2020.04.08
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2020.04.08
「あんたらの先輩が美談にしたてあげたんやけどな、そんなんやない」
1930年代の西田修平
西田修平の歯切れのいい関西弁がいまも耳に残る。話は1996年初頭、フランス人貴族ピエール・ド・クーベルタンが呼びかけ、実現した第1回アテネ・オリンピックから百周年にあたった。『友情のメダル』の話を聞きたくて、まだ東京・原宿の岸記念体育会館にあった日本陸上競技連盟事務局を訪ねた。
1910年3月生まれの西田は、まもなく86歳を迎えようとしていた。背筋が伸び、明るい声がよく通る。日本マスターズ陸上競技連合会長として東奔西走の日々である。「鍛えた人は年齢を重ねてもどこか違うなあ」―私はそう思いながら話を聞き始めた。
『友情のメダル』とは、1936年第11回ベルリン大会の陸上競技棒高跳びで同記録ながら2位となった西田と3位の大江季雄がベルリンから帰国後、銀と銅のメダルを2つに割り、それをつなぎ合わせたメダル。互いの健闘をたたえ合った「友情の証し」として新聞が取り上げ、道徳の副読本にも紹介されて、広く知られていた。しかし、当の西田本人が「あれは創られた美談だ」という。当惑が頭をもたげた。
「あれは間違えた決定やった。間違ったルールが適用されたから、それを修正したちゅうのが、あのメダルなんや」
1936年8月5日、陸上競技棒高跳び決勝は午後4時から始まり、やがて4m25を跳んだ日本の西田と大江にアメリカのアール・メドウス、ビル・セフトン、日米4選手にメダル争いが絞られた。
一気にバーを10cm引き上げて4m35とした。1回目の試技は全員が失敗、2回目でメドウスだけがクリア、そして迎えた3回目。残る3人ともこの高さを越えることはできなかった。メドウスが勝利の喜びを爆発させたとき、時計は午後8時をはるかにまわっていた。
メダルは残り2つ、3人が残る。長く緊迫した戦いはなおも続いた。夏とはいえドイツ北部のベルリンは寒さが忍び寄り、疲れも手伝って記録が伸びない。西田は支給された毛布にくるまり、「身体をまるめて寒さをしのいだ」という。4m15、日本のふたりはクリアしたが、アメリカのセフトンは3回とも落としてしまった。これで日本選手の2位、3位が決まった。
大江季雄
規則通りなら、順位が決まるまで試技を続なければならない。あたりは闇。「寒くて腹が減って、嫌になりかけていた」
時計は午後9時をまわり、試合時間は5時間を超えていた。そのとき、ドイツ人の審判が奇妙な提案をしてきた。まるで"悪魔のささやき"である。
「『あんたら日本人同士なんやから、もういいだろう』っていってきたんや。まあ、ふたりとも記録は同じやし、『一緒だから、まあいいやって』同意したんだね」
西田は「記録が同じだから、ふたりとも2等だ」と思っていた。ところが、翌日の表彰式で驚いた。2位西田、大江3位。
2人の記録4m25を西田は1回で、大江は2回目に成功した。それが順位を分けた。大会前に国際陸上競技連盟(IAAF)が変更した規則が根拠となったという。
確かにIAAFは大会前に開いた総会で試技数にかかわらず同記録は同順位だったルールを改訂、試技数を順位判定の基準とする旨、決定していた。しかし、規則はベルリン大会終了後から適用されるはずではなかったか。
「そのルールを審判が勝手に使ったのは、明らかに間違いなんや」西田の口調は厳しく、思わずこちらの背筋も伸びた。
大江(左)と西田(右)
美談となった友情物語では、「どちらからともなく『日本人同士が争う必要はない』と提案、4歳年下の大江が西田に2位を譲り、表彰台では西田が譲って大江が2位、西田が3位の位置に立った」とされている。
確かに表彰台では大江が2位、西田が3位の立ち位置で、大江が銀、西田が銅メダルをうけた。西田がそうするよう勧めたのだ。
「ふたりは同等、どっちが銀メダルでも銅メダルでもよかった。僕はその前のロサンゼルス・オリンピックで2等になって銀メダルをもろうてたから、もういいと思った。それに次の東京で開くオリンピックで金メダルをとれば、金、銀、銅とそろうことやし」
嫌がる美談風に書けば、「西田は、4歳年下の大江が次の東京大会での金メダルの期待を込めて、より近い位置に立たせてあげようと背中を押して激励した」となる。
