学校や軍隊を“ゆり籠”に育っていくもののスポーツをする層は限定的で、ストックホルム大会に関して言えば予選会から厳しく出場資格も制限された。学生や地域青年団から推薦された者に限られ、脚力を誇る人力車夫や郵便配達人などは排除された。肉体労働により報酬を得ている者に出場資格は与えられなかった。

 第二次大戦前、日本は6つのオリンピック競技大会に延べ389選手を送り、うち255人、65.56%が学生選手であった。

 「会社員」としての企業選手がオリンピックに出場したのは1920年アントワープ大会を嚆矢とする。日本にとって2度目のオリンピックには15選手を派遣、うち10選手が学生。では5選手が企業選手であったかというと、そうではない。陸上十種競技に出場した野口源三郎は大日本体育協会幹事、マラソンの金栗は同協会技術委員の肩書を名乗った。ふたりとも今でいう大学教員。この年に第1回大会を開催した「箱根駅伝」を創始した人物である。長距離の佐野幸之助もまた、松江青年会所属で企業人ではない。

 残りの2人が初めて企業が支えたオリンピック選手、それも飛びっきりの足跡をスポーツ史、オリンピック史に残した人物だった。

熊谷一彌

熊谷一彌

 テニスの熊谷一彌と柏尾誠一郎。熊谷はシングルス、および柏尾と組んだダブルスで銀メダルに輝いた。いうまでもなく日本が獲得したオリンピック初メダルである。

 慶應義塾大学時代に軟式から硬式に転向した熊谷は1915年、上海で開催された極東選手権でシングルス、ダブルスで優勝。軟式時代に身に着けたトップスピンをかけた左腕からのショットを武器に、トップ選手としての地歩を固めていく。ちなみにダブルスのペアの相手こそ、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業後に三井物産に入社、当時上海支店に勤務していた柏尾にほかならない。

柏尾誠一郎

柏尾誠一郎

 翌1916年、早稲田大学OBで日本の硬式テニスをリードした三神八四郎の誘いで渡米した熊谷は、滞米3カ月、数々の大会に出場して腕を磨いた。帰国後、慶應先輩の勧めで三菱合資銀行部(現・三菱UFJ銀行)に入社し、すぐニューヨーク支店勤務となった。熊谷の才能を知る財界人が三菱財閥の総帥、岩崎小弥太に直訴した成果だとされる。

 1918年に全米ランキング8位、1919年には同3位までランクをあげた熊谷に日本から声がかかる。米国在住のまま、1920年アントワープ大会に出てほしい。このとき柏尾もまた天の配剤か、三井物産の配慮か、ニューヨーク支店に勤務。テニスの本場で活躍し、オリンピックのメダルに集束していった。

 同じ年のウィンブルドン選手権チャレンジラウンド決勝に進んだ清水善造は、東京高商から三井物産に進んだ柏尾の同僚である。同時に熊谷に続く存在として世界のテニス界から注目を浴びた。3人がチームを組み、デビスカップに初出場したのは翌1921年。米国には敗れたものの、チャレンジラウンド決勝に進んで日本テニスの実力を見せつけた。

 このとき清水の渡航をめぐり反対論が起きた。第一次大戦中の好景気の反動で1920年になると戦後恐慌が起きて銀行の取り付け騒ぎが相次ぎ、経済界は緊縮財政を迫られた。1社員の1競技大会出場に多額の失費を行うのはいかがなものかと、意見が渦巻いた。窮地を救ったのは三井幹部の理解であり、三菱の支援だった、と『スポーツ八十年史』(日本体育協会編)にある。

 いうまでもなく三井、三菱には彼らの名声を利用したいとする下心がなかったとはいえない。しかし両財閥とも決してそれを表に出さず、それぞれ選手たちに自由にふるまわせた。そこに両財閥の「偉さ」と「戦後の企業に学ぶべきこと」がある。清水を主人公とした『やわらかなボール』を書いた作家、上前淳一郎も、それを引用し『企業スポーツの栄光と挫折』をものした北海学園大学の澤野雅彦教授も、スポーツを単なる広告宣伝の道具としてはならないと説く。同感である。

 熊谷の業績を考えるとき、いつも岩崎小弥太が制定した三菱財閥の『三綱領』を思う。「所期奉公」は社会への貢献、「処事光明」はフェアプレイの徹底、そして「立業貿易」はグローバルな視野と解釈できよう。熊谷を支えた精神であるといっていい。

4.ニチボー貝塚の栄光

 1920年、官営八幡製鉄所(現・日本製鉄)は「溶鉱炉の火は消えたり」と称されたストライキに見舞われた。後に8時間労働の契機となった争議だが、懐柔策のひとつとして翌1921年に職場野球大会を実施している。

