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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

キエル兄弟 ・ビョルナル・小平奈緒
メダルより貴重なもの

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2020.01.15

オリンピックに出場する選手にとって最も重要なことは、勝利してメダルを獲得することである。メダル獲得は、選手本人だけでなく、選手が所属する国・地域の人たちを感動させる。

一方、オリンピックの歴史のなかで、まれにメダル獲得と同じくらい、いやそれ以上に貴重な出来事に出合うことがある。それは選手が所属する国・地域だけでなく、世界中の人々を感動させる真実の記録である。

人間愛の金メダル(1964年東京大会)

1964年東京大会。ヨット競技(セーリング)は開会式の翌々日10月12日から始まった。初日と2日目は穏やかな天候だったが、3日目の14日は荒れ模様の天気となった。12日の風速は東の風3.3m、13日は北東の風3.8m。ところが14日は14.0mの北風。最大瞬間風速は15.0mを超えていた。

1964年東京大会、横倒しになったオーストラリア艇の救助に向かうキエル兄弟

1964年東京大会、横倒しになったオーストラリア艇の救助に向かうキエル兄弟

レースがスタートすると、強風のために支柱が折れたり帆が裂けたりして棄権する艇が相次いだ。そのなかで、先頭グループを好調に追い上げていた、スウェーデンのラース・キエル、スリグ・キエルの兄弟が操縦するHayama艇は、前を走るグレゴリー・ダウ、チャールズ・ウィンター組のオーストラリア艇が突風で激しく揺れて傾くのを見た。そのとき、1人の選手が海へ投げ出されたのだ。さらに、そこから100m走って艇は横倒しになる。もう1人の選手は艇にしがみつくのが精一杯という状況だった。落ちたのはウィンター、しがみついていたのはダウだった。

キエル兄弟は即座にレースを中断してヨットを方向転換。100mも逆走し、ウィンターの救助に当たった。2人のオーストラリア選手が監視艇に助け上げるのを確認してからレースを再開したが、キエル兄弟のHayama艇は11位でのフィニッシュとなった。

翌日、この一件を報道した新聞記事には「これぞ人間愛の金メダル」という見出しが付けられていた(毎日新聞)。兄弟はインタビューに対して、「救助するのが海の男の友情だと思ってロープを投げた。当然のルールを守っただけ」と笑顔でコメントした。

後日、2人には組織委員会から、スポーツマンシップを讃えられ「東京トロフィー」が授与された。

クロスカントリースキーの精神(2006年トリノ冬季大会)

2006年トリノ冬季オリンピック。クロスカントリースキーの女子チームスプリントの決勝が行われようとしていた。この種目は1チーム2名が1周ずつ交互に走り、3周ずつ計6周でタイムを競い合う。

チームスプリントはクロスカントリースキーの中では比較的距離が短く、激しい展開が見られる過酷な種目である。

決勝ではクロスカントリースキー発祥の地である北欧のノルウェー、スウェーデン、フィンランドの3カ国、そしてカナダがメダルを争うと予想されていた。カナダチームは、前回のオリンピックでカナダクロカン史上初の金メダルを獲得したベッキー・スコットと、前年の世界選手権で入賞を果たしたサラ・レナーのペア。優勝候補だった。

ノルウェーチームも負けられないと考えていた。前回大会でノルウェーはクロカンのメダルを多数獲得し、他を圧倒。王者としての意地があった。

さらに、ノルウェー国内でもメダル獲得は確実だと考えられており、その期待は重くのしかかっていた。ノルウェー・クロスカントリースキーチームのヘッドコーチであるビョルナル・ホーケンスモーエンにとっても、この女子チームスプリントは負けられない戦いだった。

いよいよ決勝がスタート。先頭グループは予想どおり、フィンランド、カナダ、ノルウェー、スウェーデンの4チーム。激しいトップ争いが行われる。

そして3周目。首位カナダに、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドが僅差で追ったとき、思わぬアクシデントが発生した。坂を駆け上る途中でカナダのサラのストックが折れてしまったのだ。

クロスカントリースキーは、推進力を得るためにストックが重要な役割を担っている。そのため、片方のストックを失うと、前に進む力が半減してしまうのだ。

サラはみるみる後退し4位になった。かわってトップに立ったのはノルウェーチームだ。

クロスカントリースキーのルールでは、ストックやスキー板などの用具が破損した場合、交換することが許されている。だがこのとき、予備のストックを持ったカナダチームのスタッフは、サラの異変に気づかなかった。絶望的だった。

