2017.02.10
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2017.02.10
2012年夏季オリンピックがロンドンに決まったとき、「近代スポーツの母国への回帰」が語られた。前項で取り上げたサッカーをはじめ、そこから派生したラグビー、陸上競技、ボート、テニスなど、今日、世界中で行われている「あらゆる」スポーツが19世紀後半までに英国で誕生し、成長している。
中世までの「遊戯」から、近代の「スポーツ」へ、その変化をもとめるとしたら、ルールの成立と組織の整備があげられよう。つまり、社会化することで「娯楽」「気晴らし」が「真面目な遊び」に変わっていく。それが英国で起きたわけに触れてみたい。
娯楽性からの変化の背景で、17世紀中期に起きた清教徒革命が大きな役割を果たす。1618年、英国王ジェームズI世は『ブック・オブ・スポーツ』(遊戯教書)と呼ばれる布告を出し「罪のないスポーツ」への「妨害」「抑圧」を禁じた。ピューリタン(清教徒)たちは、民衆のスポーツ(娯楽)である競走や格闘技、フットボールのような身体活動を、「ふしだら」で「
やがて、清教徒革命によって成立した共和制は行き詰まり、
1835年には民衆の祭り、娯楽で公然と行われてきた「動物いじめ(例えば豚を的にした射撃など)」を禁じる法律ができ、同年制定の「公道法」はフットボールなどのゲームで通行に支障を与えた場合、罰金を科すことが定められた。また、
19世紀はスポーツ史に革命を起こした世紀といえよう。その担い手がパブリックスクールの生徒とオックスフォード、ケンブリッジ両大学の学生、OBである。彼らの多くは英国の支配階層ジェントリー出身者だった。
イギリスのパブリックスクールの1つ、ラグビー競技を生み出した「ラグビー校」
ジェントリーとは古くは各地の大地主、所領の経営だけではなく行政、司法をも担う
パブリックスクールでは古典・人文学を中心に支配階層としての教養を教えた。そこに19世紀初め、身体活動を通じた精神と肉体の鍛錬が加えられ、重要なポジションを占めていく。勤勉、節制、忍耐などが重視された学校生活のなかで、無秩序だった身体活動にルールが形成されていくのは自然だろう。
例えば、前項でも取り上げたフットボールの村と村との対抗戦ではゴールの位置だけが決められ、何キロもの広い地域で行われた。審判もいない状況下、暴力行為や破壊活動が
パブリックスクールでは限られた校庭で活動しなければならない。自然、エンドラインとサイドラインが生まれ、ゴール間の距離も定まる。ラフプレーも禁止されるようになる。安全性を高めるため、してはならないことが定められた。「ルール化の発見、発明」といってもいい。
彼らは1863年のサッカーの組織化を指導、その後、次々と各スポーツのルール形成と国内統一組織化を手がけていく。主だった組織の成立をあげておこう。1857年登山、1866年陸上競技、1869年水泳、1871年ラグビー、1875年ヨット、1878年自転車、1879年スケート、ボート、1884年ボクシング、1886年ホッケー、1888年テニス、1895年バドミントン、1898年フェンシングと、ほぼ19世紀末までに近代スポーツが組織化されている。
ちなみに、パブリックスクールでは、「自治」の名のもと生徒は放任状態に置かれていた。このため、周辺住民とのトラブルも絶えず、18世紀初め、ラグビー校校長に赴任したトマス・アーノルドが変革に乗り出した。勤勉、節制、忍耐を重んじた教育である。ただ、彼は運動を教育に用いる意志はなかったとされる。運動の導入は彼の弟子たちで、活動は「アスレティシズム」と呼ばれた。
アスレティシズムでは個人よりも集団スポーツに重きが置かれ、クリケットやフットボール、ボートなどが有効であるとされた。集団スポーツによる忍耐や
クリケットの試合風景
この頃までに産業革命で力を得た
他方、産業革命により労働者階級もスポーツと縁をもち、「プロ・アマ」問題が発生する。ストレートにいえば、アマチュアとはジェントルマン階級、プロフェッショナルは労働者階級を指す。プロはあくまでもアマチュアの奉公人であり、同じピッチ上でプレーしていても「スポーツマン」とはみなされず、競技場の出入り口や更衣室、食事の場も差別されていた。ジェントルマンはスポーツに加え、ダンスや演劇活動など多方面で楽しみを享受する人たちであり、プロのように一芸に秀でる必要はない。一方で同じ舞台に労働者階級が上ることを好まず、出場資格に「アマチュアに限る」と条件もつけた。それは、1839年の英国の格式あるボートレース、ヘンレー・レガッタが始めとされ、スポーツ界に派生していく。単にスポーツから労働による対価を得るかどうかではなく、英国の“階級文化”の象徴といっていい。
1890年代のヘンレー・レガッタ参加者たち
近代オリンピックは1894年、パリで開いた国際スポーツ会議で復興が採択されるのだが、このときから「アマチュア」はオリンピックの創始者ピエール・ド・クーベルタンを悩まし続ける“悩みの種”であった。
ちなみにフランス人であるクーベルタンはオリンピック復興を提唱する以前、英国に渡り、パブリックスクールのスポーツ教育を視察している。スポーツの競技性とともに教育効果、とりわけ人間形成のための教育効果に着目し、英国でのスポーツ教育を土台として世界平和の意味合いを込めて近代オリンピックを創始するのである。