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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

7. オリンピック日本初女子メダリスト・人見絹枝『大正デモクラシーの花』

【オリンピックの歴史を知る】

2016.12.12

陸上競技は1896年第1回アテネ大会からオリンピックでは欠かさずに行われている。古代オリンピックにおいても最初に行われた競技は、1スタディオン(約191m)を走る陸上競技のスタディオン走であったとされている。その陸上競技への女性の参加は意外に遅かった。

近代オリンピックでは、提唱者のクーベルタンが女性の参加に反対していたが、1900年第2回パリ大会のテニスとゴルフでそれが実現した。しかしこの大会はオリンピックの名のもとに行われたにもかかわらず、実態は万国博覧会の付属スポーツイベントであったために、女性の参加は“女子スポーツのショー=見せ物”としての性格が強かった。第3回大会以降も女性の参加は、アーチェリー、フィギュアスケートなどへと広がっていったが、それらは男性から見て「女性らしい」とされるスポーツであり、ひたすら体力で順位を競う陸上競技への女性の参加はしばらく認められていない。
結局、女性のオリンピック陸上競技への参加は、1928年第9回アムステルダムオリンピックまで待たなくてはならなかった。しかしその間、女性は黙って自分たちの出番を待っていたわけではなかった。

女性のオリンピック陸上競技への参加に道筋をつけたのは、フランスのアリス・ミリアであった。彼女は1919年、国際オリンピック委員会(IOC)に対してオリンピックの陸上競技への女性の参加を要望し、拒否される。だが1921年に国際女子スポーツ連盟(FSFI)を結成し、翌1922年にはパリで第1回国際女子オリンピック大会を実施した。参加はイギリス、フランス、チェコスロバキア、スイス、アメリカの5カ国で、大会名に「オリンピック」とつけたのは、オリンピックの陸上競技に女性の参加を認めないIOCへの抵抗であった。
その第2回大会は4年後の1926年、国際女子オリンピック大会ではなく国際女子競技大会として実施されることになる。ミリアのFSFIがIOCと協議した結果、1928年のアムステルダム大会から陸上競技に女子種目が採用されることになった。そのためFSFI側が「オリンピック」の名を外したのである。

第2回国際女子競技大会に日本からただ1人出場したのが人見絹枝だった。スウェーデンのイエテボリで行われたこの大会で、人見は100ヤード走3位、走り幅跳び1位、立ち幅跳び1位、円盤投げ2位。個人総合1位の成績で、名誉賞を受賞するという輝かしい成績を残した。

イエテボリで行われた第2回国際女子競技大会の走り幅跳びで 5m50cmを跳び優勝

イエテボリで行われた第2回国際女子競技大会の走り幅跳びで 5m50cmを跳び優勝

1907年に岡山県で生まれた人見絹枝は、テニス選手を経て陸上競技で数々の好成績を収めるようになる。
二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)に入学した人見は、日本新記録を連発。明治神宮競技大会をはじめ多くの大会で優勝を飾る。

その後人見は大阪毎日新聞社に入社し、1926年、第2回国際女子競技大会に派遣され驚異的な成績を残したのである。2年後の1928年には、アムステルダムオリンピックにおいて史上初めて行われた陸上競技女子種目に出場した。これは日本の女子選手にとって初めてのオリンピック出場でもあった。

この大会で人見は100mにかけていた。同じ年に行われた全日本陸上競技選手権大会で、非公認ながら12秒2の世界記録を出していたからである。アムステルダムで日の丸を掲げることを夢見ていた人見は、100m予選をトップで通過。観客席から「ヒートーミー!」のコールが聞こえる。しかし次の準決勝の着順は4位だった。
決勝に進めなかったことで、彼女にとってのアムステルダムオリンピック陸上100mが終わった。決勝に出られない負け方などしたことのない人見は合宿所に戻り、夕食もとらず部屋にこもって大声で泣いた。敗者の辛さ、悲しさをかみしめながら涙がつきるまで泣いた。このままでは日本に帰れないと思った。

人見は個人の全種目100m、800m、円盤投げ、走り高跳びにエントリーしていたが、100mだけに集中してメダルを獲得したら、ほかは棄権する予定にしていた。
しかしその100mで敗退してしまった今、メダルをとるにはほかの種目に出場しなくてはならない。だが、すでに円盤投げは終わってしまっていた。
走り高跳びは苦手としていた種目であり、出場したところでメダルは無理と思われた。残るは800mだったが自信はなかった。この距離のレースをしたことがなかったからだ。
100mと同じように全力で走れば、きっと倒れてしまうに違いない。しかし、それでもやらねばならない。

人見は800mの予選を通過した。決勝は翌日。ベッドの中に入っても不安で体が震えてくる。どうやっても眠ることができず、ひたすら神に祈った。「どうか明日、走る力を与えてください。明日、走らせていただいたなら、あとはどうなってもかまいません」。泣きながら祈った。ほとんど眠らないうちに、朝の光が射してきた。