 日本最初の野球チームは、米国留学から野球を持ち帰った鉄道技師、平岡熈が新橋鉄道局内に組織した新橋倶楽部、通称「アスレチック」である。鉄道の普及、拡大によって全国に鉄道野球チームが結成され、明治から大正期には11の鉄道局野球部が存在した。1921年には鉄道開業50周年を記念した全国鉄(現・JR)野球大会も開催された。東京鉄道局野球部設立趣意書は「職員の健康増進と精神訓練のため、また職場の明朗化と情操を豊にする目的」と記す。全国の鉄道局野球部の創設もこれに準じていよう。それが八幡製鉄所の職場野球大会にも影響を与えたと考えたい。鉄道、製鉄、造船等の基幹産業に企業スポーツとしての野球が拡大していった。

 一方、女子のスポーツとしてはバレーボールが普及していく。この時期、日本経済を牽引した繊維産業は若い女子の労働力に支えられ、彼女たちの健康と気晴らしのために導入された。1913年、鐘淵紡績(現・トリニティ・インベスティメント)の工場で男子の強豪、神戸高等商業学校(現・神戸大学)の学生が指導。「東洋の魔女」として知られた大日本紡績(ニチボー、現・ユニチカ)には1923年に「福利厚生」の一環として導入された。

 福利厚生からクラブチームへ、やがて興り始めた実業団大会に参加し、対抗性、競技性を高めていく。企業スポーツの変容である。

 第二次大戦からの復興に伴い、スポーツの国際化も進行。所属のトップ選手たちへの世間の期待値があがるにつれて、企業は「社員の士気高揚」と「企業名の浸透」「企業の好感度」を意識していく。日本代表選手を支援することで「社会的な影響力」も増した。

 以上は1964年の東京オリンピック開催前夜の話である。1950年の朝鮮戦争による特需から高度経済成長のきっかけをつかみ、1955年から1973年まで平均10%以上の経済成長を達成。1968年には国民総生産(GNP)が世界2位にまで駆け上がっていく。人々の暮らしが変わり、企業がスポーツに目を向ける余裕が生まれた。そんな時代であった。

 笹川スポーツ財団の調査によれば、オリンピック代表に占める企業選手の割合は1960年ローマ大会の32.2%から1964年東京大会では48.9%にまで跳ね上がり、初めて学生選手を超えた。学生選手は49.7%から31.8%と減少、主役は交代した。

 以降、企業選手がオリンピック代表で学生選手の下風に立つことはなく、東京大会と並ぶ16個の金メダルを獲得した2004年アテネ大会は63.1%2012年ロンドン大会では63.8%にまで比率を伸ばした。

1964年東京大会で金メダルを獲得した「東洋の魔女」。表彰台に立つのは河西昌枝主将

1964年東京大会で金メダルを獲得した「東洋の魔女」。表彰台に立つのは河西昌枝主将

 転換点となった1964年大会を象徴するのは女子バレーボール「ニチボー(日紡)貝塚」だと言い切っても異論あるまい。1953年に全国各地にある日紡工場のバレーボール部活動を貝塚工場に統合、大松博文監督指導のもと常勝チームとなった。1961年の欧州遠征で22戦全勝の記録を残し、「東洋の魔女」の異名をとる。そして1962年世界選手権には日紡貝塚単独チームで出場、宿敵ソ連(現ロシア)を倒して優勝を遂げた。この時点で大松は辞表を出した。主将の河西昌枝ら適齢期を迎えていた選手たちの結婚を意識し、“魔女解散”を真剣に考えたのである。

 しかし、近づく東京大会を前に世論がそれを許さなかった。もはや企業チームを超えた存在となった魔女たちはニチボーの社員たちの献身にも支えられ、「回転レシーブ」に金メダルの夢をかけていくのだった。

 オリンピック本番、大松が望んだ「ニチボー単独チーム」は許されず、倉敷紡績の近藤雅子とヤシカから渋木綾乃をいれて12人の混成チームを編成。無敗でぶつかったソ連との決勝戦を3-0のストレートで勝利、頂点に立った。この試合のNHKテレビの平均視聴率は66.8%を記録。今も破られないスポーツ放送の金字塔となっている。

 栄光の企業チームは日本レイヨンとの合併後、ユニチカと名を変えて活動。しかし「失われた20年」ただ中の1997年、貝塚工場が操業を停止、2000年に活動を停止した。企業の業績に影響をうける企業チームのありよう象徴であり、今なお華やかに語られる1964年東京大会が落とした影である。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。