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電通オリンピック

【2020年東京オリンピック・パラリンピック】

2022.07.05

1. 電通は手足?

 なぜ、東京2020大会組織委員会は実行委員会を組織しなかったのだろう。運営の中核として実行委員会を設けて各専門委員会をぶら下げれば、意思の疎通が諮られ、より円滑に運営がなされたように思う。

 大会公式代理店の電通から民間最大の約150人が組織委員会に出向し、要所に配置された。まさに電通が実行委員会の代役を担ったという事なのか。

「いやいや、電通はそんな……。手足になっていただけで頭脳じゃないですよ」

 投げかけた疑問を目の前の人物が笑い飛ばした。組織委員会理事・高橋治之氏。元電通専務取締役というより、日本におけるスポーツマーケティングという分野を確立した人として知られる。

2. 初めて延期に言及した


 東京2020大会で、高橋氏の名前がメディアで取り沙汰された事が2度あった。

 ひとつは2020年3月、新型コロナウイルスの感染が蔓延、「中止」か「延期」か、いろいろ騒がしくなっていた頃である。米経済紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)電子版に突然、高橋氏のインタビューが掲載された。「東京大会は中止されないが、2年あるいは1年延期する事は最も現実的な選択肢だ」

「個人の考え」と前置きした発言は世界中に発信され、物議を醸した。初めて、日本側から延期に言及した内容だったからだ。

 背景には国際オリンピック委員会(IOC)の動きへの危機感があった。

IOC委員の半分はヨーロッパでしょう。東京を中止して、(2024年)パリならコロナも終わっているだろうから、パリでコロナを克服したオリンピックとして華々しく開催したらいいという話を耳にしたんです。IOCが中止と決めたらもうひっくり返せない。その前に延期に持っていかないと、中止にされたら(日本には)何もなくなってしまう」

 IOCは財源の半分近くを米テレビ局NBCに頼っている。IOCNBCを動かすには世界で最も影響力のある当時のドナルド・トランプ米大統領を利用するしかない。視聴する新聞、テレビを調べて最も有力なメディアとしてWSJを選び、インタビューに応じたと言う。

IOCはアメリカが延期なら延期。アメリカの言うとおりなんですよ。トランプ大統領が言い出したら、USOPC(米国オリンピック・パラリンピック委員会)も何も言えなくなってしまう」

 狙いは的中。大統領は記者会見で「個人的な見解だが、1年ぐらいの延期が適当」と言及した。トランプ発言にはIOC以上に日本の安倍晋三首相が反応。トーマス・バッハIOC会長との電話会見で史上初の「1年延期」が決まった。

「僕は理想的には2年延期がいいと思っていました。森さん(森喜朗組織委員会会長=当時)にも『2年ですよ』と言ったんだけど、安倍さんが『1年で』とバッハ会長に言って……」──高橋氏は2年経てばコロナも収束、国内世論の反発はなかったはずだと残念がる。

3. 税金は使っていない

 もうひとつは東京招致を巡る疑惑に絡んだ話である。少し長くなるが書き留めておく。

 疑惑は2015年、ロシア選手のドーピングもみ消し疑惑に当時の国際陸上競技連盟(IAAF、現ワールドアスレティックス=WA)会長のラミン・ディアク氏が関わったとしてフランス司法当局が捜査に着手した事に始まる。捜査が進むなかで、東京の招致委員会からディアク氏の息子パパマッサタ氏が関わるシンガポールのコンサルタント会社の口座に2回、計23000万円が送金されていた事が発覚。IOC委員でもあるディアク氏に金の一部が渡り東京への票纏めを依頼したとする疑惑となった。

 フランス紙が招致委員会理事長で当時の日本オリンピック委員会(JOC)竹田恆和会長が当局から事情聴取されたと報じて騒然とした。コンサルタント会社との契約書に竹田氏がサインした件は、JOCが「コンサルタント料としての支出」と疑惑を否定したが、開催準備が進む東京2020大会を混乱させた責任をとり、竹田氏はIOC委員を辞任。今なお火種が燻る。

 高橋氏はパパマッサタ氏やコンサルタント会社について「よく知らない」と言い、こう続けた。「電通のスポーツ現場の人間が(彼らを)知っていて、なかなかいいよとなって(招致委員会の)事務方が契約をとなったんです。竹田さんは何も知らず、海外でのロビー活動から帰国したときに、電通も推薦しているからという事でサインしたわけです」

 その高橋氏の名が捜査のなかで登場したのは20203月。ロイター通信が、招致委員会から89000万円受け取ったと報じた。これについて高橋氏は「この中には、約6年分のヨーロッパにおけるテレビ広告、雑誌広告等が含まれるが、金額などは正確ではありません」と述べた。高橋氏の名誉のために言えば、当時、民間会社として正規の請求書や領収書も含めて適切に処理されており、問題なしとの結論がでていた。報道が独り歩きした感は否めない。

