2021.02.24
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2021.02.24
オリンピック放送はテレビ局の仕事の中で最も難しいものだと言ってよいだろう。難しさの一番の原因は、短期間に膨大な数の競技が行われるところにある。サッカーのワールドカップも大イベントと言われるが、1カ月ほどの間に64試合、時間にして大体128時間の競技が実施されるだけだ。
一方、夏のオリンピックでは17日間に33競技、339種目(2020東京大会での予定)が行われ、競技の総時間数は4000時間を超える。実にサッカーワールドカップの30倍以上の競技を半分の日程で実施するわけだ。これがオリンピックの組織運営が大変難しいと言われ、同時にオリンピックが「世界最大の放送イベント」と呼ばれるゆえんである。
オリンピックが初めてテレビで中継されたのは、1936年のベルリン大会だった。オリンピックに国威をかけたヒトラー政権下の「ドイツ帝国放送会社」は陸上競技、水泳など4カ所の会場にカメラを置いた。毎日3回の放送を行ったが、このうち生中継は期間を通じて合計72時間であり、残りは現像設備を積んだ車の屋根に取り付けたフィルムカメラで撮影し、それを直ちに現像して放送に使用した。この放送は実験的なもので、テレビの規格も走査線がわずか180本と、現在のテレビが1125本であるのと比べれば、相当にきめの粗いものであった。この映像はベルリン市周辺とライプツィヒのあわせて28箇所の「受像所」に送られた。受像所とは入場料を取って客を入れる小さなホールで、画面の対角線の長さが50センチ、19インチ型相当の、当時としては大画面のテレビジョンで放送を見せた。このテレビは最近まで広く使われたブラウン管ではなく、画像をできるだけ大きく見せるために作られた「投写型キネスコープ」という形式だった。画面の大きさは様々だったようで、NHKのベルリンオリンピックの放送調査報告書には「受像面の大きさは新聞紙四頁大(100×120糎)にして100名が観覧し得、なお300名を観覧せしめ得るものもありたり」と書かれている。これは現在の一般的な液晶テレビより大きいほどの60インチ型程度に相当する。いずれにせよ画面を光学的に拡大・投射したものだから大変に見にくかっただろう。競泳の中継を見た当時のNHKの技術者が、プールで泳いでいるということは何とかわかるが、どれが前畑かゲネンゲルかはまったく判然としなかった、と言ったという。
ベルリンの次に予定されていた1940年の東京大会が幻のオリンピックに終わったことは周知であるが、同時に日本のテレビジョン放送開始も幻に終わったのである。ベルリン大会の翌年(1937年)、日本の
放送計画は以下のようなものであった。駒沢の陸上競技場など主な競技場に固定の中継所を設けるほか、馬術とヨット会場にはテレビジョン自動車を派遣し無線中継をすること、学校や公会堂などに公衆用受像器設備を置くこと、東京から大阪へ同軸ケーブルで映像を送信し、さらに松山、北九州などへ超短波で送信して全国の8都市で放送を行うことなど、大変に意欲的なものだった。
このまま計画が進めば、日本のテレビ放送は1940年(昭和15年)の秋には始まっていただろう。しかしテレビジョンの規格が決まって半年もしないうちに、第二次上海事変が起き日中戦争が本格化した。1938年7月、日本政府はオリンピックの返上を決定、主目的を失ったテレビ放送計画も頓挫し、実際の放送開始は戦後にずれ込むことになる。一方、ベルリン大会の時に初の放送を行ったドイツも戦争で壊滅的な打撃を受け、戦後分断された西ドイツでテレビ放送が始まったのは終戦後7年たった1952年、東ドイツはさらに遅れたのであった。
1960年ローマ大会自転車競技場のテレビ記者席とモニター
