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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

20. 白人選手のブラックパワー・サリュート

【オリンピックの歴史を知る】

2020.01.29

1968年メキシコシティー大会、陸上男子200mの決勝で1位になった選手は、19秒83の世界記録で優勝したアメリカのトミー・スミス。2位はオーストラリアのピーター・ノーマン、3位はアメリカのジョン・カーロスだった。

3人はメダル授与のため表彰台に向かっていた。ただ、不思議なことに2人のアフリカ系アメリカ選手は、シューズを履かず黒いソックスを履いている。さらに1位のスミスは黒いスカーフを首にかけていた。

アメリカ国歌が演奏され、星条旗が掲揚される。するとその間、金メダリストのスミスと銅メダリストのカーロスは、視線を下にして頭を垂れ、黒い手袋を着けた握り拳を高々と突き上げていた。会場は騒然とした。観客からはブーイングが起こり、このニュースは世界中に配信された。

国際オリンピック委員会(IOC)のブランデージ会長は、オリンピックにおける政治的パフォーマンスはオリンピック憲章に抵触するとして、オリンピック村から追放したのである。

この事件は「ブラックパワー・サリュート(黒人の力を示威する敬礼)」と呼ばれるようになる。

2人のアフリカ系アメリカ選手は、この行為によって、世界中から非難され、迫害され、壮絶な人生を歩むことになる。

しかし、彼らよりももっと過酷な人生を歩むことになったのは、銀メダリストの白人選手、オーストラリアのピーター・ノーマンだった。

陸上競技男子短距離でのメダル獲得は、オーストラリア初の快挙である。ヒーローとして国に帰るはずだった彼は、オリンピックの表彰式という晴れの舞台で、自ら悲痛な人生を選んでしまったのだ。

1968年メキシコシティーオリンピックの開会式

1968年メキシコシティーオリンピックの開会式

1942年、ピーター・ノーマンはオーストラリアのビクトリア州・メルボルン郊外のコーバーグという町の貧しい家に生まれた。

当時のオーストラリアは、イギリスの植民地だった18世紀からの「白豪主義」政策によって、白人が先住民のアボリジニやアジア系民族などの有色人種を差別していた。すべてにおいて白人が優先され、有色人種は市民権が得られないなど、長きにわたって法的にも迫害されていたのである。

しかしピーターは敬虔なクリスチャンだった両親とともに、貧しい有色人種の人々に炊き出しを行うなど、弱い者に対して思いやりのある行動をしていた。彼ら家族は白人でありながらも、決して差別する側に立つことはなかった。他の白人たちからは非難されることもあった。そんなとき、父はピーターに言った。

「肌の色など関係ない。人間はみんな平等なんだ。それを忘れてはいけない」

この父からの言いつけをピーターはまもった。

家が貧しかったため、小学校を卒業後、すぐに働き始めた。だが足が速く走ることが好きだったピーターは、地元のチームで陸上競技を続けた。仕事のかたわらリレーの選手として頭角を現し、やがて200m走に転向する。才能は一気に開花し、ついにオリンピック代表に選ばれたのだ。

1968年、オリンピック・メキシコシティー大会が開幕。だが、このときピーターは、まったく期待されていなかった。アメリカ選手に勝てるわけがないと思われていたのだ。ピーターが出場する男子200mは、世界記録保持者ジョン・カーロス、トミー・スミスら3人のアメリカ選手が表彰台を独占すると予想されていた。

しかし、ピーターはオリンピック記録を更新する20秒20で予選を走り、その後準決勝を突破して、ついに決勝進出を決めたのだ。

決勝前日、ピーターはジョン・カーロスとトミー・スミスに話しかけた。話すのは初めてだったが、3人はすぐに打ち解けた。

そしてそのとき、カーロスはピーターにこう言った。 「ピーター、あんたは人権を尊重するか? おれたちはたぶん3位までに入って表彰台に立てると思う。そうしたら、サリュートをやるつもりだ。あんたは、もし表彰台に立ったら、どうする?」

「サリュート……?」

1964年東京オリンピックの前まで、アメリカで公然と行われていた人種差別。バスには白人優先席が存在し、公衆トイレも白人用と有色人種用があった。映画館やスポーツ観戦でも白人席と黒人席は、差別的に分離されていた。レストランやホテルも有色人種の入店を拒否し、黒人に対する暴力も横行していた。

そんななか、人種差別に反対するマーティン・ルーサー・キング牧師らの運動で、1964年に「公民権法」が制定された。法的には有色人種の選挙権が保証され、公共施設での差別も禁止された。これで人種差別はなくなるはずだった。

しかし、差別はなくならなかった。黒人への暴行が公然と行われ、彼らの商店や住居への放火が多数発生した。

そして、1968年メキシコシティーオリンピックの半年前に、公民権運動をリードしてきたキング牧師が暗殺されたのだ。

黒人の怒りは頂点に達した。黒人選手たちは、メキシコシティーオリンピックのボイコットを検討した。横行する差別に目を背け、メダル獲得のためだけに黒人選手を送り込むアメリカ社会に抗議の意志を示そうとしたのだ。