決勝の朝、ともにメダルをめざして戦う織田おだ幹雄みきお南部なんぶ忠平ちゅうへいらも寡黙かもくだった。織田も南部も得意とする走り幅跳びで決勝に進めなかったのだ。午後、織田は三段跳びに出場する。人見の800mも午後行われるのだが、昼食が喉を通らない。練習場でウォーミングアップをしていると、それまで降っていた雨が止み、晴れ間がのぞいてきた。織田は「今日はうまくいくかもしれない」と元気に言った。織田は雨が嫌いだったのだ。織田の明るい表情を見て、人見の心も落ち着いてきた。

女子800m決勝がはじまる。三段跳びでは織田がトップに立っていた。この知らせは人見を大きく勇気づけた。
号砲とともに9人の選手がいっせいにスタートする。人見は先頭の選手についていき、最後の100mでスパートして抜き去る作戦をとった。トラックを1周したとき(400m)の順位は6位。このままではいけない。ラスト200mで3位の選手をとらえる。そして残り100mの地点で2位の選手を抜いた。だがそこからの記憶はなかった。
気づいたときには織田と南部の肩にかかえられ、三段跳びのフィールドに運ばれていた。観客席の日本人は涙を流しながら人見の姿を見つめる。地元の観衆も驚きの表情を見せていた。結果は2位だった。

アムステルダムオリンピックの女子800m決勝で トップのラトケ(ドイツ)と競り合う人見

アムステルダムオリンピックの女子800m決勝で トップのラトケ(ドイツ)と競り合う人見

こうして人見絹枝は日本女子選手として初めてオリンピックに出場し、女性初のメダリストになった。

オリンピック陸上競技における2人目の日本女子メダリストは、1992年バルセロナオリンピック女子マラソン銀メダルの有森裕子。2人目の誕生まで64年待たなくてはならなかったのだ。トラック種目では人見に続く日本女子メダリストはまだ出現していない。

人見が銀メダルを獲得した日そして場所は、日本にとってさらに特別なものになった。織田幹雄が日本選手として初めて金メダルを獲得したのである。1928年8月2日のことだった。

1930年8月、人見はチェコ(当時はチェコスロバキア)のプラハにいた。9月からはじまる第3回国際女子競技大会に出場するためだ。走り幅跳びで5m90を跳び優勝。
60mは3位、100mは準決勝敗退、200mは棄権した。やり投げは3位、三種競技(100m、走高跳、やり投げ)で2位。個人総合で2位。400mリレーは4位で、日本チームは参加18カ国中4位になる。日本チームのポイントのほとんどは人見によるものだった。彼女は全力をつくした。だが、疲れきっていた。いよいよプラハを旅立つとき、第2回国際女子競技大会以来親しくしていた外国人選手たち、そしてチェコの人々が別れを告げに来た。

この大会での人見の活躍は、総合優勝した4年前ほどではなかった。しかし、動けなくなるまで必死にやりとげる彼女の姿は、チェコの人々に大きな感動を与えたのだ。

岡山県総合グラウンド陸上競技場の人見絹枝像

岡山県総合グラウンド陸上競技場の人見絹枝像

翌1931年、奇しくもアムステルダムオリンピックで銀メダルを獲得した日からちょうど3年目にあたる8月2日、人見は肺炎のため24歳の短い人生の幕を閉じた。

チェコのプラハには、彼女の碑がある。そこには「人見絹枝 1931年8月2日大阪で死す 愛の心をもって世界を輝かせた女性に感謝を捧げる チェコスロバキア体育協会」と刻まれている。

1941年に日本はハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入する。
その10年前の1931年は、大正デモクラシーの波が終着点を迎える頃。西洋文化をファッションに取り入れたモボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)という若者たちが、まだ街を闊歩(かっぽ)していた。人見絹枝は、ファッションではなく真にモダンな女性だった。
単身ヨーロッパへ乗り込んで命をかけて走り、その姿はスウェーデンやチェコの人々に感動を与え、そしてみんなに愛された。新聞社のジャーナリストとして執筆や講演などの活動を積極的に行いつつ、トップアスリートとして見事な記録を刻み続けた彼女は、時代に先駆ける女性であり、大正デモクラシーの光の先に咲いた一輪の花であった。
人見絹枝は、ひまわりのように大きく咲いて、桜のように散っていった。

(参考文献)

  • 人見絹枝著/織田幹雄・戸田純編「人見絹枝『炎のスプリンター』」日本図書センター(1997)
  • 小原俊彦 「燃え尽きたランナー 人見絹枝の生涯」大和書房(1981)
  • 來田享子 「アムステルダム大会への女子陸上競技採用決定直後のFSFIの主張:FSFIとIOCの往復書簡の検討から」体育学研究 第43号(1998)
  • 蘆田東一 甲南女子中学・高等学校『研究紀要』第31号(2010)

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。