2021.05.14
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2021.05.14
石原慎太郎東京都知事と握手する長嶋茂雄(2007年3月5日)
あれは2007年3月5日のことだ。2016年夏季オリンピック・パラリンピック招致に東京が名乗りを上げ、招致委員会の発足パーティーが東京プリンスホテルで行われた。招致委員会会長の石原慎太郎東京都知事が「日本人の連帯感を取り戻すため、東京でもう一度オリンピックを行いたい」と語った直後、予定になかった長嶋茂雄が飛び入りで参加。旧知の知事と左手で固く握手を交わした。
2004年3月5日、野球の日本代表監督として臨むはずだったアテネ大会を目前に、脳梗塞に倒れた。
一時は生死の間を彷徨い、それでも「アテネに行くんだ」と過酷なリハビリを開始。右半身に後遺症は残ってはいたが、まる3年後の元気な姿に会場は大きな歓声と拍手に包まれた。
残念ながら、石原や長嶋の思いは届かず、招致は果たし得なかった。しかし、それが次の2020年大会招致成功の礎となったことは言うまでもない。
プロ野球の枠を超え、戦後の日本と日本人に希望を与え続けてきた長嶋茂雄は、「オリンピックは特別な存在」と公言してはばからない。そして、病に倒れた後も「オリンピックに行きたい」と言い続けたことはよく知られている。だから今も、東京オリンピック・パラリンピックの開会式では「長嶋さんに聖火ランナーを」という声が後を絶たない。
2004年アテネオリンピック野球日本代表選手発表記者会見。中央は長嶋茂雄監督
時計の針を、長嶋茂雄が脳梗塞に倒れた前の日に戻す。その日は、プロ野球12球団のキャンプを歴訪、アテネ大会で勝つことが日本球界にとっていかに重要かと力説した。理解と協力を取り付けて帰京。年初から久しぶりに迎える3日間の休日初日にあたった。翌日のゴルフに備え、午後10時には床に就いた。
その早朝である、体に異変が起きたのは。何とか起き上がろうとしたが、身体の自由がきかない。そのままいびきをかいて眠りこんだようだ。
この項は、サンケイスポーツが企画したトレジャーブック『長嶋茂雄』のライター村井優子の文章を参考にしている。2012年暮に出版されたこの本は2013年2月に東京発刊50周年記念として、また同時に喜寿を迎える長嶋を記念し、当時サンケイスポーツ代表だった私がプロデュースした。編集作業の終わり、長嶋のロングインタビューを行い、村井ととともに同席、直接聞いた話である。
「当時はね、体がどういう状態か自分自身でもわからなかったのね。まさか病気になるとは思わなかったからね」
眠り続けていた長嶋の目が覚めたのは2日後、病院のベッドのうえだった。
「目覚めてまず頭に浮かんだのはアテネのこと。早くチームに戻らなきゃ、と思いました。今思えばおかしなことなんだけど、そんな大変なことが起こったという認識はないし、身体も動くものと思っているから、もうオリンピックのことしか頭にない…略…『早く治してオリンピックに行かなきゃ』とそればかり考えていました」
長嶋が倒れた日、産経新聞運動部長だった私はアテネ大会組織委員会が主催したプレスツアーに参加、ギリシャにいた。日程の合間を縫いアテネから自動車で5時間かけてたどり着いた古代オリンピックの聖地、オリンピアのヘラ神殿跡で一報をうけた。逐次、携帯電話で連絡をとりながら指示を出したが、東京は大混乱のただ中にあった。
医師から「寝たきりになるかもしれない」と言われながら、長嶋は5日目からリハビリを始めている。「だけど右足が動かない。右腕も動かない」――ようやく自分の病状の厳しさを理解したのは倒れて2、3週間後。「最初はアテネのことばかり気になっていたからわからなかったけど、どうやらこれはいやな病気なんだ、という気持ちがだんだんでてきました。でも落ち込むというのはなかった。『よし、それじゃあ病気と勝負しよう』と思いました。小さいころからずっと野球やって、勝負してたでしょ。あらゆる勝負をして、経験をして『絶対負けるもんか』というものを持っていましたからね」
病床の長嶋を支えたのは「アテネに行く」との思い。しかし、到底行けるような状態にはなく、結局、7月に「断念」を発表した。
2004年アテネ大会野球・日本対オーストラリア。中畑清監督代行の後ろに「3」と描かれた日の丸と背番号3のユニフォームが掲げられている
長嶋茂雄は自由の効く左手で日の丸の旗に「3」と書き込み、監督代行を務める中畑清に託した。日の丸は、背番号「3」のユニホームとともにアテネ大会のダグアウトに掲げられ、“長嶋JAPAN”の闘いを見守った。
