2016.11.22
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2016.11.22
1909(明治42)年も明けたばかり、東京高等師範学校(現・筑波大学)校長を務める
自分(ジェラール)は国際オリンピック委員会(IOC)を組織し、1896年にギリシャのアテネで第1回オリンピック競技大会を開催することに尽力したフランスの男爵ピエール・ド・クーベルタンの同窓生である。クーベルタンから自分宛に手紙が届き、欧米各国の委員で構成、運営されているIOCにまだひとりも委員が参加していないアジアを代表して、日本から適当な人物を探し、就任を促してほしいとあった。ついては貴方(嘉納)を委員として推薦したい。
すぐに嘉納は外務大臣・
ジェラールはすぐさま手紙をしたため、クーベルタンに「打って付けの人物」の受諾を伝えている。書簡は1月19日付だった。
なぜ、嘉納に白羽の矢が立ったのだろう。ジェラールは親しくしているロシア公使、
講道館柔道の創始者で、日本のオリンピック参加に尽力した嘉納治五郎
1860(
東京高師では陸上大運動会開催に始まり、体操専修科(現・筑波大学体育専門学群)を開設し、体操、柔道、剣道の教師養成に乗り出している。早くから青少年の体位向上に関心を寄せ、全学参加の水泳実習や長距離競走大会を実施するなど、日本の体育・スポーツ普及のパイオニアのひとりでもあった。
かたわら1896年から清国(中国)の留学生を受け入れるための教育機関を創設、東京高師と同様のカリキュラムを学ばせるなど早い時期から国際交流を実践している。
そして、講道館柔道の創始である。
1882(明治15)年、東京・下谷区北稲荷町の
「打って付けの人材」嘉納治五郎は、1909年5月27日のIOCベルリン総会において正式に新委員として選出された。アジア人では初のIOC委員の誕生だった。嘉納が初めてクーベルタンと会うのは1912年、第5回オリンピック開催都市のストックホルムである。
その前、嘉納には大仕事があった。そのストックホルム大会に参加するための国内統括団体の創設である。
道のりは容易ではなかった。何より、文部省が国民の体育向上を
嘉納が会長につき、事務所は東京高師に置いた。規約はオリンピック参加をうたうものの、体育の普及という国家命題をもあわせ持ついわば妥協の組織であった。これが大日本体育協会という新組織が日本オリンピック委員会(JOC)と名乗らなかった理由である。1989年、日本体育協会からのJOC分離・独立までこの状況が続いた。
さらに11月にはオリンピックの国内予選会を開催、選手選考を急いだ。対象を陸上競技13種目だけに限定し、東大生の
ところで予選会の出場資格は、
に限定された。つまり「アマチュア資格」であった。
混乱の中、嘉納は選手団長として日本初のオリンピック参加を果たす。結果は三島も金栗もみじめなありさまだった。落胆するふたりに、嘉納はこう
「落胆してはいけない。外国の技術を学び、大きな刺激を得たことは大成功と思う。日本のスポーツが、国際的なひのき舞台に第一歩を踏み出すきっかけをつくったという意味で、大きな誇りを持ってほしい」
いかにも国際舞台に初めて一歩を踏み出した日本スポーツを現す言葉である。金栗はその後、教育者・指導者として「東京・箱根間大学対抗駅伝」を創始し、マラソン・長距離界の普及、発展に大きな足跡を残した。三島はスタートの技術向上や、やり投げなど競技の発展に尽くした。スポーツ界における「坂の上の雲」の時代である。
さて嘉納は、同じ教育者であるクーベルタンとスポーツによる青少年教育の重要性で共鳴しあい、深く親交を重ねていく。IOCが定期的に発行する冊子「ルヴェー・オランピック」に、クーベルタンが柔道に関する小論文を発表する一方、嘉納は柔道の精神である「
欧米のものだったオリンピックを日本の首都・東京で開く。国民の思いが高まっていくのは、1928年アムステルダム大会での
当時の鉄道省が制作した1940年東京オリンピック招致ポスター
IOC委員である嘉納は当然、全力を傾けていく。1932年ロサンゼルス、1933年ウィーンに2度、1934年アテネとIOC総会で東京開催の意義を説いてまわった。現在と違って船での長旅である。70歳代になっていた嘉納にとって厳しい旅となったが、精力的にIOC委員たちとの交流を深めた。
そして1936年ベルリンで行われた総会で、欧米だけで開催されてきたオリンピックを極東の地で開催してこそ世界的な広がりをもつのだと強調、東京招致成功に導いた。嘉納とともに精力的に活動した
嘉納の尽力で1940年第12回大会の東京開催は決まった。しかし、迫る戦禍が影を落とす。IOCは、暗に大会返上を迫ってくる。嘉納はこれに対し猛然と抗議、1938年カイロで行われたIOC総会で「オリンピックの開催は政治的な状況などの影響を受けるべきではない」と主張、全委員の賛同を取り付けた。
嘉納は帰途、前年に亡くなったクーベルタンの心臓をオリンピアに移す儀式に参列、その後、日本を支持してくれたIOC委員たちへの返礼とさらなる協力要請のため、欧米を歴訪した。しかし、心労もあったろう。カイロからの旅の最後、バンクーバーから横浜に向かう氷川丸の船上で肺炎を起こし、78歳の人生を閉じるのである。1938年5月4日、横浜到着2日前のことであった。
日本では嘉納の死をきっかけに返上論が多数を占めるようになり、2カ月後、東京市は開催を返上した。
東京・文京区の占春園にある嘉納治五郎像
嘉納の思いはしかし、後の人々に引き継がれ、戦後、1964年第18回東京大会開催として結実した。招致を決めた1959年ミュンヘン総会で最終スピーチを行った元外交官の
さらに、1964年東京大会で柔道が公式競技となる。嘉納自身は生前、柔道のオリンピック採用を働きかけたふしはないが、これは彼を尊敬していたIOC委員たちの尽力によるものである。柔道はやがてJUDOとして世界に普及し、嘉納の教え、精神は長く残るレガシーとなった。2020年、嘉納のことはもっと称賛されてよい。