しかし、その動きは、スポーツの政治利用を禁じるオリンピック憲章の趣旨に反するとして、国際的な批判を浴びることになってしまった。

黒人選手たちの意見は2つに割れた。

「ボイコットすべきだ」という意見と「今後の人生を考え、とりあえず出場すべきだ」という意見だ。

ジョンとトミーの2人は、出場する道を選んだ。だが、彼らはそのときすでに「ある決意」を胸に抱いていた。それが「サリュート」だった。

男子200m決勝のレースがスタートした。先行したのは世界記録保持者のジョン・カーロス、その後ろをトミー・スミスが走る。 ピーター・ノーマンは出遅れたかに見えた。しかし、ピーターの追い上げは驚異的だった。

1位はスミス。そしてなんと、ピーター・ノーマンは、世界王者カーロスを抜き、2位に入ったのだ。自ら予選で出したオリンピック記録より速い20秒06。1位のスミスとともに当時の世界記録を更新したのだ。

オーストラリアにとって、男子短距離走でのメダル獲得は史上初の快挙だった。コーチはピーターに駆け寄り、言った。

「ピーターすごいぞ。明日の朝刊で、おまえは英雄だ」

続けて、オーストラリアの英雄は、2人の黒人のパフォーマンスに巻き込まれてはいけないと注意した。

オリンピックの陸上短距離で銀メダルを獲得したピーターの将来は、もはや約束されたようなものだった。もう、アルバイトをしなくていい。

一方、表彰式の直前、スミスとカーロスの2人は、すでに決意を固めていた。表彰台にメダリストが立った瞬間、世界中の人々が彼らに視線を注ぐ。写真は全世界に配信される。2人にとってその瞬間こそ、アメリカにおける黒人の悲惨な状況と、差別との戦いを世界に訴える絶好のチャンスだったのだ。

しかし、オリンピック憲章は、いかなる種類のデモンストレーションも、あるいは政治的、宗教的、そして人種的プロパガンダも許可されない、としている。もしアスリートが政治的パフォーマンスを実行した場合、オリンピックから永久追放されるだけでなく、他の公式な大会に出ることも許されず、選手生命が絶たれてしまう。

彼らはそれを知っていた。だが、黒人たちの苦しみを世界に訴えるために、胸に人種差別へ抗議する団体「人権を求めるオリンピックプロジェクト」のバッジをつけ、「サリュート」を行おうとしていた。

「人権を求めるオリンピックプロジェクト」のバッジ

「人権を求めるオリンピックプロジェクト」のバッジ

2位になったピーターは、2人のアメリカ人選手のところに来て言った。

「それで、どうすればいい? ぼくは表彰台の上で、何をすればいい?」

その言葉に対してスミスとカーロスは、謝意を示しながら、そのことは忘れてほしいと言った。自分たちだけの問題だと。

このとき、ピーターは子どものころ、父に言われた言葉を思い出したという。 「肌の色は関係ない。人間はみんな平等なんだ」

そしてピーターは、自分も同調すると言った。表彰台で2人と同じバッジを胸につけることにしたのだ。そのバッジは、2人の行為に賛同することを意味していた。

読者のみなさん、あなたがピーターだったらどうしますか?

陸上男子200mの表彰式

陸上男子200mの表彰式

表彰式が始まった。スミスとカーロスの2人は、靴を脱ぎ、黒い靴下で表彰台に登る。これは、アメリカの黒人が、差別によって貧困に苦しむ様子を表現している。そして、黒人であることの誇りと、立ち上がる意志を訴えるために、頭を垂れ、黒い手袋をはめた手を天に向かって突き上げたのだ。

2人の隣に立つピーターは、あのバッジを胸につけていた。

この「ブラックパワー・サリュート」の映像と写真は、またたく間に世界中に配信された。予想以上の反響があり、賛否両論の嵐が巻き起こった。

国際オリンピック委員会は、理念に反するとして、スミスとカーロスをオリンピックから永久追放することを決定。2人は翌日、アメリカに強制帰国させられた。

一方、オーストラリアではピーターの史上初の快挙が大々的に報じられ、マスコミと国民は熱狂した。だが、彼が帰国したとき、空港で待ち受けていたのは、母と妻、そして友人がわずかに数名のみだった。そこに、マスコミやファンの姿はなかったのだ。

実は、表彰式で黒人2人が行ったパフォーマンスにピーターがバッジを胸につけ、賛同の意志を示した事実が報道されると、賞賛は一変したのだ。いまだ白豪主義を貫いていたオーストラリアのマスコミは、ピーターを非難しはじめた。

