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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

日本複合陣という宇宙人たち

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.11.30

 最後の冬、夏同一年開催となった1992年アルベールビルオリンピックは、橋本聖子のスピードスケート女子1500m銅メダルを皮切りに、連日スケート陣のメダル獲得にわいた。その日、218日も男子1000mで宮部行範が銅メダル。スケート会場のアルベールビルでは報道陣が原稿執筆に追われていた。

 そこに思いがけないニュースが飛び込んできた。ノルディックスキー複合団体で日本チームが前半のジャンプでトップに立ったという。ポイントのタイム換算では2位オーストリアに227秒、優勝候補のノルウェーには616秒の差をつけた。よほどのアクシデントがない限り、そのまま翌日の後半クロスカントリー10㎞×3人のリレーで逃げ切る可能性は高い。

 好調なスピード、そして伊藤みどりのメダル獲得の期待が高まるフィギュア。日本の記者たちはスケートの取材、執筆に比重を置いていた。しかし、金メダルがかかるとなれば話は異なる。慌てて移動準備を始める記者たち。複合が行われるクーシュベルはアルベールビルから約50㎞隔てた山向こうだ。

 今でも荻原健司はあの日のことを話すと笑いをこらえる。

 「前日まで記者の方はほとんどいなかったのに、当日はたくさんの人であふれかえっていましたよ」

 17日夜のミーティングで滑走順を決めた。1走が三ケ田(みかた)礼一で2走が河野孝典、アンカーは3人のなかでは最も走力のある荻原健司。三ケ田は6日前の個人戦で前半のジャンプは2位だったが後半クロスカントリーは42人中42位、走力に不安があった。ただ団体は個人の15㎞より5㎞短い。問題はスタミナ。三ケ田がうまく滑りだせば安定感のある河野、そして荻原で十分勝負ができた。

 後半のクロスカントリー、スタートした三ケ田は歯を食いしばってねばる。理由があった。「阿部さんのためにも絶対にメダルを獲る」という思いである。代表チームは3人に加えて阿部雅司の4人。そのうち試合に出られるのは3人だけ。前半のジャンプ前日の16日、試合メンバーが発表された。コーチの早坂毅代司が名前を告げる。「健司、河野……」と名を挙げ、「三ケ田」と続けた。

 荻原によれば、そのとき4人とも「エッという顔になった」という。個人戦は阿部が30位で三ケ田は34位。みんな3人目は年長の阿部だと思っていたからだ。荻原はその夜、同室の阿部が日本の家族に“落選”を小声で電話する内容を聞いてしまった……。

 三ケ田は21秒差で河野につないだ。河野は155秒差で荻原へ。ノルウェーはエルデン兄弟の兄トロン、オーストリアはスルシェンバッハというクロスカントリーのスペシャリストが追い上げる。しかし荻原は、もう勝利を確信していた。ラスト100m。前日、コース係員に頼んで用意していた日の丸を受け取ると、右手で大きく打ち振りゴールに飛び込んだ。冬季では1972年札幌大会ジャンプ70m級の笠谷幸生以来、20年ぶりの金メダルだった。

1992年アルベールビル大会、表彰式後のシャンパンファイト。左から三ケ田礼一、荻原健司、河野孝典

1992年アルベールビル大会、表彰式後のシャンパンファイト。左から三ケ田礼一、荻原健司、河野孝典

 表彰式で金メダルを授与された後、シャンパンファイトで喜びを爆発させる姿に古いスポーツ関係者は眉をひそめた。しかし「仲間のために」という伝統的な価値観を大切にしながら、物怖じせずに世界のトップ選手と渡り合う姿に日本の新しいスポーツ選手像を見る人は少なくなかった。ヨーロッパの新聞がまず「宇宙人」と表し、それが日本に流布して彼らは「宇宙人」「新人類」と呼ばれた。

八木祐四郎という存在の重さ

1992年アルベールビル大会日本代表選手団副団長の八木祐四郎氏(左)、中央は団長の堤義明氏

1992年アルベールビル大会日本代表選手団副団長の八木祐四郎氏(左)、中央は団長の堤義明氏

 なぜ、こんなチームが忽然と出現したのだろうか?長野市長になっていた荻原健司はこともなげに言った。

 「八木(やぎ)さんのおかげですよ」

 「八木さん」こと八木祐四郎は、日本オリンピック委員会(JOC)会長古橋広之進のもとで専務理事を務め、1999年に古橋辞任をうけてJOC会長に就任。2008年大会招致に立候補した大阪市の活動に尽力し、2001年の落選直後、古橋と同様に急逝したことで知られる。