帰国後、ふたりは2つのメダルをそれぞれ半分に割って、銀と銅をつなぎ合わせたメダルを創った。なぜ、そうしたメダルが創られたのだろうか。
銀メダルは受け取った大江がそのまま、京都府舞鶴市で病院を開業する実家に持ち帰っている。故郷では凱旋報告会も開かれ、舞鶴の街は大いに賑わったという。その直後、ベルリン大会組織委員会から送られてきたディプロマ(賞状)を見た大江の兄、泰臣氏が順位の間違いに気づいた。医師である兄もまた曲がったことの嫌いな人であった。
2人が創り変えたメダル
「このままにして置いてはいけない」と西田のもとを訪ねた兄は、西田が持ち帰った銅メダルとの「交換」を申し出た。しかし、西田もまた「このままにしてください」と譲らない。考えぬいた挙句、大江とも相談した西田は銀座の松屋百貨店にあった知り合いの宝石店に持ち込み、銀と銅、銅と銀という地上に2つしかないメダルに創り変えたのだ。
それはふたりが「お互いの健闘をたたえ合って」のことですね。そういうと、西田はまた語気を強めた。「ふたりの順番がついていないからや」明快だった。「審判が間違えたのだから、正さないといけない。スポーツはルールに忠実でなければならない」
西田の言葉に従えば、世界に類のないメダルは「友情の」と形容するより「抗議の」いや「真実のメダル」というべきなのかもしれない。当時、在籍していた産経新聞のコラムでも、西田さんが1997年4月13日に亡くなった翌日の紙面でも、「規則に忠実」の思いが詰まったメダルとして書いた。
しかし、最近は歳のせいだろうか。改めてふたりの歴史を読み返し、しみじみと「あれは友情のメダルだった」と思い直している。
ふたりが初めて出会ったのは1928年、西田が早稲田大学競走部1年生の時である。大阪で開いた早稲田の陸上競技講習会に織田幹雄主将に連れられてコーチ役を務めた。その年、織田が第9回アムステルダム大会の陸上三段跳びで日本人初のオリンピック金メダルに輝いたこともあり、講習会は受講生であふれていた。
その受講生の中に「ひときわ優れて棒高跳びの跳び方のうまい」選手がいたことに西田は驚いた。聞けば京都・舞鶴中学(現・西舞鶴高)3年生だという。
西田は当時、インカレに優勝、早慶対抗陸上にも勝ち、パリ国際大会で2位になるなどすでに日本の第一人者となっていた。
親切に中学生に技術を教え、フォームも丁寧にチェックしてやった。そして、「卒業したら、早稲田に来いよ」と、念押しも忘れてはいない。各大学の講習会はスカウトの場ともなっていた。
西田は和歌山県立和歌山中学(現・県立桐蔭高)では陸上部員として活躍したものの、関西中等学校大会棒高跳び3位が最高成績。頭抜けた選手ではなかった。大学で陸上を続けるつもりもなく、「帝大にあらずんば…」とされる風潮のなかで4年、5年、浪人してまで帝国大学への登竜門である旧制高等学校にこだわった。しかし、受験した一高(現・東京大学)、大阪高(現・大阪大学)、八高(現・名古屋大学)と続けて失敗、仕方なく早稲田の理工科に進んだ。競走部には無聊を慰めるつもりで入部。しかも、和歌山県選出の衆議院議員である父の郁平とは「1年間で辞める」と約束していた。
当時の早大競走部は織田や南部忠平(ロサンゼルス大会三段跳金メダル)ら日本最強を誇った。そんな先輩たちの練習を手伝い、終わった後に練習する日々。来る日も来る日も暗くなるまで練習を繰り返した。先輩の練習をみながらイメージトレーニング、それを繰り返す。そんな姿を認めたのが、いつも一人居残って練習していた織田である。織田に見いだされ、アドバイスをうけ、西田のその後の生き方が変わった。競走部を辞めることを止めた。いや、もう周囲が放って置かなくなっていた。そうして、大江との運命の歯車が回りだしていくのである。
翌年、舞鶴の中学生はまた講習会にやってきた。この年、日本人選手では初めて4mの高さを跳んだ西田は、素質を見込んだ中学生に、かつて織田から受けたように自分の技や練習方法を指導した。もちろん、早稲田に呼ぶという下心は十分にあったのである。
