団体金メダルをもたらした「V字ジャンプ」の登場
―― 荻原さんご自身のことについてもいろいろとお伺いしたいと思いますが、小学生の時には体操をされていたそうですね。
小学1年生から5年生まで体操をしていました。もちろん、群馬県吾妻郡草津町という雪深い土地の出身ですから、幼少時代からスキーにも慣れ親しんでいました。時間があると、近くのスキー場に行ってアルペンスキーを楽しんでいましたが、本格的に競技としてやっていたのは体操の方でした。
―― 体操からスキーに転向したきっかけは何だったのでしょうか。
体操の練習がどんどん厳しくなっていきまして、「なんでこんなに辛いことに耐えなければいけないのだろう」という思いが強くなっていったというのが一番の理由でした。体操の教室で使用していた体育館の窓の向こう側に、小学生がよく遊んでいる丘があり、その一角にジャンプ台がありました。私が「嫌だな」と思いながら体育館で体操をやっていると、ふと窓の向こうに友だちが楽しそうにスキー・ジャンプをやっている姿が見えたのです。来る日も来る日もそれを見ているうちに「自分もあっちにいこう」と。小学5年生の秋に体操教室をやめ、ちょうど冬のシーズンが到来するという時期でもあったので、スキーの少年団に入りました。
「スポーツ祭り2009」に参加した荻原健司(右)と荻原次晴兄弟
―― その時に、双子の弟の次晴さんも一緒にスキーを始められたのでしょうか?
実は次晴の方が先に体操教室をやめました。次晴が「僕、体操はもうやめる」と言った時に、私も一緒にやめたかったのですが、兄である自分までもやめると言ったら親が悲しむような気がしたのです。それでちょっと歯を食いしばって続けていたのですが、4、5カ月くらいしかもたなかったですね。
―― ジャンプには楽しさを感じられたのでしょうか。
楽しかったです。もともとスキーはできましたし、それまでやっていたアルペンとは違う競技にチャレンジするということにも楽しさがありました。なによりジャンプ台を跳んだ時に、フワッと体が浮く感覚が面白くて仕方ありませんでした。
―― ジャンプ一本から、クロスカントリーも加わるノルディック複合という競技をやるようになったのは、どんなきっかけだったのでしょうか。
ノルディック複合という競技があることは子どもの時から知っていました。それに加えて、私の姉が小、中学生の時にクロスカントリーをやっていたので、自宅には姉が使用していたクロスカントリー用のスキーの道具が一式そろっていたのです。それで時々、姉のおさがりを使ってやってみたりしたこともありましたので、自然とクロスカントリーにも慣れ親しむ環境にありました。中学校でスキー部に入り、本格的に競技としてやるとなった時に、スキー部員がクロスカントリーをするというのは当然のことでしたので、何の疑問も持たずにクロスカントリーを始めました。また、その中学校のスキー部ではジャンプもやるというのも珍しいことではなく、結構普通の考えとしてあったのです。
その背景には、日本スキー界の事情も深く関係していたように思います。というのも、ジャンプは北海道の選手が非常にレベルが高く、群馬県など他の地方の選手がジャンプだけで勝つのは非常に難しかったのです。一方、ノルディック複合では北海道はそれほど強くはありませんでした。そのために、群馬県や新潟県、長野県などではノルディック複合で選手を育成・強化するという方針があったのではないかと思います。
―― 中学生の頃は、どのようなタイプの選手だったのでしょうか。
当時はジャンプが苦手で、クロスカントリーで走ってなんとか上位に食い込めるというような選手でした。言い換えれば、クロスカントリーでしか良い成績を挙げる手段がなかったような状態でした。
―― オリンピックを本格的に目指し始めたのは、いつ頃だったのでしょうか。
高校時代からオリンピックへの気持ちはありましたが、自分の中でしっかりと視野に入ったというのは早稲田大学入学後のことだったと思います。ただ「世界に目を向けた」という点では、高校2年生の時に初めて出場した世界ジュニア選手権でした。後ろから数える方が早いというくらいの順位に終わり、日本と世界との差、自分と世界との差を痛感した大会でした。その時の悔しさが、世界を目指す出発点になりました。
「V字ジャンプ」1992年アルベールビルオリンピック
―― 大きな転機となったのが、「V字ジャンプ」(スキー板の先端を開きV字のようにして飛ぶスタイル。元祖はスウェーデンのヤン・ボークレブで1990年シーズンから世界に広まった)の登場でした。団体金メダルを獲得した1992年アルベールビル大会の直前にV字に転向したわけですが、それまでのスキー板を並行にして飛ぶスタイルからV字に変えるというのは苦労もあったのではないでしょうか。
日本人選手の中で最初にV字ジャンプに挑戦したのですが、その理由は誰よりもジャンプが下手だったからです。当時は早稲田大学4年生で、アルベールビル大会開催の前年、1991年の年末に旭川のジャンプ台で練習している時に初めて挑戦したのが始まりでした。「この新しい技術の登場を変わるきっかけにしたい」というすがるような思いで始めたわけですが、確かに大変なことは大変でした。ただ比較的他の選手よりもスムーズにV字に移行できたのです。その要因の一つには、子どもの頃に体操をやっていた経験があったように思います。空中に飛び出した後にアンバランスな中で「V字」の体勢をつくり出すというのは、体操で培ったものが生かされたのではないかなと思います。
