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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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モハメド・アリ
「カシアス・クレイ」は奴隷の名前だ

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2019.08.08

闇の中にスポットライトがあたり、その男が姿をみせると、8万3000人の大観衆は一瞬、息をのんだ。そして、ざわめきは大きな歓声と拍手に変わり、完成したばかりのオリンピックスタジアムを包み込んだ。1996年7月19日、第26回アトランタオリンピック開会式である。

1996年アトランタオリンピックの開会式、ふるえる手で聖火トーチを掲げるモハメド・アリ

1996年アトランタオリンピックの開会式、ふるえる手で聖火トーチを掲げるモハメド・アリ

光の輪のなかにいたのはモハメド・アリ。右手がぶるぶる震えて「立っているのがやっと」というようにみえた。ボクサー時代に受けた衝撃でパーキンソン病を発病したとされ、この難病と闘い続けていた。アリは競泳選手のジャネット・エバンスが運んだ聖火のトーチを渡されると、震える右手に左手を添え、聖火台に続く導火線に火をともした。火は52mもの導火線を一瞬で駆け上がり、巨大な聖火台に命を吹き込んだ。

なぜ、アリが聖火の最終点火者となったのか。

病を得ている人、まして栄光に包まれた過去をもつヒーローが病にある姿を人前でさらすことなど、少なくともこの頃までの日本人には考えもつかなかった。米国の事情に詳しい記者が解説してくれた。「アリはいまも病と闘い続けている。アメリカ人は何かに挑むことが大好きだし、困難と闘う人は尊敬されるんだ」。別の記者は違う角度からこう話した。「アトランタという南部の、公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キング・ジュニアのふるさとで開かれたオリンピックの象徴だよ。米国社会と黒人の和解をアリの姿を通して発信したかったんだ」

やがて場内にはキング牧師の1963年ワシントン大行進での演説『I have a dream』が流され、スティービー・ワンダーが弾くジョン・レノンの『イマジン』が会場を覆った。アリは大会の象徴となった。

1942年1月17日、モハメド・アリはケンタッキー州ルイビルに看板書きで生計をたてる父カシアスと母オデッサとの間にカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアとして生まれた。アフリカ系米国人だが、イングランドとアイルランドの血を引いていた。

カシアス少年は父からプレゼントされた赤い自転車を乗りまわすのが好きだった。1954年、12歳になったある日、コロンビア公会堂の黒人バザーにでかけて、その大事な自転車を盗まれた。公会堂の地下で若者たちにボクシングを教えていた警察官に盗難を届け、「盗んだやつをぶちのめしてやる」と話すと、彼は「強くなりたけりゃ、ボクシングをやれ」と言った。警察官は自分がトレーナーを兼ねていたジムを紹介してくれた。自転車を盗まれた怒りをぶつけるようにカシアス・クレイはボクシングにうちこんだ。

「黒人だから」とうけた差別も、「ボクシングで強くなれば変わるだろう」。クレイはそう考えていた。

中学から高校に進み、ケンタッキー州の大会に6度優勝、全米でも2度優勝。1960年ローマオリンピックの代表に選ばれた。スポーツ・イラストレイテッド誌はクレイを、「金メダル最有力選手」と書いた。そして"予告通り"、見事にライトヘビー級の金メダルを獲得するのだ。

1960年ローマオリンピックのボクシング・ライトヘビー級で金メダルを獲得

1960年ローマオリンピックのボクシング・ライトヘビー級で金メダルを獲得

金メダリストは英雄として称賛され、立寄ったニューヨークではちやほやされた。ソ連(現在のロシア)の記者から「黒人が入れないレストランもある国のために金メダルを獲るのはどんな気持ちか」と聞かれると、こう答えた。「この国にはその問題に取り組んでいるちゃんとした人がいるってことを、あんたの国の読者に伝えてくれ。僕にとって米国は世界で最高の国なんだ」

ところが、意気揚々とルイビルに戻ると、やっぱり「黒人はお断りだ」とたたき出された。失望して、首から提げていた金メダルをオハイオ川に投げ捨てた。よく知られたエピソードだが、実は伝説である。ソ連記者とのインタビューで白人よりの発言をしたことをとがめられ、金メダルをオハイオ川に投げ捨てたという話も伝説だ。金メダルは掛けたり、外したりしているうちに紛失したのが真実らしい。

ともあれ、クレイはオリンピックをきっかけに1960年10月29日、プロに転向。白人ボクサーのタニー・ハンセイカーとのデビュー戦を6ラウンド判定で勝利した。

ルイビルで、相手を倒すラウンドを発表し予言通りにノックアウトするボクサーがいると話題になるまでに時間はかからなかった。プロモーターの目に留まり、1962年初めにはニューヨークでのデビューを果たす。この年11月15日、盛りを過ぎてはいたが元世界ヘビー級王者アーチ・ムーアに予言通り4ラウンドKO勝ち、さらに1963年3月13日には元世界ライトヘビー級王座挑戦者のダグ・ジョーンズに10ラウンド判定勝ちするなど、6月までにプロ転向後19連勝した。試合前にKOするラウンドを予言、その通りにやってのける大言壮語をファンが喜び、エンターテイナーの素質を発揮したクレイは大衆の目をボクシングに引きつけた。ただ、ジョーンズ戦は6ラウンドKOを予言しながら果たせず、「ほら吹きクレイ」の異名をとることになるのだが……。