 アルベールビル大会当時は全日本スキー連盟(SAJ)専務理事。全日本学生スキー連盟理事長であり、日本代表選手団団長堤義明の補佐役として副団長を務めていた。

 そのアルベールビルの前、1988年カルガリー大会の2年前のことだ。SAJ会長に就任したばかりの堤のもとで競技本部長となった八木は、堤からこう告げられた。

 「八木、カルガリーでぜひ日の丸を1本挙げてくれよ」

 さすがにカルガリーでは強化策は間に合わなかったが、「わかりました」と堤に胸を叩いてみせた。八木には秘策があった。それがノルディックスキー複合である。

 世界のスキー情勢を俯瞰(ふかん)すると、複合は競技人口が小さく、傾斜して力を注げば日の丸を挙げる可能性が高い。幸い前半のジャンプを日本選手が得意とする。後半のクロスカントリーを徹底して鍛え上げれば、前半で稼いだポイントを守ってメダルに届く。確信にも似た思いだったと、生前の八木から聞いた。

 八木は起業家、実業家である。国民金融公庫(現・日本政策金融公庫)在職中、1957年にビルメンテナンス会社東京美装興業を創設し、育て上げた。

 じつは東京美装創設にはもうひとつ理由があった。八木は国民金融公庫在職中の1953年から母校日本大学スキー部代理監督を務め、1955年から監督に就任していた。部員の面倒をみるためには公庫の給与ではおぼつかない。何か事業を、と考えた末の起業である。

 優勝など遠い話だった弱小日大スキー部がクロスカントリーの全日本学生選手権に初優勝したのは1959年、八木監督就任4年目だ。爾来(じらい)、日大は全日本学生を13連覇するなど最多優勝回数を誇る常勝チームとなっていく。

 東京美装が軌道に乗ると、八木は日大からスキー選手を次々と入社させ、1970年社内にスキー部を創った。強い日大から選手を獲るのだから東京美装興業もすぐ強くなる。1978年に全日本選手権に初優勝し、そこから6連覇。7連覇を止めたのが日大で、いずれも八木が強化総責任者だったという落ちもある。

葛藤から生まれたキング・オブ・スキー

 東京美装スキー部草創期の選手に1976年インスブルック冬季オリンピックに出場した早坂がいた。堤から「日の丸を」と求められた八木は早坂を呼び、複合チームのコーチとしてクロスカントリー強化を命じた。

 同時に海外合宿を実施、積極的に国際大会に出場させた。海外での暮らし、海外の選手に慣れなければ対等に戦えないとの思いである。

 光がみえたのがアルベールビル前年の1991年。阿部と三ケ田に児玉和興で組んだ日本代表がイタリア・バルディフィエメでの世界選手権で銅メダルを獲得した。河野と荻原は札幌で行われたユニバーシアードで優勝、いよいよ開花のときを迎える。

 早稲田大学4年、スキー部主将の荻原はしかし、悩んでいた。日本代表内のランクは4番目か5番目。いまのままではオリンピックの出場は難しい。「もうスキーをやめて実家を継ごうかなと思った」ことさえあった。

 悩んだあげく、低迷打開として「V字ジャンプ」に取り組む。

 複合ではまだ誰もV字ジャンプを取り入れてはいなかった。

 荻原はジャンプが得意ではない。それでも子供の頃、体操教室に通っていてバランスには自信があった。空中ではスキーが左右どちらかにぶれる。スキー板を開くことは難しいが、空中姿勢がまっすぐな荻原は比較的楽にV字のコツをつかんでいく。

 1991年夏、陸上のシミュレーションから始め、12月にジャンプ台で試した。日本代表ジャンプコーチの斎藤智治と試行錯誤の末に1月下旬、ようやく飛距離と飛型が安定。アルベールビルに間に合ったのだった。

 そんな裏話の末に、日本複合陣は八木と代表チーム以外は予想だにしなかったメダル、それも金メダルを獲得した。

追われる立場、勝つという重圧

 アルベールビルを境に、日本複合陣は世界から追われる立場になった。そして荻原もまた1992-93年シーズンのワールドカップ個人総合チャンピオンに輝き、1993年スウェーデン・ファルンでの世界選手権でも優勝。絶対王者としてW杯個人総合3連覇につなげる。