だがそのとき、誰かがサラにストックを渡した。

ストックが2本になったサラは、そこから激しく追い上げた。4位まで後退していたカナダチームは、4周目で3位に浮上。そして、首位を走っていた優勝候補ノルウェーを抜き返し、再び1位に躍り出たのだ。

熾烈なトップ争いが繰り広がられた。結果、優勝したのはスウェーデン。カナダチームは金メダルこそ逃したものの、銀メダルを獲得した。一時トップを走っていたノルウェーは失速し、まさかの4位。メダルを逃してしまった。

フィニッシュしたサラは、ストックを渡してくれたのがカナダチームのスタッフではなかったことを知った。

実は、ストックを渡してくれたのは、ノルウェーチームのヘッドコーチのビョルナルだったのである。このことはカナダで大きく報道された。あのとき、もしサラにストックを渡していなければ、ノルウェーは銅メダル以上が確実だった。

数日後、サラとベッキーはビョルナルに会った。お礼の言葉を伝えるとビョルナルは言った。

「僕は普通のことをしただけだよ」

ビョルナルは、小さい頃からクロスカントリースキーに親しんでいた。そんな彼は、ある言葉が忘れられなかった。それはクロスカントリースキーの精神ともいえるものだった。
「たとえどんな状況であっても、ともに走る者を敬い、助け合う」

クロスカントリースキーは、雪深い冬の北欧で生活のための移動手段として誕生した。人々にとっては、仲間とともに助け合い、無事に目的地へ到達する重要な手段だったのだ。

その精神は脈々と受け継がれていったのだが、やがて競技として世界の選手が競うようになると、クロスカントリースキーの助け合いの精神は、忘れられることが多くなっていった。

ビョルナルはインタビューで話した。
「あれは反射的な行動でした。考える必要はありませんでした。みんなが2本のストックを使って戦うべきです、1本ではなく。競技は表彰台に上がることを目指して最善を尽くすものですが、あのとき最も大事だったのは、お互いに助け合うことでした」

オリンピックという世界最高の舞台で、しかもメダルがかかっている場面にもかかわらず、スポーツマンシップを発揮したビョルナルの行いは、まさにフェアプレー精神を体現していた。

受け継がれた精神(2014年ソチ冬季大会)

トリノオリンピックから8年後の2014年ソチオリンピック。クロスカントリースキー、男子個人スプリントの準決勝のことだった。

決勝進出を目指し疾走する地元ロシアのアントン・ガファロフが前の選手を追い抜こうとした瞬間、転倒して左足のスキーが外れてしまった。そのときの衝撃は激しく、スキーは大きく傷ついた。それでもガファロフはスキーを履き直して滑り出す。しかし傷ついたスキーではうまく滑れず、再び転倒。ついにスキーは途中から折れてしまったのだ。それなのにガファロフは諦めず、折れたままのスキーで走ろうとする。そんなスキーでうまく走れるわけがない。

そのとき、1人の男性が駆け寄ってきた。手に1本のスキーを持ったその男性は、ガファロフの足元にそのスキーを置き、折れたスキーをはずして新しいスキーを履かせたのだ。ガファロフは再び力強く走り出した。誰もが、新しいスキーを履かせたのはロシアチームのコーチだろうと思った。

だが、レース終了後、意外な事実が判明した。なんと、それはカナダチームのコーチ、ジャスティン・ワズワースだったのである。さらに驚くことに、そのワズワースコーチは、8年前のトリノオリンピックの女子チームスプリントで、サラとともに銀メダルを獲得したあのベッキーの夫だったのだ。
「苦しんでいる彼をそのままにしておくことはできなかった。地元ロシアの観客の前で、よい経験をしてほしかった」 ワズワースコーチはそう語った。

「たとえどんな状況であっても、ともに走る者を敬い、助け合う」

トリノでビョルナルが見せたクロスカントリースキーの精神は、そのとき助けられたベッキーに受け継がれ、それが彼女の夫によって再現されたのである。

感動の助け合い(2016年リオデジャネイロ大会)