初めて野球がオリンピックに登場し、日本が金メダルに輝いた1984年ロサンゼルス大会と銀メダルの1988年ソウル大会は公開競技。正式競技となった1992年バルセロナ大会の銅、1996年アトランタ大会銀メダルを経てプロ選手参加が解禁された2000年シドニー大会にはプロ、アマ混成で臨んだ。しかし結果は4位。アテネではメダル奪還、それも金メダル奪取をかかげて、すべてプロ選手で編成することになった。
監督として白羽の矢が立ったのが2001年のシーズン限りで2度目の巨人監督を勇退した長嶋。あこがれ続けた日の丸を背負って「オリンピックに出たい」という思いが大役を引き受けさせた。2002年12月である。
翌2003年3月には日本オリンピック委員会(JOC)エグゼクティブアドバイザーに就任。競技の枠を超えて強化の一翼を担い、本職の監督としても精力的に動いた。自らデザインして左胸と背中の「日の丸」を大きく、縦縞を少し太くしてユニホームを改造。食事への配慮から専属シェフの同行を決め、エネルギー大手「ENEOS」とのスポンサー契約にまで関わった。すべては日の丸をセンターポールに掲げるための行動だった。
アジア最終予選を兼ねた「アジア野球選手権2003」は11月5日から7日、札幌ドームで行われた。中国、台湾、そして韓国を下して優勝、アテネの切符を勝ち取った。しかし長嶋は初めて味わうプレッシャーがあったと話す。「選手、監督と巨人ではプレッシャーには慣れっこでしたが、それまで体験した重圧とはまったく異質でした…略…大差の勝ち試合でもへとへとでした。背負った日の丸の重さですね。喉は乾くは、ドキドキするは、これはすごかった。体験したものでないとわかりません」(SECOM『月刊長嶋茂雄』第22回・2012年7月2日)
東京に戻った長嶋は羽田空港から病院に直行、2日間通院して点滴治療をうけた。村井は「後から思えば、これが体から発せられた小さなSOSだったかもしれない」と書いている。4カ月後、長嶋は倒れた。
松坂大輔や上原浩治、黒田博樹ら投手陣と高橋由伸、宮本慎也、福留孝介たち野手組のアジア選手権代表に、岩隈久志や中村紀洋などが加わった日本代表。1次リーグを首位で突破したものの、準決勝でオーストラリアに敗れた。それでもカナダとの3位決定戦に勝利し銅メダルを持ち帰った。長嶋は選手たちを成田空港に出迎えた。「金でなくて申し訳ありません」と頭を下げる主将の宮本たち1人ひとりに「よくやった」「ご苦労さん」と笑顔で声をかけた。まだ短い言葉しか発することができない頃だった。
長嶋茂雄はなぜ、オリンピックに憧れにも似た思いを抱いたのか? 長嶋の歩みを、オリンピックを軸に追ってみたい。
1936年2月20日、千葉県印旛郡臼井町(現・佐倉市臼井)に生まれた。ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで開催された第4回冬季オリンピックが幕を閉じて4日後である。この年の夏、ベルリン大会が開かれたが、赤ん坊には何の記憶もない。
第2次大戦による2度の中止を経て戦後初の開催となった1948年ロンドン大会は佐倉・臼井二町組合立中学(現・佐倉中学校)1年生。野球部に入部し1番ショート、1年生からレギュラーになった。日本がオリンピックに復帰した1952年ヘルシンキ大会は佐倉一高2年。後年ライバルとなる阪神・村山実の異名「ザトペック投法」のもととなったエミール・ザトペックが陸上5000m、1万m、マラソンに優勝、長距離3冠となった大会である。しかし、野球に打ち込む長嶋には縁のない世界であった。1956年メルボルン大会は立教大学3年、春季リーグ戦で打率4割5分8厘、初の首位打者に輝いた。三塁手として2年の秋からベストナインに選ばれていた。
ちょうどこの頃、日本初のオリンピック金メダリスト、織田幹雄から“スカウト”された。「君のスピードなら陸上の中距離に転向すればメダルも夢ではない」と。織田は日本陸上競技連盟の強化部門の中心的な存在で、招致をめざす1964年東京大会に向けて人材発掘に力を注いでいた。長嶋のダイナミックな動きが名伯楽の目に留まったのだろう。
颯爽と800mを駆ける姿を見たい気もするが、長嶋は野球に邁進。1958年立教の春夏連覇と六大学本塁打記録を引っ提げて読売巨人軍に入団し、スター街道を駆けあがっていく。「神宮(東京六大学)から後楽園(現・東京ドーム=プロ野球)にファンを連れていった」と評される社会現象となった。
1959年は昭和史、いや日本現代史に特筆されるべきエポックだといってもいい。4月10日、皇太子殿下と美智子妃殿下(今の上皇、上皇后両陛下)のご成婚があり、いわゆる「ミッチーブーム」の頂点を迎えた。
5月26日には西ドイツ・ミュンヘンで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会で、1964年大会の開催都市に東京が決まった。ライバルといわれたデトロイト10票、ウィーン9票、ブリュッセル5票を上回り、第1回投票で過半数の34票を獲得。返上した1940年大会以来の悲願が成った。
