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ビョルン・ダーリ クロスカントリースキーの「王者」

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.12.27

 史上最高のクロスカントリースキー(距離スキー)選手といえば、ビョルン・ダーリをおいて他にいない。「距離王国」ノルウェーの主軸として頂点に立ち続けた1990年代、冬季オリンピックの3大会で金メダル8個、総メダル12個を手にし、最多記録を更新した実績だけではない。スケーティング走法によって新しい時代に入った距離スキーの第一人者として長く活躍し、世界選手権やワールドカップ(W杯)でも「王者」として君臨した。

金字塔を打ち立てた長野

1998年長野冬季大会クロスカントリースキー50km フリー、ヨンソンを捉え前に出たダーリ(先頭)

1998年長野冬季大会クロスカントリースキー50km フリー、ヨンソンを捉え前に出たダーリ(先頭)

 冬季オリンピック長野大会はノルディックスキー・ジャンプの船木和喜や原田雅彦ら地元日本勢の活躍で盛り上がり、スノーボード初実施やアイスホッケー女子種目の導入で新たな扉も開いた。30歳のダーリはその偉業で、1924年第1回シャモニー大会から行われる伝統の距離スキーで傑出した、唯一無二の存在となった。

 既にオリンピック2大会で金5個、銀3個、世界選手権4大会で金9個、銀4個、銅2個のメダルがあり、最強ノルウェーの大エースだった。大会前のW杯で74勝と他を圧する成績を持って白馬村にやってきた。

 オリンピックで金メダル一つを取るだけでも大変なのに、いくつ取るかが話題に上る選手はそういない。ところが29日、最初の30kmクラシカルで足をすくわれた。「オリンピックで最もきつい」と評判になった会場の「スノーハープ」に屈した。通常の滑走技術や持久力だけではなく、細かなアップダウンがある斜面のリズム変化や日なたと日陰で大きく変化する雪質への対応も問われた。降雪により難しくなった止めのワックス選択に失敗し、力を出せないまま20位に終わった。

 3日後、2レース目の10kmクラシカルで、大会の主役は誰か、を強烈に示してみせた。降雨、気温の上昇のため、またも厳しい条件となったが、今度はワックス選択を間違えなかった。180cm78kgと距離スキー選手としては大柄な体を躍動させ、最初から飛ばした。二つのチェックポイントをトップで通過し、余裕を持って冬季大会最多タイの6個目の金メダルに輝いた。

 後はいつものように、力強く、リズムに乗って滑るだけだった。1日置いた距離複合後半(15kmフリー)は26歳のトーマス・アルスゴールに最後の直線で抜かれたものの、銀メダルは確保した。

 その国の総合力が問われた4日後の40kmリレーは、最終走者としてイタリアに競り負けた4年前の雪辱レースとなった。今回は第3走者で、トップを走る宿敵との差を126から05まで縮めて最終走者のアルスゴールにつなぎ、大接戦を演じた後輩は02差で先んじた。金メダル7、総メダル11の最多記録数の更新もついてきた。

 オリンピックには「大会の華」と位置づけられる種目があり、距離スキーでは男子50kmである。夏季大会の「華」マラソンと同じように、身体的な持久力と精神的な忍耐力を高いレベルで求められる。過酷な上に、疲労度が最も高くなる競技最終日に競われることが多い。長野大会も同様だった。夕刻に閉会式があった22日午前9時、各選手はフリー走法により30秒間隔で滑り出した。14日間で5レース目のダーリは「100%ではなかった」と心身ともに疲れ切った状態だった。

 どう戦うか。実は「50kmはいつも最初から飛ばしすぎていい結果につながらない」という課題があった。だから「本当にゆっくりとしたペースでレースに入った」。30秒先に出たスウェーデンのニクラス・ヨンソンを捉えても無理に引き離さず、一緒に滑った。すると気温の上昇で雪面が緩んでより体力を必要とされる設定になった。誰もがつらく、勢いだけでは勝てない。こうなれば周囲の状況を見極めて勝負所を逃さない王者は強い。

 終盤はヨンソンとの優勝争いになり、残り数キロで引き離された。「脚はへとへと。金メダルが遠のく」と思ったが、諦めなかった。ヨンソンがゴールした時、後方100mほどにいたダーリは30秒以内に入れば勝てる計算だった。力を振り絞って219でたどりつき、81差をつけて勝ちをものにした。

 何度も競り合って勝利した経験を生かし、強い心と力、技術の全てを出し切った。ゴールし、そのまま倒れ込んだ。「もう何も残っていなかった」。立ち上がってもしばらくは両脇を支えられたままだった。再びメダルの最多記録を塗り替える金字塔を打ち立て、「ダーリのオリンピック」を終えた。