オリンピック王者がプロの王者に立ち向かう。1964年2月25日、それは実現した。WBA・WBC統一世界ヘビー級王者ソニー・リストンへの挑戦だ。当時、リストンは史上最強のハードパンチャーと評価されており、「クレイのジャブはチクチク刺すが、リストンのジャブはダメージを負わせる」とまで言われ、掛け率はなんと1対7でリストンが圧倒的に優位だ。

だが、クレイは臆さない。「チクチク刺す」を逆手にとって、トレーナーのドゥルー・バンディーニ・ブラウンが言い出した有名な「蝶のように舞い、蜂のように刺す」という言葉で大騒ぎし、「8ラウンドでオレの偉大さを証明してやる」とリストンを挑発したのは試合前の計量のときである。

試合は一方的だった。リストンの重たいジャブをクレイが右に左に蝶のようにかわし、的確に鋭いジャブで刺していく。そして7ラウンドのゴングがなった後、チャンピオンはもう椅子から立とうとはしなかった。6ラウンドTKO。新チャンピオンは叫んだ。「オレは王者だ!」「オレは美しい!」「オレは素敵だ!」「オレは最高だ!」、そして「オレは偉大だ!」と。

カシアス・クレイは大言壮語、ではなく有言実行、世界の王者に駆け上がった。それは米国だけではなく、世界のボクシングファンを興奮させた。父親の影響だったのか、北陸の小都市に住んでいた小学3年生の私もなぜかクレイの勝利を覚えている。

頂点に立った翌日、新チャンピオンはさらに衝撃をもたらす。ネーション・オブ・イスラーム(NOI)入信を公表したのだ。「ブラック・ムスリム」と称され、奴隷化される前のアフリカ系アメリカ人の宗教はキリスト教ではなくイスラムだと説き、白人社会への同化を拒否し黒人の経済的自立をうながす運動である。

クレイは、「奴隷の名前だ」とカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアの名前を捨て、モハメド・アリに生まれ変わった。

クレイ時代は、黒人ではあるが白人の既存勢力の価値観にあう"善良な青年"とみられていたのにくらべ、アリは議論を巻き起こす存在となっていく。

1966年2月、ベトナム戦争が本格化するなか、徴兵猶予願いが却下されたアリはしつこい記者の質問にいらいらし、ベトコンについて聞かれて「オレはベトコンのやつらに文句はないぜ」とはきすてた。発言は翌日の新聞の1面を飾り、批判の対象となる。1967年4月28日、徴兵忌避。「自分の良心に尋ねて、命令を受け入れれば自分の宗教への信仰に忠実ではありえないと判断した」と声明を発表した。

アリは「禁錮5年、罰金1万ドル」の有罪判決をうけた。控訴し投獄は免れたものの、タイトルもライセンスも剥奪された。アリ25歳。ボクサーとしてはこれから絶頂期を迎えるときである。アリにとってはもちろん、ボクシングの歴史にとっても不幸なことではあった。

連邦最高裁が有罪判決を破棄するのは1971年6月。しかし、1970年ニューヨーク州の裁判所がライセンスの回復を認め、10月26日には世界ヘビー級1位のジェリー・クォーリーと3年ぶりの試合を行い、3回TKO勝ちするなど復帰への動きは始まっていた。 アメリカの空気の変化が背景にあった。長引くベトナム戦争への厭戦気分が反戦に変わり、ボクシングの試合をするかわりに、大学などで積極的に演説し、信念を貫き反戦活動するアリはリングから離れた3年で若者世代の象徴となっていたのである。

1968年メキシコシティーのオリンピックで、陸上男子200mに優勝したアフリカ系アメリカ人選手トミー・スミスと3位のジョン・カルロスが表彰台で抗議行動をした。アリのライセンス問題への批判も込められた。アリはもはや、スポーツの枠を超えた存在といってもよかった。

モハメド・アリ当時の写真

「キンシャサの奇跡」と呼ばれた試合がある。戻ってきたアリは次第に本来の調子を取り戻し、ついに1974年10月30日、ザイール(現在のコンゴ共和国)のキンシャサでWBA・WBC統一世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマンに挑戦する機会を得た。史上最高のハードパンチャーと呼ばれるフォアマンが圧倒的に有利と思われたが、アリは防戦に見せかけながら体力を消耗させて最後の一発で逆転。8回KO勝ちで王座に返り咲いた。

アリはその後10度防衛に成功し、1978年2月一度はレオン・スピンクスに敗れて王座を失ったものの、同じ年の9月、スピンクスに判定勝ち、3度目の世界王座に返り咲いた。引退は1981年12月11日である。

引退後、パーキンソン病との戦いを始めたアリに聖火点火の大役がまわってきたのは、アマチュアからプロ、人種差別に徴兵忌避、そして病気と闘う姿勢を貫く姿への共感だったか。国際オリンピック委員会(IOC)はアトランタ大会開催に合わせて、川に投げ入れたとされていた金メダルを復刻、アリに贈った。しかし、そこに「オリンピック100周年記念大会」を盛り上げるための思惑があったことも否定できない。

2016年6月3日、アリは敗血症のため、74年にわたる闘いの幕をひいた。

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  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。