2016年リオデジャネイロ大会陸上女子5000m予選でのこと。ゴールまで残り2000mほどの地点で、ニュージーランドのニッキ・ハンブリンとアメリカのアビー・ダゴスティーノの足が接触、2人はもつれあうようにして転倒した。

メダル獲得の夢が失われたと思ったハンブリンは、がっくりとトラックに倒れ込んだ。

2016年リオ大会、フィニッシュ後に抱き合うニッキ・ハンブリンとアビー・ダゴスティーノ

2016年リオ大会、フィニッシュ後に抱き合うニッキ・ハンブリンとアビー・ダゴスティーノ

そのとき、ハンブリンの肩に手をあて、立ち上がるよう優しく声をかけ、完走を促したのが、先に立ち上がったダゴスティーノだった。
「さあ、立って。最後まで走らなきゃ。オリンピックなんだから」

気を取り直したハンブリンは、起き上がり走りだした。ところが、励ましてくれた相手がついてこない。ダゴスティーノは足を痛めていた。膝の前十字靱帯を切って立ち上がれなくなってしまったのだ。今度はハンブリンが手をさしのべる番だった。
「あなたが『立って、走って』と言ってくれたんじゃない。走らなくちゃ」

2人は助け合い、励まし合いながら進む。だが、ダゴスティーノは膝の痛みでうまく走れない。「先に行って」と促されたハンブリンはやむなく先にゴールし、彼女を待った。

結局、ダゴスティーノも足を引きずりながら完走。最下位でフィニッシュすると、2人は涙ながらに抱き合った。観衆は大きな声援を送った。

このときが初対面というふたりのドラマには、多くの称賛が寄せられた。

ハンブリンは語る。
「あのときのことは一生忘れません。20年後、誰かにリオオリンピックの思い出を聞かれたら、これが私の物語になります」

当初はどちらも予選敗退に終わったかに思われた2人だったが、組織委員会は2人の決勝進出を検討した。その結果2人は、もう1人接触の影響を受けたオーストリアのジェニファー・ウェンスとともに3人で決勝への出場が認められた。粋なはからいであった。

膝を痛めたダゴスティーノは決勝を辞退したが、国際オリンピック委員会(IOC)は2人に「フェアプレー賞」を贈り、バッハ会長は「今大会で最も感動を呼んだシーンのひとつだ」と語った。

国を越えたライバルの友情(2018年平昌冬季大会)

平昌大会スピードスケート女子500m最大の見どころは、絶好調を維持する小平奈緒と、オリンピック3連覇をねらう地元韓国のイ・サンファ(李相花)との一騎打ちだった。日本からは3選手が出場した。小平と郷亜里砂、神谷衣理那だ。

2018年平昌冬季大会の小平奈緒とイ・サンファ

2018年平昌冬季大会の小平奈緒とイ・サンファ

日本選手のレースは神谷からはじまった。相手はアメリカのブリタニー・ボウ。神谷のタイムは38秒255(結果は13位)に終わった。

そして注目の14組、小平の相手はチェコのカロリナ・エルバノバ。小平が出したタイムは36秒94のオリンピック新記録。フィニッシュすると大きな歓声が小平をつつんだ。すると、小平は口元に左手の人差し指をあてて「シーッ(静かに)」のポーズをとった。次は15組、日本の郷とイ・サンファのレースだ。

イ・サンファは、2010年バンクーバー大会、2014年ソチ大会とオリンピックのスピードスケート女子500mを連覇している。2018年平昌大会は、地元での3連覇をかけた大事な試合だった。小平はそのことをよく理解していた。小平とイ・サンファは、ライバルでありながら友でもあった。

静かになった観客の視線が2人の選手に注がれ、レースは始まった。結果はイ・サンファ37秒33、郷は37秒67。イ・サンファのタイムは小平におよばなかった。そのあとに最終組のレースがおこなわれたが、小平やイ・サンファの記録を上回ることができず、小平の金メダルが決まった。2位はイ・サンファ。

小平はスピードスケート日本女子選手初の金メダルを獲得した。

レース後、地元で3連覇を飾ることができなかったイ・サンファが、涙を流しながら国旗を手にリンクをまわった。1周したところで、彼女を抱きしめたのは小平だ。地元で開催されるオリンピックで敗れることが、どんなにつらいことか、小平は知っていた。

2人のライバルは肩を抱いたままゆっくりとリンクをまわる。

大きな拍手が2人の友情をつつんだ。

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。