新しい走法、不振の王国

 ダーリは1967619日、オスロの北100kmほどにあるエルベルムで生まれ、今のオスロ空港に近いナンネスタットで育った。活発な少年時代、いろいろなスポーツをたしなみ、サッカー選手になるのが夢だった。123歳ごろからノルディックスキーのジャンプや複合をするうちに優れた持久力が明らかになり、15歳で距離スキーに専念した。

 そのころ距離スキーに大変革が起こった。スケートのように滑る選手が出始めた。それまでは雪面に設けられた平行な2本の溝に板を入れ、左右交互に滑らせた。手を大きく振って歩く動作と同じである。推進力は下方と後方へのキック力で、それを可能にするのが板の下部中央に塗る止めワックスである。キックするわずかな間、板は停止する。新しい走法では雪面の溝は必要なく、左右斜めに蹴り出す板には滑走ワックスしか塗らない。

 旧走法に比べると1030%のスピードの増加が見込まれる。国際スキー連盟は伝統の走法を守ろうとして、これまでの走法を「クラシカル」と、スケーティングを含めたあらゆる走法を「フリー」と名付けて、レースごとに使い分けた。オリンピックで50kmはクラシカルとフリーを交互に実施するようになった。二つの走法で強くなければ総合力で上位を争えない。ダーリは新走法に素早く対応し、クラシカルの競技力も高めていった。

 古来雪国で移動の手段や狩猟の道具として生まれたスキーが19世紀、遊びの要素を加えられてスポーツへと進化した。1892年、オスロの市街を見下ろすホルメンコーレンの丘で、今も続くスキー大会が始まった。オリンピックの歴史より古く、ノルディックスキーの聖地ともいえる。「スキーを履いて生まれる」と表現されるノルウェーの人々はその核をなす距離スキーに多大な愛着を持つ。

 新走法が生まれた時期、ノルウェーの男子は「王国」と胸を張って言える状況ではなかった。世界選手権を別にして、オリンピックで頂点に立てなかった。個人戦もそうだし、40kmリレーでもソ連やスウェーデンの後塵を拝した。両国の選手は、無駄な力を使わずにより一歩に長く乗る技術に優れていた。

 1988年カルガリー大会の40kmリレーが象徴的で、1位スウェーデン、2位ソ連、3位チェコスロバキアで、ノルウェーは表彰台にも遠い6位に沈んだ。20歳のダーリは代表に選ばれたが一度もレースをすることはなかった。この大会は同国にとって、全競技を通じて金メダルゼロの惨敗でもあった。

V字回復の原動力

 4年後のアルベールビル大会までにダーリは、第一人者で探検家としても知られたべーガール・ウルバンと練習に励み、引っ張られるようにして強くなった。この2人が軸になり、チームは劇的なV字回復を遂げた。

 今井博幸は長野大会40kmリレーの7位で日本の距離スキー史上初のオリンピック入賞を果たし、2002年ソルトレークシティー大会50kmクラシカルの6位で個人種目初入賞という偉業を成し遂げた。同じ時期世界を相手に戦い続ける中で、ダーリの出現を「画期的だった」と表現した。それまでは板に乗る一歩を長くした効率のいい滑りが主流だったが、ダーリは大柄な体ながら躍動感あふれる動き、コンパクトなピッチ走法で他を圧倒した。フリー走法や一斉スタート、追い抜き方式の導入で高速化し、より駆け引きが重要となった距離スキーは、ダーリを中心に回るようになった。

 距離スキーはほとんどが有酸素運動で占められるため、他の競技よりも高い最大酸素摂取量が求められる。男子トップ選手のそれは体重1㎏当たり1分間につき80mlといわれるが、ダーリは96mlと測定されたことで知られる。人並み優れた心肺機能も味方にした。

 技術に身体能力、そしてレースでも練習でも常に100%の力を出すという姿勢が世界のトップに押し上げた。198912月にW杯初優勝。19912月の世界選手権では15㎞フリーを制して初めて世界一の座に就き、メンバーとして参加したリレーを含めてチームは金メダル3個を手にした。既に1994年冬季オリンピックが自国のリレハンメルで開催されることが決まっており、カルガリーからの復権を懸けて強化態勢が整い、資金も増えていくという好循環にもあった。

