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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

パラ報道、物足りなさが残ったのは?
――「伝えるべきこと」は何なのか


【2020年東京オリンピック・パラリンピック】

2022.03.15

 合わせて600時間余に及ぶという、かつてない規模でテレビ中継が行われた2021年東京パラリンピック。多くの人々がパラ競技の実像に触れる機会を得た東京大会は、日本におけるパラリンピック元年を開いたと言ってもいいだろう。一般社会に対し、障害者スポーツを競技として、それも細部までつぶさに見る機会がたっぷりと提供されたのは初めてのことだった。コロナ禍による無観客開催ではあったが、多くの人がテレビ映像によって初めて生のパラ競技に触れ、その魅力の一端を知ったとなれば、これはまさしく「パラリンピック元年」と言い切っても差支えあるまい。

 テレビ中継だけでなく、新聞各紙もこれまでにない報道態勢をとった。オリンピック並みの紙面を展開したのだ。となれば、この2021年は、新聞界におけるパラリンピック報道元年でもあったといえる。

 朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の主要三紙のパラリンピック報道をざっと振り返ってみると、それがまさにオリンピック並みだったのがよくわかる。最も多かったところは、朝刊で4-5ページ、夕刊で2ページのパラリンピック特設面をつくり、他も朝刊2-3ページ、夕刊1-2ページの特設面で大々的に競技を詳報した。そのほか、1面、社会面、第2社会面、地域版などにも関連記事がかなりの大きさで載ったのである。自国開催だった1998年の長野冬季大会、東京開催が決まっていた前回のリオ夏季大会などでもある程度の報道がなされたが、今回は比べものにならないほどの態勢が敷かれたというわけだ。

 先に開かれたオリンピックでは、最も紙面を割いたところが、特設面を朝刊で4-7ページ、夕刊で2ページ設けていた。他の二紙は朝刊で5-6ページ、夕刊で2-3ページ、同じく4ページ、2ページといった紙面展開。もちろん1面、社会面などでも大々的に扱っていたのは言うまでもない。ただ、そこまでの大展開は、半世紀ぶりの夏季大会自国開催だったからこそ。その前はオリンピック特設面ももう少し少なかった。つまり、今回のパラリンピック報道は、まさしく通常のオリンピック報道と肩を並べるほどのものだったのだ。

 量だけでなく、内容も悪くなかった。競技や選手について詳しく伝える一方、パラリンピック大会や障害者スポーツを取り巻く環境、多くの課題などにも目配りを忘れず、バランスのいい紙面になっていた。海外の選手や各国の状況について、かなり紙面を割いていたのもその特長だ。ザンビアのアルビノ選手の苦闘を伝えるものなど印象的な記事も多く、国際的視野に立った報道はオリンピックより目立っていた。不足もあったろうが、総体としては、質量ともに、かつてなく充実した報道がなされたと評していいだろう。

 ただ、記事を読んでいて、どこかに物足りなさを感じたとは言っておかねばならない。選手個々のありのままの姿、一人の人間としての生き方をあまり描いていなかったというのが、その物足りなさの原因だ。そしてそれは、「感動ポルノ」という表現に象徴される近年の障害者スポーツ報道批判と、そこから生まれた「健常者大会と同じく、純粋に競技として報じるべき」という主張を、報道の現場がかなり強く意識していたからではないか。

 ここ数年、新聞やテレビの障害者スポーツ報道には、「障害がありながら頑張っているというお涙ちょうだいはもうたくさんだ」「ハンディをいかに克服したかという苦労話はいらない」「感動の押しつけはお断り」――などといった辛辣な批判が常に寄せられてきた。「感動ポルノ」は、そうした批判の中で最も手厳しい言葉だ。障害や障害者をパターン化して安易に感動をあおり立て、商品として消費していくのは、いわゆるポルノの商売と同じではないかという意味であろう。

 それらの批判はメディア側も真摯に受け止めねばならない。確かに、かつての報道には、「お涙ちょうだい」と批判されても仕方のない、類型的で安易なものが少なくなかった。おそらくは、報ずる側に型にはまった発想や思い込みがあったのだろう。一部には、いまもそうした傾向が残っている。しっかり取材をして本質を見きわめ、取り上げるテーマの真髄を伝えるという報道本来の姿勢が、かつての障害者スポーツ取材に乏しかったのを、関係者は肝に銘じておかねばならない。