テレビのオリンピックが「近代」を迎えたのは1960年のローマ大会であった。この大会でビデオテープを使う録画機(VTR)が初めて使用された。VTRはその4年前にアメリカのアンペックス社が開発したもので、2インチ幅のテープを使い、フィルムと違って現像工程を経ずにいきなり再生できる強みがあった。(家庭で最近まで使われていたVHS方式は1/2インチの幅である。当時はその4倍も幅の広いテープだったわけだ)またビデオテープはテレビ映像の初の保存手段でもあった。それ以前は、テレビの画面に向かってフィルムで撮影する以外には、テレビ映像を保存する手段はまったくなかったのである。ローマ大会のホスト放送機関となったRAI (イタリア放送協会)はローマ大会でこのVTRをいい場面のリプレイにも使用した。この時はスローモーションはまだ不可能だったので、同速再生であったが、サッカーのゴールや100mのフィニッシュを、直後に二度、三度と繰り返して見られることは革命的な変化であった。VTRの導入によって、テレビはフィルムとは全く異なる媒体としての特性を備えたと言える。
1964年東京大会のマラソン中継車
1959年のIOC総会で5年後のオリンピックの東京開催が決まると、ただちにオリンピック放送準備委員会と放送技術対策委員会が発足した。1940年の幻の東京オリンピックに向けて初期のテレビジョン技術を開発した技師たちの多くがまだ現役であったし、かつて中断せざるを得なかった技術開発の花を咲かせたいという放送局やメーカーの意欲は高かった。その結果、東京オリンピックの放送には数多くの革新的な技術が導入された。
東京オリンピックで実用化したテレビの新技術は数多くあるが、時代を大きく画するものだったのは次の3つである。まずスローモーションVTRの開発、次に衛星伝送による大陸を越えた映像の生中継、そしてヘリコプターで電波を反射して行ったマラソンの完全生中継である。
スローモーション自体は、それ以前にも、フィルムの高速度撮影によって可能ではあったが、今現在行われていることを、わずか数秒後に速度を落としてはっきり見直すことができるスローVTRは、スポーツの見方に革命的な変化をもたらしたが、これは東京オリンピックで始まったテレビの見方なのである。今では家庭用DVDプレーヤーですらスロー再生ができるが、1964年のスローモーションVTRは収録再生部分とメモリー部分の2つに分かれた巨大な機械で、収録再生部分だけでも幅2m、高さ1.8m、重さは実に1200kgもあった。この巨大な機械で速度を5分の1に落としたスローモーションが可能になったのである。
人工衛星によるテレビ国際中継については、NHKとKDD(現在のKDDI)が共同で1960年11月から準備を始め、1963年11月23日にアメリカから日本に向けてリレー1号衛星を使った実験に成功した。奇しくもこの日にケネディ大統領がダラスで狙撃され、送られてきた実験映像は大統領暗殺という歴史的なものであった。逆に日本からアメリカ向けの伝送実験はオリンピックの開催年にまでずれ込んだ。開会式が7カ月後に迫った1964年3月に郵政省はNASA(米国航空宇宙局)に対して、これから太平洋上に打ち上げられる静止通信衛星シンコム3号を使って衛星伝送を行いたい旨申し入れた。シンコム3号を使っての伝送テストはオリンピック開会式の2週間前にようやく始まり、使用に耐えうるとの結論が出たのは10月2日、開会式のわずか8日前というぎりぎりのタイミングであった。
東京オリンピックのテレビ映像は衛星経由でアメリカに送られ、NBCが放送した。またヨーロッパの放送局は、同じ衛星からの信号をロサンゼルスで受けてカナダのモントリオールまで地上マイクロ回線で送り、空港の横に止めた中継車で録画した。このビデオテープは直ちにハンブルクとロンドンに空輸され、欧州全土で放送されたのであった。
衛星中継によりオリンピックは、世界のどこで開かれようが生で見ることが可能になった。この技術は「会場に居ない膨大な数の観客」を世界中で作り出し、その後のオリンピック大会の隆盛の基礎を築いた。1996年のアトランタ・オリンピックではインテルサット(国際電気通信衛星機構)が所有する24基の衛星のうち10基の衛星を使い、競技映像を世界の150の国・地域に中継するまでに発展したのである。
1964年東京大会マラソンで使用されたNHKのヘリコプター