1992アルベールビルオリンピック複合団体で金メダルを獲得した日本(左から三ヶ田礼一、荻原健司、河野孝典)
―― 本番直前での決断が、団体金メダルにつながったということですね。
当時の僕は、クロスカントリーを得意としていたので、アルベールビル大会の日本代表にはなれるだろうと思っていました。ただジャンプを苦手としていたので、世界で戦える選手ではなく、「日本代表になったところで意味があるのか」という気持ちもありました。とにかく自分自身のジャンプの下手さ加減にうんざりしていたのです。そんな時に「V字ジャンプ」という新しいスタイルがあるという情報を得たので、「このままでは自分は変わらないだろうから、まずは挑戦してみよう」ということで始めました。とにかくジャンプの技術を上げたいという一心だったのです。
―― 当時ジャンプの指導を受けていたノルディック複合日本代表コーチの斉藤智治さんからは、何かアドバイスがあったのでしょうか。
ジャンプ担当だった斉藤さんに「自分のジャンプをどうにかして向上させたいので、新しいスタイルのV字ジャンプに挑戦したいと思っています」と相談をしたところ、「健司は体を使うのが器用だから、オマエならできるかもしれないな。やってみようか」と言っていただきました。もしその時に「オリンピック直前にちょっと無理じゃないか」というようなことを言われていたら、大学生だった自分はもしかしたら挑戦しなかったかもしれません。そういう意味では、斉藤さんが背中を押してくれたのは非常に大きかったですね。
JOC会長等を務めた八木祐四郎氏
―― また当時のノルディック複合の日本代表チームは、とても選手同士の仲が良かったですよね。河野孝典さん、阿部雅司さん、三ヶ田礼一さんと、いい雰囲気の中でお互いに切磋琢磨し合うというような、選手ばかりがそろっていました。
それに加えて、当時全日本スキー連盟専務理事だった八木祐四郎さん(後に日本オリンピック委員会会長)の存在が大きかったと思います。日本のジャンプ陣、ノルディック複合陣には可能性があるということで、当時の東京美装興業所属のメンバーを中心に選手の強化にあたっていただきました。そういうこともあって、ノルディック複合の代表チームもコーチと選手の間で遠慮なく何でも相談し合える仲でしたし、選手たちも明るいメンバーばかりでした。大学生だった私が躊躇なくV字ジャンプに挑戦しようと思えたのは、そういう環境だったからということもあったと思います。
1992年アルベールビルオリンピック複合団体で日の丸を振ってゴールする荻原健司
―― アルベールビル大会は、どのような状態で迎えたのでしょうか。
サンモリッツ(スイス)でアルベールビル大会の事前合宿を行ったのですが、そこでもチームは和気あいあいとした雰囲気でトレーニングをしていました。前年のノルディック複合の世界選手権で銅メダルを獲得していましたので、「オリンピックでもメダルが取れればいいな」というくらいの気持ちで本番に臨みました。いざオフィシャルトレーニングが始まっても、V字ジャンプが形になってきていて結構飛距離を伸ばしていましたし、他の日本勢も比較的好調だったのです。
「このままいけば、意外と前半のジャンプでトップに立てるんじゃないの?」というようなことを話しており、そのあたりから自分たちに対しての期待感が高まり、緊張感が増していったという感じでした。とはいっても4回経験したオリンピックの中で、最も気持ちを楽にして臨んだ大会でした。周囲からはほとんど期待も注目もされていなかったですからね(笑)。日本の報道陣も大半が、伊藤みどりさんのフィギュアスケートや、橋本聖子さん、黒岩敏幸さんのスピードスケートの方に行っていました。だからレース前も報道陣からインタビューを受けるようなことはほとんどなく、「あぁ、自分たちには関心がないんだな」と。寂しさもありましたが、逆に気楽にレースに臨めたのも良かったのだと思います。団体金メダルを獲得して初めて皆さんから「日本のノルディック複合はすごい」というふうに認識していただけた感じでした。
1994年リレハンメルオリンピック複合団体で日の丸を掲げてゴールに向かう荻原健司
―― 4回出場したオリンピックのうち、荻原さんにとって最も心残りの大会と言えば、やはりリレハンメル大会でしょうか。
リレハンメル大会は、もちろんそうですね。その次の長野大会も含めて個人種目での金メダルを取ることができなかったというのは、今でも「欲しかったな」という気持ちがあります。
―― 荻原さんとしては3回目の出場となった1998年長野大会は、どのようなものだったでしょうか。
前述した通り、気楽そのものだったアルベールビル大会とは対照的に、大きなプレッシャーを抱えてのオリンピックでした。あれほどプレッシャーを感じながらの苦しいレースというのは、長野大会以外にはありませんでした。ただそれは後から感じたものであって、当時は「自分はプレッシャーを感じていないし、緊張感もない」という気概を持ってずっといました。ところがレースが終わったとたんに、一気にプレッシャーに耐えていた分の疲労感が出てきました。もう誰にも会いたくないし、何も話したくない状態だったのです。それこそスキー板も見たくありませんでした。とにかく解放されたいという気持ちが強くて、すぐにでも無人島に行きたいような気分でした。