 ただし、メディア側の意識もしだいに変わってきたのは間違いないところで、それは今回の報道でも明らかだった。報道量が増えただけでなく、内容も充実してきたのは、近年の手厳しい批判の効果とも言えるだろう。が、そうした中でひとつ納得できないのは、「ハンディをいかに克服したかという苦労話はもういらない」との批判だ。それは、いささかピントが外れた主張だと言っておきたい。

 健常者スポーツであれ障害者スポーツであれ、競技の主役が人間であるのは言うまでもない。報道の面でもそれは同じだ。それぞれの競技者が、それぞれが置かれた状況のもとで、より高みを目指すために、どんな思いを抱き、どんな考えを持って、どんな工夫や努力や試行錯誤を重ねてきたのか。どのような道のりをたどって、大舞台での結果に至ったのか――。すなわち、伝えるべきはそのこと、選手個々の人間としての生き方なのである。読者・視聴者もそこを知りたいと思っているのではないか。

 では、スポーツの基本となる体そのものにハンディのある障害者競技の場合はどうか。その道のりは、そのままでは思うように体を動かせないハンディを真正面から見据えるところから始まる。そして困難にひるまず競技を志し、限られた条件のもとで残された力をすべて出し尽くし、磨き尽くしていくことによって、自在に体を操るすべを身につけていくのだ。精神的にも肉体的にも、また技術的にも、いかにハンディを乗り超え、克服していくか。それこそが競技者としての道を開くカギなのである。

ゴールボール女子準決勝トルコvs日本、攻撃する欠端瑛子

ゴールボール女子準決勝トルコvs日本、攻撃する欠端瑛子

 たとえば――。手足に欠損のある水泳選手が、いかにして体幹を巧みに使う泳ぎを会得したのか。義足の陸上選手が、ただ装着するだけでも難しい競技用義足を、どのようにして自在に使えるようになったのか。視覚障害のあるゴールボール選手が、いかにして「まるで見えているかのように」ボールに反応する技を身につけたのか。それがパラ競技の真髄であり、読者・視聴者が知りたいことであり、つまりはメディアが一番に伝えるべきことなのである。そこを「障害を克服して、という苦労話はいらない」のひと言で封じてしまったらどうなるか。スポーツ報道の最も大事な部分を無視することになってしまうではないか。

 健常者競技でも同じことだ。天才肌もいれば努力型もいる。パワーやスピードに優れた者もいれば、体に恵まれず、技に活路を見出す者もいる。それぞれが、与えられた条件のもとで、工夫や試行錯誤を積み重ねて高みを目指していくのが競技者というものだろう。見どころは、まさしくそこにある。障害者スポーツでは、それが「ハンディ克服」にあるのだ。なのに、その最重要なポイントを伝えないでどうするのか。

ボッチャ個人で金メダルを獲得した杉村英孝

ボッチャ個人で金メダルを獲得した杉村英孝

 競技者たちは、おのおの深い思いを抱きつつ、常人には想像もできない努力や工夫を積み重ねて、見る者の目を見張らせるプレーやパフォーマンスを繰り広げる。だからこそ、ファンは彼ら、彼女らを競技者として、また人間として尊敬し、あこがれるのだ。健常者選手であれ障害者選手であれ、スポーツファンが抱く尊敬やあこがれの思いに変わりはない。

 健常者の競技は、一目で圧倒的なパワーやスピードや技術がわかる。障害者競技はそうとは限らない。が、その競技や選手についてある程度の知識を得たうえで、目をこらして見つめていれば、しだいに、選手たちがどれだけすごいことをやっているのかが見えてくる。そうなれば、すべてが輝いて見えるようになる。そのためにも、選手たちの苦闘の道のりを詳しく伝えることは欠かせない。

 スポーツ報道とは、競技の成績や経過、あるいは勝負のポイントや戦術・戦略を伝えるだけではない。一人一人の「人間の」物語を描いてこそのスポーツライティングである。今回のパラリンピック。かつてない量と質の報道がなされたのに、どこかに物足りなさが残ったのはそこだ。競技の説明や勝負の経緯はたっぷり書いてあった。が、選手個々の、一人の人間としての生き方や、パラアスリートとして高みを目指していく姿の描き方は希薄だった。それはやはり、伝える側が、「苦労話はいらない」の批判を避けようとしたからではないかと思われる。障害者スポーツの魅力を伝えるための絶好機だったというのに、なんとも残念なことだと言わねばならない。