東京オリンピックのマラソンは、国立競技場から甲州街道へ出て調布の折り返し点から同じ道を国立競技場へ戻るコースで行われた。折り返し点を含むコース沿いの9箇所に固定のカメラ位置が設定されたほかは、カメラ2台を積んだ1台の移動中継車で撮影した映像を、中継車の屋根から上空のヘリコプターにマイクロ波で送信し、ヘリコプターがその信号を反射して駒沢の管制塔を初め5箇所の受信点に送る形で行われた。テレビジョンの歴史では画期的なこの試みも、組織委員会側から見れば競技の邪魔だと思われていたようで、テレビ中継車は1台のみしか許可されず、なおかつ先頭の選手から40m以上前を走ることや、ヘリコプターからの撮影は一切認めないという厳しい制限をつけられた。
オリンピック初のマラソン完全中継が、沿道にいては絶対に見ることのできない「視点」を視聴者に与えた事の意義は大きい。沿道にいる人たちは、前を次々に通り過ぎる選手をわずかの間、横から眺めるだけであるのに対し、テレビの画面では黙々と走る選手を2時間余り見続けることができる。このマラソン中継を境に、テレビは、競技場や現場にいる人の目では不可能な視点を、スポーツ放送の視聴者に与え始めたのであった。
1964年オリンピックの放送については、当時実際にテレビジョン制作チームに加わっていた元NHKのスポーツプロデューサー、杉山茂氏が笹川スポーツ財団の「スポーツ 歴史の検証」シリーズで「オリンピックの歴史に刻まれた『テレビ放送技術の革新』」いう題で話をされているので、そちらも読んでいただきたい。
オリンピックはその後も、今に至るまで放送技術の発展を促し、新技術の真価を試される機会となり続けている。1972年の札幌冬季大会で初めて全ての競技がカラーで中継され、同年夏に行われたミュンヘン大会では無線で信号を飛ばすワイヤレス・カメラが導入された。1984年のロサンゼルス大会では競技会場から放送センターへの送信に初めて光ファイバーが使用された他、スーパースローと呼ばれる1秒間に90コマ(通常のビデオの3倍)の撮影ができるスローモーションカメラが使われた。現在も使われ続けているこのカメラは、卓球の球のように動きが早く小さい被写体でも鮮明なスローモーション再生を可能にした。
また1984年のロサンゼルス大会では、現在の標準となっている走査線数が1125本のハイビジョンカメラが初めて実験的に使われ、その24年後の2008年北京オリンピックで世界に向けた映像制作を行うオリンピック放送サービス(OBS)がこの方式を標準として採用した。
最近の10年間で最も発達したのは、様々な種類の無人カメラだろう。1994年のリレハンメル冬季大会ではスピードスケートで選手と併走する無人カメラが使用され、さらに1996年のアトランタ大会からは、陸上競技場の無人移動カメラが、選手の力走を同じ速さで移動しながら、走る選手を横から見せることができるようになった。この技術は、性能の良い小型カメラの開発と、それを動かす動力装置の安定がもたらした新機軸である。
また、4本の長いケーブルで吊ってスタジアムや体育館の空中をカメラが自由自在に動くスパイダーカム(商標名)というカメラも2012年のロンドン大会の頃から広く使われるようになった。
一方、映像・音声信号の伝送では、信号のデジタル化と海底ケーブルによる世界的な光ファイバー網の整備により次第にファイバー伝送が増加しているが、衛星伝送は今も併用されている。
2020年に予定されていた2度目の東京オリンピックでは日本の放送局の主導で4K、8Kという規格のテレビ撮影も計画された。4K、8Kというのは4千、8千の意味であり、これはベルリン大会のところで説明した走査線の数で、ベルリンでは180本だったものが4000本、8000本に増えて非常に高精細な映像が再生できる。
ただ世界では2020年現在、まだデジタル放送の始まっていない国もある。現在のハイビジョンが実験的に使われてからオリンピック標準とされるまで24年間かかったことを考えると、4K、8Kがオリンピック仕様に採用されるのはまだしばらく先のことになろう。
オリンピックは選手だけの競争の場ではない。放送局と技術者も世界の第一線であるこの場で競争しているのだ。歴代のオリンピック大会は、テレビ放送に画期的な技術を開発・実用化する機会を与え、放送技術の進歩の一里塚として、現在に至っていると言える。