そして6月25日、後楽園球場で行われた伝統の巨人対阪神戦を天皇、皇后両陛下がご観戦になった。入団2年目、巨人の4番・長嶋は4タイで迎えた9回裏、阪神の村山が投じたストレートを左翼席に運ぶサヨナラホームラン。午後9時15分と定められていた両陛下が退出される3分前の決着だった。天皇陛下が身を乗り出されたあの瞬間、長嶋は国民的なヒーローとなり、初めての天覧試合を経験してプロ野球は国民に最も愛されるスポーツとして昇華していった。
1959年は、1954年に始まった「神武景気」に続く「いざなぎ景気」の真っただ中、高度経済成長の恩恵を受けた国民の生活が大きく変わり、その象徴としてテレビが普及していく契機ともなった。大学卒の初任給が1万円を超えたばかり、テレビの価格は6倍以上もした時代だが、北陸の小都市にあったわが家にもテレビがやってきた。世紀のご成婚をみるべく、父が無理して買ったテレビは私にとっては「背番号3」の躍動を目の当たりにできる“魔法の箱”となった。
1964年は、高度経済成長を象徴する長嶋茂雄とオリンピックが初めて正面から向き合った年である。報知新聞の企画「ON五輪をゆく」で王貞治とふたり、開会式に始まりさまざまな競技を見ては感想を述べた。陸上100mの覇者ボブ・ヘイズ、マラソンの王者アベベ・ビキラ、体操の美を競ったベラ・チャスラフスカとラリサ・ラチニナ、さらに柔道のアントン・ヘーシンク……後に数々のメディアからの問いに印象に残った選手たちの名をあげているが、いずれも頂点を極めた選手たち。「オリンピックは凄いものだ」という思いを植え付けられた人たちであった。
女子バレーボール「東洋の魔女」の活躍には、素直に「日本選手が活躍してうれしかった」と述べている。国を代表して戦う選手と応援するスタンドの観客が一体化して醸し出す会場の雰囲気、野球では味わうことのなかった世界に驚きもしている。
「日本人なら日の丸を振って、外国人はそれぞれ自分の国の旗を振って、選手はそれに奮い立ってプレーする。うらやましいと思った」「日の丸へのなんとも言えない思いは今も忘れられない」――スポーツには野球と違う宇宙があることを初めて知った。それがオリンピックへの憧憬に変わり、畏敬の念になっていったことは言うまでもない。
今更のことを書けば、コンパニオンを務めていた亜希子夫人(故人)と期間中の10月17日に報知新聞社が企画した座談会で知り合い、わずか3カ月後の1965年1月26日の挙式に突き進んだ大会でもあった。
長嶋茂雄とオリンピックはその後も不思議な縁を繋いでいく。1976年モントリオール大会が行われた年は監督2年目、前年の最下位から一気にリーグ優勝した。次の1980年モスクワ大会のときはシーズン終了後、解任が発表されて大きな騒動となった。
「球界の存亡をかけたオレの要請だから、キミ、監督を引き受けてくれ」
読売新聞の渡邉恒雄社長から、再び巨人の指揮を執るよう要請されたのは1992年バルセロナ大会が開かれた年。翌1993年にサッカーのJリーグ発足が予定され、プロ野球人気凋落の救世主としての要請である。機が熟すのを待っていたかのように球界に戻った長嶋は、ドラフトで星稜高校の松井秀喜を引き当てて人気回復の1歩を踏み出した。
1996年アトランタ大会の年には最大11.5ゲーム差から逆転優勝。「メークドラマ」が流行語となった。2000年シドニー大会の年には、王監督率いるソフトバンクとの日本シリーズON対決を制し日本一に輝いた。
長嶋は監督に復帰するまでの間に3度、東京大会を含めれば4度、オリンピックを“現地取材”した。なかで最も印象に残る大会はと問われると、1984年ロサンゼルスだと答える。東西冷戦時代のボイコット合戦でオリンピックの存在意義が薄れ、危機が叫ばれるなか、圧倒的なヒーローが「傷ついたオリンピックを癒した」と話す。
カール・ルイスである。陸上100m、200mに走り幅跳び、そして400mリレーに「勝つ」と公言して、勝ってみせた。「かつて、そんな選手はいなかった。彼はスポーツの世界を変えた」と評価するのだ。取材を通して交友を深め、ソウル大会直後にはルイスの自宅を訪問、母親の手料理に舌鼓をうった。また乞われて長嶋家で生まれた秋田犬の子犬をプレゼントしてもいる。
1991年世界陸上競技選手権が東京で開かれたとき、長嶋は日本テレビのレポーターを務めた。100mを走り終え、優勝したルイスに「ヘイ、カール」と呼びかけて話題になったが、何のことはない。すでにふたりはそうした交友を続けていたのである。あの1996年の「メークドラマ」で話題になった「勝つ、勝つ、勝つ」の原点も実は、ロサンゼルスのルイスにあったのかもしれない。思い入れの強さが伝わってくる。
長嶋茂雄とオリンピックの関わりを見てくると、改めて、確信を込めて言えることがある。「長嶋茂雄には、オリンピックがよく似合う」と……。