自宅に何通もの脅迫状が届くようになった。そして、無視。マスコミや国民だけでなく、隣人ですら彼の偉業をまるで「なかったこと」のように扱ったのである。

ピーターはその後、妻ともうまくいかなくなり、離婚。職を転々とするようになった。

そんな彼を唯一支えたものは「走ること」だった。スミスとカーロスは、永久にオリンピックから追放されたが、ピーターにはまだオリンピック出場の権利が残されていたのだ。少なくとも表向きには。

次のオリンピックへ向けて練習を重ねたピーターは、オーストラリア国内の大会で何度も優勝し、世界ランク5位を維持し続けた。

そして迎えた1972年。ミュンヘンオリンピックが開催されるこの年、ピーター・ノーマンは30歳になっていた。だが好調を維持し、オリンピックの派遣標準記録を突破したため、彼のオリンピック出場は確実に思えた。

しかし、オーストラリアは、ミュンヘンオリンピックの陸上男子200mに、なぜか「自国の選手を派遣しない」と発表したのだ。

ピーターはミュンヘンオリンピックに出たかった。そのために努力し、記録も出してきた。そのチャンスが理不尽な理由で逃げていく。

この仕打ちに、彼は打ちのめされた。そして、陸上界からの引退を決意した。

こうして、銀メダリスト「ピーター・ノーマン」の名は、オーストラリアの人々から完全に忘れ去られてしまったのだ。

アメリカのスミスとカーロスは、メキシコから帰国後、想像を絶する苦難を味わっていた。2人とも勤務先から解雇され、貧困に苦しむ生活を送った。家族への脅迫も相次ぎ、ついには、カーロスの妻が自殺するという悲劇まで起こってしまった。

3人は手紙や電話で連絡し、おたがいに励ましあっていた。

1970年代中頃、アメリカでは次第に黒人の人権が認められるようになる。その結果、スミスとカーロスを「人種差別と闘った英雄」として評価する声が高まり、彼らの名誉は、少しずつ回復されていった。

しかし、オーストラリアにおけるピーターの名誉だけは、回復される気配がなかった。

現役を引退したピーターはその後、無理がたたったのか、アキレス腱を断裂。さらに、大量に処方された痛み止めが原因で、健康がすぐれずにいた。

そんなある日、ピーターの甥であるマットが来て、どうして「ブラックパワー・サリュート」に同調したのかとたずねた。

ピーターは答えた。見て見ぬふりをすることができなかった。そうしてしまうと、彼らを差別する人たちと同じになってしまう。肌の色なんて関係ない。そして、人間はみんな平等だと言った。

マットは、後悔していないかたずねる。

しかし、ピーターはしていないと強く言った。たしかに得るはずだった多くを失ってしまったかもしれないが、心は満たされている。自分の信念を貫き通せた、と答えた。

テレビドラマなどの制作を手がけるフリーランスの映像作家になっていたマットは、ピーター・ノーマンのドキュメンタリー映画を制作しようと立ち上がった。

マットは、詳しい話を聞くうちに、みんなに知ってほしいと考えた。ピーターのしたことが、どれほどたいへんで勇気あることだったか、それを伝えられるのは自分しかいないとマットは思ったのだ。

しかしそれは、簡単なことではなかった。「忘れ去られた銀メダリスト」の映画に興味を持つ会社などなかったのだ。しかし、マットはあきらめなかった。

オリンピックの映像を使用するには、多額の費用がかかる。関係者への取材や撮影費などと合わせると、製作にはおよそ2億円が必要だった。その資金を捻出するには相当な時間もかかる。マットは自らスポンサーを探す一方、自腹を切ってまで、映画製作に取り組んだ。ピーターがした苦労にくらべたら何でもない。信念を貫くことの意味をどうしても問いたい、と思ったのだ。

製作開始から5年近くが過ぎ、ピーターはすでに64歳になっていた。そして映画が完成する2年前の2006年10月3日、心臓発作で旅立った。

マットは言った。

「おじさん……、ごめんなさい。間に合わなかった」

出棺のとき、その棺に付き添ったのは、急きょアメリカから駆けつけたスミスとカーロスだった。2人は長年の友に弔いの言葉を贈った。

ピーターの死から2年後の2008年6月8日。マット・ノーマン監督のドキュメンタリー映画が完成し、オーストラリアで公開された。

「サリュート」と題された映画は、当初、わずか10数館の公開だったにもかかわらずクチコミで評判が広がり、観客数は大幅な増加に転じた。反響は当初の予想をこえ、海外からも公開を希望する声が届く。最終的に「サリュート」は、アメリカをはじめ世界6カ国で上映された。しかも、8つの映画賞を受賞したのだ。

その4年後の2012年8月、オーストラリア議会がピーター・ノーマンの名誉を回復するための動議を採択した。議会はピーターの母、91歳のセルマさんを招き、謝罪した。

オリンピックの舞台で、自らの信念を貫いたピーター・ノーマン。彼の勇気と信念は、半世紀近くの時を経て、オーストラリアの人々に、そして世界中の人々に伝えられたのである。

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。