長野大会後も現役続行を決意した裏にあった自分との約束
―― 荻原さんは「キング・オブ・スキー」とも称され、技術だけでなく、メンタルにおいても海外選手にひけをとらない強さを持った日本人アスリートとして注目されました。
海外の選手やファンの方々と接していく中で、成績が上がってくるにつれて認めてもらえているということを感じ取っていました。海外の大会に行くと、私たち日本人選手に対して敬意を表してくれるようになるのです。そういう中で、海外選手たちとの交流も深まり、ファンとも打ち解け合ったりしていき、徐々に海外でも日本にいる時と同じような感覚でいることができるようになっていきました。そうすると、どこに行っても自分のペースで競技に臨めるようになっていくのです。それがまた、競技力の安定にもつながっていたと思います。
1994年リレハンメルオリンピック複合団体で連覇を果たした日本(左から阿部雅司、荻原健司、河野孝典)
―― 1994年リレハンメル大会の時には、ノルディック複合の日本代表への期待は大きく、報道陣の数も多かったと思います。プレッシャーを感じてはいなかったのでしょうか。
今思うと、プレッシャーを感じる間もなく、勢いよく過ぎ去っていったオリンピックだったように思います。アルベールビル大会後のワールドカップでは、1位から6位まで日本勢が独占することもあるなど、当時の日本勢の勢いは凄まじく、海外のライバルと競い合うという感覚はほとんどありませんでした。「日本の中でトップを取るのは誰か」と、チーム内競争の中で戦っていて、そのままリレハンメル大会に臨んだ感じでした。私自身は守りに入ったことで個人ではメダルを逃しましたが、団体では2大会連続で日本が金メダルを獲得しました。シーズン全体で見ると、日本チームの勢いがどの国よりも圧倒的に勝っていたように思います。
1998年長野オリンピックでは日本選手団の主将を務めた
―― 長野大会後は引退の話も浮上しましたが、荻原さん自身はどのようなお気持ちだったのでしょうか。
正直に申し上げますと、長野大会が終わった直後は「スキーなんてやりたくない。一人にさせてくれ」という思いしかありませんでしたので、「こんな気持ちでスキーを続けても仕方ない」と、ほとんど引退するつもりでいました。ところがある時、自分の競技人生を走馬灯のように思い出していたところ、1992年アルベールビル大会で団体金メダルを獲得して帰国した時のことが頭に浮かんだのです。
当時は日本ではノルディック複合という競技のことはほとんど知られていなくて、「自分がこれだけ人生をかけてやっている競技を、世間では全く知られていないのだ」という現実を突きつけられ、とてもショックを受けました。その時に決意したのが「だったら10年間徹底的にやって、ノルディック複合を日本人の誰もが知るスポーツにしよう」ということでした。それを思い出して、1998年長野大会でやめるということは、10年間続けずにやめることになるのだということに気付いたのです。「ここでやめたら自分に約束したことを破ることになる。それは絶対にダメだ。あと4年間は続けよう」と思いました。
それで残り4年間をどうしようかと考えた時に、やはり4年後のオリンピックを目指そうということで、2002年ソルトレークシティを見据えて再始動しました。そこでまずは「なぜリレハンメル、長野では個人競技でメダルを取れなかったのだろうか」「特に長野でプレッシャーを感じてしまったのは、周囲の期待に応えようという気持ちが強くありすぎたのではないか」など、自分が抱えている気持ちをしっかりと整理しました。そのうえで4年後、フレッシュな気持ちでソルトレークシティに臨みたいと思っていました。
2002年ソルトレークシティオリンピック
―― 小学生の時に始めた時の「スキーってこんなに楽しいんだ」というような気持ちを取り戻した4年間だったのでしょうか。
おっしゃる通りです。やはり「楽しい」という気持ちがないまま競技人生を終えてしまったら、おそらく気持ち悪さが残るような気がしたのです。長野大会直後のように「スキー板も見たくない」「もうプレッシャーを感じるのは嫌だ」というような気持ちでやめていたら、一生、その気持ちが残ったままになるのではないかなと。せっかく好きで始めたスキーを嫌いになってやめるなんて、これほど悲しいことはないと思ったのです。
また現役引退後、指導者としてずっとスキーと関わっていきたいという気持ちもありましたので、子どもの時と同じように「スキーって面白い」「滑っていて楽しいなぁ」という気持ちで競技人生を終えることがとても大事なことのように思いました。そういう気持ちがなければ「子どもたちに伝えたい」という気持ちは起こらないだろうと。実際、楽しみながら競技をすることができましたので、ソルトレークシティ大会のレースを終えた時には清々しい気持ちしかなく、とてもいい引退ができたと思います。