 また招致委員会は民間組織であり、スポンサーからの基金で活動していた。一方IOC委員の投票行動については「外国人でも結局、義理人情や恩返しですよ」と言い、「競技団体や競技大会の運営に、いかにマーケティングで協力してあげるかが大事」と続けた。自身と電通が果たしてきた役割を暗に示している。

 IOCは1998年末のソルトレークシティー招致スキャンダル以降、綱紀粛正に努めている。ただディアク氏のような不心得者の存在がある事もまた、否定できない。高橋氏はそうしたIOC事情に精通する数少ない人物でもある。

1977 年9月に国立競技場で開催された「ペレ・サヨナラ・ゲーム・イン・ジャパン」

1977年9月に国立競技場で開催された「ペレ・サヨナラ・ゲーム・イン・ジャパン」

4. 始まりはペレの引退試合

 高橋氏が初めてスポーツイベントを手がけたのは1977年。伝説の「ペレ・サヨナラ・ゲーム・イン・ジャパン」である。

 サッカー界のスーパースターは75年にブラジルのサントスFCから北米リーグのニューヨーク・コスモスに移籍、77年限りで現役を退く考えを近親者にもらした。話が日本の代理人から電通に持ち込まれ、東京・国立競技場で日本代表、古河電工を相手に引退試合を実施する事が決まった。

 このとき自ら手をあげ、プロデューサーとなったのが高橋氏である。慶應義塾大学時代はアイスホッケーをやっており、サッカーに縁はなかった。1944年生まれ、33歳の若さとペレという名前だけが頼り。ただ、この年の日本サッカーリーグの1試合あたりの平均入場者数はわずか1773人。当時の日本ではサッカーは今のような人気スポーツではなかった。それが発想と行動を気楽にしたのかもしれない。

 若いプロデューサーは次々、実験的な試みを具体化していく。名称は「日本代表対ニューヨーク・コスモス」などではなく、ペレを前面に押し出し「ペレ・サヨナラ・ゲーム・イン・ジャパン」に。サントリーを試合スポンサーとし、新発売の清涼飲料「サントリーポップ」の王冠を集めて送ると試合チケットがあたるキャンペーンを展開。サントリーからの資金を使い新聞だけではなくテレビCMを活用した。さらに管轄する文部省(現文部科学省)とかけあい、公園法で禁じられていた国立競技場内の看板広告設置に漕ぎつけた。

 またペレの名前入りのグッズや豪華なプログラムを制作・販売。2試合で3000万円という驚異的な売上げを記録した。もちろん試合の人気は圧倒的に高く、日本代表戦は日本サッカー協会公式発表6万5000人に及んだ。

 こうしたマーケティング手法は今日では至極当然のありようだが、当時は画期的な出来事。若い高橋氏がスポーツビジネスのモデルを日本に創り上げた記念碑と言っていい。

 この試合の成功をみていたコカ・コーラ社から声がかかり、プロデュースしたのが1979年ワールドユース日本大会。このときは漫画家本宮ひろ志にサッカーを題材にした漫画『あしたの勇者たち』を雑誌に連載してもらい、スタートと同時にテレビアニメを制作、ワールドユースに向けて日本テレビで放映した。

 この試みも成功、国立競技場で行われた決勝のソ連(現ロシア)対アルゼンチン戦は52000人の観客を集めた。大会をきっかけにディエゴ・マラドーナがスーパースターの階段を駆け上がり、アニメの活用は日本のスポーツマーケティングに定着していった。

 高橋氏は2つのイベント企画を通して国際サッカー連盟(FIFA)に知られ、後のFIFA会長ゼップ・ブラッター氏と緊密な関係を築いていく。そんな高橋氏に声をかけたのが、スポーツメーカー、アディダスの2代目社長ホルスト・ダスラー氏であった。

 ダスラー氏は1956年メルボルン大会で船いっぱいアディダス製のシューズを積み込み、無償で選手に提供。活躍とともに3本線のシューズがメディアで喧伝されてアディダスを世界一のスポーツ用品メーカーに育てあげた。スポーツマーケティングを知悉し、この世界に最も影響力を持っていた人物である。

5. オリンピックと電通の関わりは1984年

1984年ロサンゼルスオリンピックの開会式、上空 に浮かぶ富士写真フイルムの飛行船

1984年ロサンゼルスオリンピックの開会式、上空 に浮かぶ富士写真フイルムの飛行船

 オリンピックとスポーツマーケティングのありようを変えたのは1984年ロサンゼルス大会。組織委員会会長ピーター・ユベロス氏の発想や、大会の成功については2019年のコラム「ロサンゼルスが悪いのではない」を参照していただきたい。