 ノルディックスキー複合は「鳥のように」遠くに飛ぶジャンプと、「鹿のように」アップダウンの厳しい雪の森を走破するクロスカントリーとで構成される。どちらも過酷な自然との闘いであることから、勝者は「キング・オブ・スキー」と称される。荻原は絶対的な「キング・オブ・スキー」であり、異次元の強さを誇る「宇宙人」であった。

 冬と夏とが2年おきの開催に変わった1994年リレハンメル大会は、まさに日本チームも荻原も絶頂期にあった。

 団体では前回大会と立場を逆転、三ケ田がサポート役にまわり、阿部がリード役を務めた。その阿部が前半のジャンプ1本目、前回の悔しい思いを晴らすように92mの大ジャンプ、河野はなんとK点越えの100m1本目89.5mに終わった荻原は2本目、96mの大ジャンプを記録して2位ノルウェーに57秒の大差をつけた。

 翌日の後半は1走が河野、2走にクロスカントリーが得意な阿部を配して荻原が再びアンカー。荻原スタート時の2位との差は443秒。「もう何も考えることもなく」走り、再び日の丸を手にゴールしたのだった。

1994年リレハンメル大会。日の丸を担いでフィニッシュする荻原健司

1994年リレハンメル大会。日の丸を担いでフィニッシュする荻原健司

 表彰式では河野と荻原が阿部を肩車、日本冬季史上初の2大会連続金メダルを喜び合った。そのときの思いを荻原は「安堵感」と評した。金メダル確実とみられていた重圧、その戦いから解放された思いの発露である。

 絶対王者の安堵感にはもうひとつ理由があった。金メダルが期待された4日前の個人戦で4位に終わっていたからである。

 個人戦ジャンプの1本目、空中姿勢に入った直後に追い風に煽られた。バランスのいい荻原もさすがに立て直しきれず89m2本目は気負い過ぎたのだろう、88mに終わった。ジャンプでリードしクロスカントリーで突き放す。それが荻原の戦法だが、得意のジャンプで6位に沈んだ。クロスカントリーで4位まで順位を上げたものの、メダルには届かなかった。早大の1年先輩、荻原に複合の練習法を伝授した河野孝典が2位、銀メダルを獲得したのが救いではあったが、うらやましくもあった。

 あの頃、私はリレハンメルの金メダルを書くべく荻原を追いかけ、欧州遠征にも同行した。前半のジャンプの後、しばらく魂が抜けたようだった。荻原の心のうちは想像を絶する。よくぞ団体戦で気持ちを切り替えたと思う。

 のちに「やっぱり風が影響……」とあのときのことを聞くと、言葉をかぶせて荻原は言った。

 「ミスさえしなければと、守りに入った時点で負けていたんです」

 大会後、荻原は気を取り直し、自国開催の1998年長野をめざした。オリンピックの借りは、オリンピックでしか返せないという思いだった。

 しかし、日本をターゲットにした相次ぐルール変更はジャンプ・ポイントのタイム換算での優位性を削る。もはや前半の大量リードで逃げ切る作戦は通用しなくなっていた。

 「アルベールビルから6年、リレハンメルから4年の歳月が流れ、私自身、そして日本の競技力は明らかに低下していました」

 スポーツニッポンの連載企画「我が道」に荻原は長野の苦い思いをそう綴った。八木祐四郎が団長を務めた日本選手団の主将として選手宣誓の栄誉を担ったものの、リレハンメルでの借りは返せず、個人戦は4位。あと一歩、表彰台には届かなかった。初めてオリンピックの場で双子の弟、次晴らと組んだ団体戦でも5位。ひとつの時代は終わった。

 

 長野から16年、2014年ソチ大会で渡部暁斗が個人戦ノーマルヒルで2位に入り、銀メダルを獲得した。あのリレハンメル大会以来、20年ぶりに日本複合陣が獲得したメダルである。渡部は2018年平昌でも個人ノーマルヒルで銀メダル。さらに2022年北京では個人ラージヒル銅メダルに加え、団体戦でリレハンメル以来28年ぶりとなる銅メダルを獲得した。

 渡部は早大スキー部出身。荻原健司監督・GM時代の北野建設スキー部で腕を磨き、河野孝典がコーチを務める日本代表の中核である。あの「宇宙人」たちのDNAはしっかりと受け継がれていた。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。