ところが、中学生は早稲田に来なかった。4年修了で慶應義塾大学に進学した。 「こっちは5年卒業で来ればいいと思って安心していたんだなあ。慶應はマネジャーが自宅前で座り込みまでしたそうや」その中学生こそ大江季雄である。教えをうけていくうちに、大江には西田を負かしたいという思いが生まれ、それならばライバルの慶應へとなったのだろうか。
そんな大江だが、学校の垣根を越えて西田に教えを請うた。西田もまた、素質抜群な4歳年下の存在を弟のように思い、指導を続けている。学校の垣根を超えた指導は当時のおおらかな風潮か、早稲田と慶應という距離の近さか、ふたりは切磋琢磨しあって実力を蓄えていく。西田は1932年ロサンゼルス大会で銀メダルを獲得、そうして後を追う大江とともにベルリン大会に臨んだのである。
大江はベルリン大会の翌年、アメリカのミルロース屋内競技大会で4m35の記録でベルリンの覇者、メドウスを破って優勝。来るべき1940年東京大会への思いを膨らませていった。
「ロサンゼルスとベルリンで西田さんが銀メダル。ベルリンでは銅に終わったが、今度こそ東京で季ちゃんが金メダルだ」
大江の父で医者の匡雄が期待を込めた東京大会はしかし、戦禍のために返上、後をひきうけたヘルシンキもやがて返上、第12回大会は中止された。大江も、そして西田も、招集されて戦地に赴いていった。
1941年、開戦間もない12月24日、大江季雄はフィリピンのルソン島上陸作戦に従軍、27歳の命を散らせた。
西田が大江の訃報を知ったのは明けて1942年1月、従軍していたマレー半島ツンバットである。
「大江と僕のことを知っといてくれたんやなあ、電報を受領した当番兵が部隊長より先に僕に知らせてくれた」
西田は大江の最期のようすをこう語った。
「最期はね、別の船に軍医として乗っていたお兄さん(泰臣、44年レイテ島で戦死)が看取ったそうや。周囲が、兄弟で最期の言葉を交わさせようとカンフル注射を勧めたけど、お兄さんは『ほかの兵士にあげてくれ』といって最期の脈をとったそうだよ。もう助からないとわかったんだね。りっぱな覚悟だと思ったよ」
大江の背嚢に血に染まったスパイクがあったと聞いたことがある。
「いや、それは、僕は知らない。従軍するのにスパイクはもっていくやろか、できないんじゃないか」
西田はその後、シンガポール、コレヒドールのあと満州に転属。そこで除隊し、終戦は勤務先の日立製作所亀有工場で迎えた。
「大江は1940年の東京オリンピックがあったら、間違いなく主役になっていたと思う。ほんとうに残念でならない。終戦になって生き残ったとき、僕は大江の分まで精一杯、陸上競技にうちこもうと思ったよ」
いい戦争など、ありはしない。国土を、文明を、文化を破壊しつくす戦争は悪である。そして大江に限らず、スポーツに学業に、仕事に大きな夢を抱いてきた人を、この世から夢とともに消滅させてしまう。オリンピックは「平和を希求する運動」とはいいながら、抑止力足り得ているだろうか。たぶん、なってはいまい。3回の中止がそれを物語る。 歴史に「もし」はあり得ないが、戦争に至らず、オリンピックが頑張りぬいて東京大会が幻とならずに開かれていたなら、大江の夢は叶っていたかもしれない。
そんな大江が愛用した竹製ポールが1996年、60年ぶりに舞鶴市の白糸浜神社の拝殿鴨居から発見された。いまは舞鶴市立市政記念館に所蔵されているポールはいうまでもなくベルリンの熱戦を戦ったものである。帰国後の全日本学生選手権に備えて送り返し、その後、実家近くの同神社に奉納された。
一方、西田のポールはオリンピック後の欧州転戦のあとに欧州の関係者に寄付された。
当時、世界のトップ選手は竹製のポールを使っていた。日本製が一番よくしなると評判をとってもいた。そして戦後初めて開催されたオリンピック、1948年ロンドン大会の際、西田は旧知の美津濃(現・ミズノ)副社長、水野健次郎に相談。物のないロンドンに大量に贈って喜ばれたという。日本は戦争責任から戦後初となったロンドン大会には招かれなかったが、美津濃製ポールだけは戦後初のオリンピック出場を果たした。西田の大江への思いも込められていたように思う。
そして、あの『友情のメダル』についていえば、西田のメダルは和歌山・紀三井寺陸上競技場を経て母校・早稲田大学スポーツ博物館に、大江のそれは秩父宮記念スポーツ博物館にそれぞれ収蔵されている。
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