 そのロサンゼルス大会こそ、電通がオリンピックに関わった始まりである。プロジェクト責任者の服部庸一氏が1964年東京大会招致に貢献したロス在住の日系二世フレッド・ワダ(日本名・和田勇)氏を介してユベロス氏と交渉。エージェント契約に最低保証金を求めるユベロス氏の姿勢に上層部が難色を示すなか、説得にあたったのが高橋氏ら若い社員だった。そして世界的なシェアを誇るイーストマン・コダックを差し置いて富士写真フイルム(現在の富士フイルム)を公式フィルムに押し込み、国際スポーツ界における電通の地歩を固めていった。

 IOCは1985年、ダスラー氏の助言により財源確保をねらったTOP(当初は「The Olympic Program」後に「The Olympic Partner」)というマーケティング手法を採用した。

 前年のロス大会に倣い、1業種1社に絞ってオリンピック・ロゴなどをワールドワイドに広告・宣伝に活用できるシステムである。この推進役となったのが国際スポーツマーケティング会社ISLInternationalSportsandLeisure)。1982年、ダスラー氏と電通がそれぞれ51%と49%の株式を保有し設立されたISLは高橋氏とダスラー氏との出会いからの結晶だった。

 ISLはFIFAに始まり、IOCや国際陸上競技連盟(IAAF=現ワールドアスレチックス・WA)に関係を広げ、サッカーのワールドカップとオリンピック、世界陸上選手権という3大スポーツイベントのマーケティングと放送権管理を一手に担った。しかし、ダスラー氏の死と遺族内のもめごとが起き、IOCとの関係解除と多角経営が裏目に出て経営が悪化、2001年に約1億5300万£もの負債を抱えて倒産してしまう。

 電通はこの時までに株式の譲渡を終えており、売却利益も得ていた。無論ISLに深く関わる高橋氏の判断に他ならない。しかし、困ったのがFIFAIAAF。はしごを外されて窮地に陥った。救ったのは、すでに国際スポーツマーケティングで大きな存在となっていた電通だ。「義理と人情」の関係が、IOCも含めて確立していったと言えばわかりやすい。

2013 年11 月、電通ホールで行われたIOC 主催のレセプ ション。右はIOC トーマス・バッハ会長、左はジョン・コー ツ副会長

2013 年11月、電通ホールで行われたIOC 主催のレセプ ション。右はIOC トーマス・バッハ会長、左はジョン・コー ツ副会長

6. 東京はマーケティングの集大成

 2013年913日、IOCブエノスアイレス総会で東京が開催都市に決まった後、1130日に東京・汐留の電通ホールでIOC主催のレセプションが開かれた。就任2か月のバッハ会長がJOC協賛企業や財界関係者に支援を訴えた。無論仕掛けは電通。組織委員会発足以前で、まだ公式代理店に決まっていなかったもののIOCとの関係の深さを誇示してみせた。

 翌年、正式に代理店に決まるとブリヂストン、トヨタ自動車とTOPスポンサー契約を交わし、リージョナルスポンサー、サプライヤーを含めて史上最高、約3400億円のスポンサー収入を組織委員会にもたらした。

 この契約に際し、電通は1800億円を最低保証した。スポンサー収入が1800億円に達しなければ差額を保障しなければならない。リスクを被り、招致段階から活動資金を提供、全社をあげて取り組んだ。東京は電通のオリンピック・マーケティングの集大成となった。

「まさに電通オリンピックでしたね」と高橋氏に言うと、「ははッ」と笑った。「いや(電通は)儲かってないですよ。コロナのせいで予定より全然儲かっていない」

 企業は東京開催だからとイメージアップを考え、スポンサー契約した。しかし権利としてのイベントや新聞・テレビなどを使ったキャンペーンはできず、優先購入できるチケットを使った営業活動もできなかった。その意味では電通の儲けも伸びず、今後はオリンピックのスポンサー離れが進み、「ローザンヌ・モデル」と言われる高橋氏らが創りあげたマーケティング手法は崩壊に向かうのではないか。そう聞くと、高橋氏はこう答えた。

「確かに東京だからというスポンサーはがたんと減るが、北京、パリでもスポンサーは集まる。開催費用が縮小され、ありようは変わってもオリンピックは普通のマーケティングでは考えられないところに位置づけられている。本質的なところでは大きな変化があるとは僕は思わない」

 国際的なスポーツマーケティングを仕切ってきた人らしく言い切った。

「オリンピックは特別な存在なんですよ」──高橋氏の言葉が耳に残る。確かにそうなのかもしれないが、しかし今のようなままであり続けるだろうか、スポンサーが被ったイメージの低下を考えるにつけ、縮小傾向になるのではないかとの思いもぬぐえない……。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。