 1992年アルベールビル大会でノルウェー男子は全5種目制覇を成し遂げ、完全に復活した。24歳のダーリは28歳のウルバンとともに2本柱として支えた。得意の後半15㎞フリーで巻き返した距離複合で初めてオリンピック王者となり、50kmフリーも制した。ウルバンは残り個人2種目に勝ち、特に30kmクラシカルはウルバンを筆頭に2位ダーリらが表彰台を独占する圧勝だった。ダーリが最終走者として臨んだ40kmリレーも危なげなく勝ち、1968年グルノーブル大会以来、実に24年ぶりの金メダルに輝いた。

 夏季と冬季が2年ごとに開催されるようになった最初の1994年リレハンメル大会、W杯の総合優勝を既に2シーズン連続で果たしていたダーリは、先輩ウルバンをしのぐ存在として迎えた。期待の大きさは開会式の旗手に起用されたことでも分かる。

 最初の30kmフリーは当時新鋭のアルスゴールにかわされて2位だったが、次の10kmクラシカルを 制し、距離複合で2連覇を果たした。ノルウェーの人々が金メダルを望んだ40㎞リレーはイタリアとの大接戦となった。前回に続いて最終走者を務めたダーリはシルビオ・ファウネルと熱い戦いを演じたものの、04差で敗れた。金2個、銀2個という成績に文句のつけようはないが、肝心のリレーが長野大会への宿題となった。

オリンピックの友情

1998年長野冬季大会クロスカントリースキー10km クラシカルで、止まれないボイトを後ろからダーリが抱き抱える

1998年長野冬季大会クロスカントリースキー10km クラシカルで、止まれないボイトを後ろからダーリが抱き抱える

 オリンピックの3大会15レースで優勝8度、24度、あとは42度と201度。一発勝負の大舞台でこれだけの実績を残した距離スキー選手はいない。さらにシーズンを通して誰が一番かを競うW杯でも無類の強さを発揮した。12月ごろから翌年の3月までの長丁場でトップの状態を維持するのは至難の業である。それを軽々とやってのけた。総合優勝争いでは1989-90年からの10シーズンで優勝6度、22度、32度と王者にふさわしい成績を残した。個人戦は11746勝で、勝率約4割。2位と3位を含めると81度で、10回走ればほぼ7回表彰台に立つという計算である。体調だけではなく天候やワックス選択など多くの要因が勝敗を左右するこのスポーツでは驚異的な数値といえる。

 出場4度目のオリンピックになる2002年ソルトレークシティー大会を目指す思いを失わなかったが、19998月、ローラースキーの練習中に腰を痛めた。手術を経てリハビリテーションに励んだものの、良くならなかった。20013月、引退を表明した。記者会見の場は、ホルメンコーレンのジャンプ台にあるスキー博物館だった。

 既に自分の名前を付けたスポーツウエア会社を設立しており、競技から退いた後も不動産業にも関わって実業家としても成功した。そんな「ノルウェーの英雄」の人柄を知る出来事が「オリンピックの友情」として伝わる。

 長野大会に、26歳のフィリップ・ボイトが挑んだ。陸上の長距離強国ケニアからの初めての冬季オリンピック選手だった。雪を見てまだ2年ほどだから、唯一のレース、10kmクラシカルで太刀打ちできなかった。でも投げ出さず、完走した。ダーリの優勝タイムから2010も遅かった。92位は最下位。疲れ果ててゴールしたものだから、止まることもできない。そんなアフリカの選手をダーリが受け止め、抱きしめた。メダル授与式典を遅らせてもらい、ゴールに出迎えに行ったのである。

 感動したボイトは数週間後に生まれた長男に「ダーリ」と名付け、ソルトレークシティー、トリノと続く2大会にも出場した。2人の親交はその後も続いた。

参考文献

共同通信社配信記事

日本オリンピック委員会 第18回オリンピック冬季競技大会(1998長野)日本代表選手団報告書 1998年

ギャレット/カーケンダル スポーツ科学・医学大事典 スポーツ運動科学 バイオメカニクスと生理学 西村書店 2010年

長野1998公式映画 1998長野オリンピック 名誉と栄光の物語 1998年

国際オリンピック委員会ホームページ https://olympics.com/ja/

日本オリンピック委員会ホームページ  https://www.joc.or.jp/

LARGE NORWEGIAN ENCYCLOPEDIA  https://snl.no

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スポーツ歴史の検証
  • 三木 寛史 共同通信社編集局スポーツ企画室長。1962年生まれ、兵庫県出身。1986年、運動記者職で入社。福岡支社と大阪支社の運動部を経て運動部。担当は日本オリンピック委員会、日本体育協会、競技ではスキー、水泳など。アテネ支局長、大阪支社運動部長、スポーツ特信部長などを務めて現職。オリンピックは夏季大会のシドニー、アテネ、北京、冬季大会の長野、バンクーバーで現地取材陣に入った。