 障害者スポーツやパラリンピックなどの大会が、メディアで大きく取り上げられるようになったのは近年のことだ。パラ報道はまだ発展途上である。批判には謙虚に耳を傾けるべきだろう。ただ、どんな分野であれ、何をどう伝えるかの基本は変わらない。頭でっかちな観念論、建前をふりかざすばかりの批判に左右される必要などない。

 真に伝えるべきものをきちんと見きわめ、読者・視聴者に提供するのがメディアの務めだ。パラ競技の真髄をきちんと取材し、その真の魅力、一番の見どころを伝えてこそのパラリンピック報道なのである。次回こそ、量だけでない、本当に充実したパラリンピック報道を実現してほしい。

 障害者の競技についていささかなりとも知識を持っていたとしても、それを見て楽しむスポーツとしてとらえていた人は、熱心なスポーツファンの中にもほとんどいなかったに違いない。だが今回、その視点が一気に開けた。パラ競技の実像が広く知れ渡ったことだけでなく、そこに「見て面白い」「観戦を楽しめる」側面があることも伝わったのである。その意味では、健常者スポーツと障害者スポーツには何の違いもなく、まさしく同列にあるという認識が生まれたと言える。つまりは、パラリンピック大会とその競技が、この社会で本当の「市民権」を得たというわけだ。「日本におけるパラリンピック元年」とは、そのことを指している。

 「障害者スポーツの魅力や面白さを知るには、目をこらして見つめなければならない」とは、筆者がたびたび指摘してきたことだ。飛び抜けたパワーやスピード、並外れた技などが一目瞭然の健常者競技と違って、障害者スポーツは、誰もがひと目でそのすごさを感じ、強く惹きつけられるというものではない。運動の基本となる体そのものにハンディがあるのだから、それは当然のことだ。が、競技や障害やクラス分けについて、また個々の選手のキャリアなどについて、ある程度の知識を得たうえで、じっくり腰を据えて目をこらしていれば、それはにわかに輝いて見えるようになる。鮮烈な迫力が伝わってきて、目が離せなくなる。健常者スポーツと同様の、あるいはそれ以上の感動、感激を味わえるようになる。

 今回、我々は、さまざまな競技に目をこらす機会を得た。その迫力、その卓越を楽しみ、感動することを覚えた。少なくとも、障害者スポーツの魅力を本当に理解するための入り口をくぐったことは間違いない。

 今回のオリンピックはコロナ禍のもとで開かれた。「多くの疑問や反対の声がある中、十分な説明もなく開催を強行したことは、オリンピックそのものに深い傷を残した。この時点で強行開催せず、大幅再延期を選択して、世の中が落ち着いてから開くべきだった」というのが筆者の見解だ。当然、パラリンピックについても同様に考えている。オリンピック・パラリンピックの精神からして、多くの人々に歓迎される形で開くべきだとの考えは変わらない。ただ、パラリンピックに関しては、無観客という異例の措置をとってまでして開いたことが、結果として大きな成果につながったとは言えるだろう。大切な世界共通の財産をただ傷つけるだけに終わったかにも見えるオリンピック。一方、パラリンピックはといえば、無理を重ねた開催が、かつてないテレビ中継態勢のおかげで、「パラリンピック元年」を開く役割を果たすことになったのである。

 パラリンピックは障害者スポーツの頂点に位置している。他にもさまざまなレベルのさまざまな大会がある。ハイレベルな大会ほど魅力が見えやすいのは言うまでもないが、一方で、どのレベルの競技にもそれなりの面白みや魅力があるのは忘れないでおきたい。どの大会であれ、どのレベルであれ、見方は同じだ。すなわち、ある程度の知識を頭に置いて、あとはひたすら目をこらして見つめればいい。2021東京大会は多くの人々の目を開いた。目をこらしてその魅力を見つめ続けていけば、日本のパラリンピック・ムーブメントの道もまた、広がり続けていくだろう。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。